再渡米を決めた黒沢は、店を庄野たちにまかせ、1908年4月14日、横浜港からパシフィック・メールのコリア丸で、単身、旅立ちました。4月29日、サンフランシスコに到着した黒沢が見たものは、2年前の大地震から復興しつつあるサンフランシスコの街でした。レンガ造りの建物は、ほとんどが倒壊してしまっていましたが、RC構造(Reinforced Concrete Construction)いわゆる鉄筋コンクリートの建物は、大地震を耐え残っていたのが、黒沢には印象的でした。
シカゴやクリーブランドを巡り、5月15日、黒沢はシラキューズに到着しました。シラキューズで黒沢は、スミス・プレミア社のダイアー(William Allen Dyer)に会い、工場を見学すると共に、日本でのタイプライター需要は今後ますます増大する、との見通しを語って聞かせました。さらに黒沢は、「Smith Premier No.4」を改造したカタカナ・タイプライターのアイデアを、ダイアーに持ちかけました。活字を90度回転させて、縦書きにするというアイデアです。濁点と半濁点は、左端の活字棒2本を少し短くした上で、プラテンの移動機構と連動させないようにすれば、直前の文字に重ね打ちできるはずでした。しかしダイアーは、このアイデアに乗ってきませんでした。実は、スミス・プレミア社には、新たなタイプライターを開発する余力などなかったのです。
シラキューズで黒沢は、L・C・スミス&ブラザーズ社も訪れました。シラキューズに限らず、サンフランシスコやシカゴにおいても、「Smith Premier No.4」より「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2」の方が売れているのは、黒沢の眼にも明らかでした。
42キーでシングル・シフト84字、フロントストライク式の「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2」は、それほど魅力的なタイプライターだったのです。しかも、スミス・プレミア社の主だった技術者は、どうやらL・C・スミス&ブラザーズ社に移ってしまっているようでした。悪く言えば、技術者を引き抜いたのです。
L・C・スミス&ブラザーズ社で、黒沢は、しかし、あまり歓迎されなかったようです。黒沢がスミス・プレミア社の日本総代理店であることは、すでに『The Post-Standard』紙など地元の新聞を通じて、シラキューズの町に知れ渡っていました。L・C・スミス&ブラザーズ社とスミス・プレミア社は、微妙に緊張した関係にあって、お互いに手の内を見せたくない間柄だったのです。結局、黒沢は、「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.2」の輸入契約こそ結べたものの、それ以上は望むべくもありませんでした。
1908年6月11日、黒沢は、ホワイト・スター・ラインのバルチック号でニューヨークを出帆、リバプールに向かいました。その後、黒沢は、ロンドン、パリ、モスクワなど各都市を巡り、日本に帰国したのは7月の終わりでした。
(黒沢貞次郎(7)に続く)