帰国した黒沢は、タイプライターや事務機械の輸入販売を続けながら、黒沢ビルの建設に着手しました。京橋区尾張町2丁目の銀座通りに面した角地を、黒沢は取得していました。銀座通りには東京鉄道の路面電車が走っていて、黒沢の取得した土地は、尾張町電停と竹川町電停のほぼ中間にありました。この銀座煉瓦街の一等地に、黒沢は本社ビルを建てることにしたのです。
当時、尾張町界隈で有名な建物としては、服部時計店と山崎洋服店がありました。尾張町電停の北角にあった服部時計店は、煉瓦造り2階建の上に、さらに高楼を建てて時計塔にしていました。一方、尾張町電停の東角にあった山崎洋服店は、木造3階建で、その上に望楼の付いた洋風建築でした。
しかし黒沢は、このような建物には見向きもしませんでした。木造建築は見栄えはいいのですが、大火事になりやすく、町全体があっという間に焼け落ちてしまいます。煉瓦造りの建物は防火性は高いのですが、地震が来れば一たまりもありません。この時、黒沢の頭にあったのは、サンフランシスコの大地震を耐え残ったRC構造の建物でした。けれども、少数の鉄筋コンクリート橋を除いて、RC構造の建物は日本国内には一つもなく、したがって施工できる建築業者もいなかったのです。そこで黒沢は、みずからの設計・施工で、RC構造のビルを建てることにしました。
黒沢は、建築に関しては全くの素人でしたが、井上秀二(京都市土木課)や後藤佐彦(内閣鉄道院)の「鉄筋コンクリート」の研究書を読破し、さらには欧米の関連書籍まで読み漁って、RC構造の技術を修得していきました。その技術を元に、RC構造3階建の黒沢ビルを設計し、1909年10月18日に着工しました。
鉄筋の代用品には、東京鉄道から払い下げられた古レールを、錆を落とした上にモルタルを塗って使いました。コンクリートは、愛知セメントから購入した極微ポルトランドセメントに、花崗岩を砕いて砂と水と混ぜて練りました。外壁は煉瓦タイルで化粧し、陸屋根はアスファルト防水です。実際の施工作業をおこなったのは、黒沢商店の従業員たちでした。全てが手探りで、全体の3分の1にあたる1期工事が竣工したのは、1910年12月10日のことでした。
1期工事部分で黒沢商店を営業しながら、黒沢は1911年3月31日、黒沢ビルの2期工事に着工しました。2期工事では、コンクリートの粗骨材に、花崗岩ではなく煉瓦を砕いて用いました。階段は、プレキャストコンクリートのボルト締め工法に挑戦しました。1911年10月31日に2期工事は竣工し、続けて1912年2月14日、3期工事に着工しました。3期工事では、コンクリートの粗骨材に、川砂利を用いました。まさに試行錯誤の連続だったわけです。そして黒沢は、1913年の年始を、完成した黒沢ビルで迎えました。RC構造3階建、延床面積245坪、黒褐色の威容を誇る建物が、銀座通りに出現したのです。
(黒沢貞次郎(8)に続く)