言い方がゆれていることばを辞書に載せる場合、どちらを採用すべきかが問題になります。『三省堂国語辞典 第六版』の編集段階で、「足をすくわれる」と「足下(あしもと)をすくわれる」とのどちらの言い方が適当か、議論になりました。
一般には、「足をすくわれる」が正しいという主張が目につきます。たとえば、日本語の誤用を批判するある本では、「足下」というのは立っている足のあたりのことだと言い、すくうのは足そのものであって、足下ではないと説明しています。
なるほど、理屈が通っているようです。でも、「足下」には足先の意味もあります。「足下が冷える」とか、〈部屋に入ろうとすると、足もとに何か触れた。〉(河野多恵子「幼児狩り」1962年)とか言うのはその例です。『三国 第六版』の「足下」にも、〈足の、先の ほう〉という意味が加えられました。したがって、「足下」はすくうこができます。
また、「足をすくわれる」のほうが本来の言い方だとの意見もあります。でも、「足を~」も「足下を~」も、それほど古い例が確認されていない点では同じです。ウェブサイト「日国 .NET」(小学館)の資料によれば、「足をすくわれる」の古い例は、目下のところ昭和初期のものです。一方、「足下をすくわれる」は、手元の一番古い例は1950年代のもので、資料の上では20年ほどの差しかありません。「足下を~」の一例を以下に示します。
〈この人には、夢はない。冷静に現実を見ている。建一郎は足もとをすくわれる気がした。〉(石川達三『人間の壁(上)』〔1958年〕新潮文庫1981年37刷 p.233)
このように、理屈の点からも、言い回しの新古の点からも、「足下を~」を不採用にする理由はないと考えられます。しかも、この考えをさらに強固にする用例があります。それは、『三国』の初代主幹で、日本語の用例収集に一身を捧げた見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)自身が、著書の中で「足下を~」を使った例です。
〈石黒氏の指摘は、ほんとうに足もとをすくわれたような驚きを私に与えた。〉(見坊豪紀『辞書と日本語』玉川大学出版部 1977年 p.40)
いわば、辞書の神様のお墨付きを得たようなわけで、「足下をすくわれる」も、「足をすくわれる」も、仲良く『三国』に載りました。ただし、語釈は「足をすくわれる」のほうに記し、「足下をすくわれる」は空見出しとしてあります。