このたび三省堂さんのご厚意により,ことばとキャラについて毎週金曜日に,この場で座談会を開かせていただけることになりましたこと,これまでこちらで連載させていただいていた私からご案内申し上げます。「ことば」にせよ「キャラ」にせよ,立場によって意味内容は様々ですが,そのあたりも含めてお話しできたらと思っています。
私と一緒に座談会にご参加くださるのは,次の方々です。(五十音順)
金田純平さん(国立民族学博物館)
金水敏さん(大阪大学)
宿利由希子さん(神戸大学院生)
瀬沼文彰さん(西武文理大学)
友定賢治さん(県立広島大学)
西田隆政さん(甲南女子大学)
アンドレイ・ベケシュ(Andrej Bekeš)さん(リュブリャナ大学)
皆さま,どうぞよろしくお願いいたします。
さっそくですが,私が最近ちょっと気になっていることを書いて口火を切っておきます。
私たちの日常的なコミュニケーションにおけるキャラが論じられることは,いまではもう珍しくありませんが,その中で私がよく見かけるのが「若者コミュニケーションにおける」という限定です。要は,若者は人から或る特徴づけをされると,その特徴が消えないように自分で保持しようとする,ということのようなんですが,これはそんなに「若者は」,と限定しないといけないことなんでしょうか?
芸能人なら昔から「シメた! これで客に覚えてもらえる」てな具合だったでしょうし,また,私が連載「日本語社会 のぞきキャラくり」で取り上げた(本編第13回),井伏鱒二の小説「掛持ち」(1940)でも,周囲から『気のきいた粋な番頭さん』と勝手に思われた出稼ぎの番頭が,それなりに手間暇かけて身なりを整えるという話が出てきます。私なんか,「いまの若者は,人から与えられた特徴づけを自分で守ろうとしている」と言われても,「ああ,いまもやっとるなぁ。若者がんばれよ」と思ってしまうのですが,これは私がどんな風にドンカンなんでしょうか?
「若者のコミュニケーション」論に関して,私がもう一つわからないのは,「キャラかぶり」です。「集団内で各メンバーが特徴づけられる,つまりキャラづけされる時,キャラかぶりは注意深く避けられるのだ」という話が多いようなのですが,その中で,瀬沼さんの『キャラ論』(STUDIO CELLO,2007)やそれを改訂された『なぜ若い世代は「キャラ」化するのか』(春日出版,2009)には,「おそらくそういうことなんだろう。アンケート調査の結果自体は必ずしもそうではないけれど」という,ちょっと慎重な姿勢を感じました。そこでは「グループがボケキャラばっかりだから,自分でツッコミキャラになった」という或る高校生の発言も紹介されていて,瀬沼さんはこの高校生がグループの「穴」を埋めたことに注目されているのですが,「ボケキャラばっかり」つまり『ボケ』キャラが並び立っているという部分は,キャラかぶりが必ずしも忌避されないことを示しているようにも思えます。そもそも,これまで言われている「キャラかぶり」の「キャラ」って,具体的にどんなものなんでしょうか?
なんだか後半から瀬沼さん目当て,という感じになってしまいましたが,瀬沼さんいかがでしょう?