タイプライターに魅せられた男たち・第53回

黒沢貞次郎(6)

筆者:
2012年9月27日

再渡米を決めた黒沢は、店を庄野たちにまかせ、1908年4月14日、横浜港からパシフィック・メールのコリア丸で、単身、旅立ちました。4月29日、サンフランシスコに到着した黒沢が見たものは、2年前の大地震から復興しつつあるサンフランシスコの街でした。レンガ造りの建物は、ほとんどが倒壊してしまっていましたが、RC構造(Reinforced Concrete Construction)いわゆる鉄筋コンクリートの建物は、大地震を耐え残っていたのが、黒沢には印象的でした。

シカゴやクリーブランドを巡り、5月15日、黒沢はシラキューズに到着しました。シラキューズで黒沢は、スミス・プレミア社のダイアー(William Allen Dyer)に会い、工場を見学すると共に、日本でのタイプライター需要は今後ますます増大する、との見通しを語って聞かせました。さらに黒沢は、「Smith Premier No.4」を改造したカタカナ・タイプライターのアイデアを、ダイアーに持ちかけました。活字を90度回転させて、縦書きにするというアイデアです。濁点と半濁点は、左端の活字棒2本を少し短くした上で、プラテンの移動機構と連動させないようにすれば、直前の文字に重ね打ちできるはずでした。しかしダイアーは、このアイデアに乗ってきませんでした。実は、スミス・プレミア社には、新たなタイプライターを開発する余力などなかったのです。

シラキューズで黒沢は、L・C・スミス&ブラザーズ社も訪れました。シラキューズに限らず、サンフランシスコやシカゴにおいても、「Smith Premier No.4」より「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2」の方が売れているのは、黒沢の眼にも明らかでした。

L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2

42キーでシングル・シフト84字、フロントストライク式の「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2」は、それほど魅力的なタイプライターだったのです。しかも、スミス・プレミア社の主だった技術者は、どうやらL・C・スミス&ブラザーズ社に移ってしまっているようでした。悪く言えば、技術者を引き抜いたのです。

L・C・スミス&ブラザーズ社で、黒沢は、しかし、あまり歓迎されなかったようです。黒沢がスミス・プレミア社の日本総代理店であることは、すでに『The Post-Standard』紙など地元の新聞を通じて、シラキューズの町に知れ渡っていました。L・C・スミス&ブラザーズ社とスミス・プレミア社は、微妙に緊張した関係にあって、お互いに手の内を見せたくない間柄だったのです。結局、黒沢は、「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2」の輸入契約こそ結べたものの、それ以上は望むべくもありませんでした。

1908年6月11日、黒沢は、ホワイト・スター・ラインのバルチック号でニューヨークを出帆、リバプールに向かいました。その後、黒沢は、ロンドン、パリ、モスクワなど各都市を巡り、日本に帰国したのは7月の終わりでした。

黒沢貞次郎(7)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。