『かのように』と『こころ』
2009年 7月 27日 月曜日 筆者: 新井 皓士クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(59)
漱石の『彼岸過迄』や『行人』の文体分析に関連して、ほぼ同時期の鷗外作品をのぞいていたら、今まで気にならなかったこんな一節が眼に飛び込んできた。「子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。」
「クラ独」の編集には及び腰で携わってきたものの、格別深い縁もなければ社史の類をみたこともなかったので、ここに「三省堂」とあるのが現在の三省堂と直結するか咄嗟に不明ではあった。しかし何だか遠い親戚のうわさを思いも寄らぬ所で耳にしたような感じがした。で、念のため、某社の百科事典をみると、どうやらこれは紛れもなく我らが三省堂のことらしい。この小説は明治45年、すなわち1912年の初めに公になったが、三省堂の創業は1881(明治14)年、英和辞書や日本通史、『辞林』で大当たりする一方、独自の印刷技術も開発し、「日本百科(大)事典」の編纂を企て、壮図半ば「1912」年に一旦倒産、有志の協賛を得て1919年に10巻本のそれを完成させた、とある。鷗外の何気ない「三省堂の世界地図」云々が、こういう背景と特にかかわりがあるかどうかは別にして、ちょっと面白く感じた。
この小説は『かのように』という意味ありげなタイトルをもっている。五條秀麿という主人公がベルリン留学の途次に折々送る家信を受けとった父母を描いた場面だが、表題はファイインガー (Hans Vaihinger, 1852-1933) の主著 “Die Philosophie des Als Ob” (1911) からきている。およそ人知の根底には「意識した嘘」(仮説)があり、あたかも実在する「かのように(als ob)」、公理や神や霊魂の措定が不可避だとする哲学を引用して、「国史」記述上の神話と歴史の峻別問題に直面し懊悩する「高等遊民」を扱った「小説」である。紀元節問題も絡むのであろう、真に学術的な「国史」執筆の企図を韜晦せざるをえず鬱々と日を送る主人公は作者の一分身でもあろうか。
この年7月30日、天皇崩御、「明治」45年は直ちに「大正」元年となった。改元の乱発より「一世一元」法は物事を長期的視点で考える意味では改善ではあるが、12月25日を境とする大正15年・昭和元年の切り替えや、1月7日を境とする昭和・平成の切り替えなどを直視すれば、やはり中途半端といわざるをえまい。まさか大正元年の出生者数や昭和63年の死亡者数は極端に少ない、などとは中学生でもいうまいが。
漱石の『こころ』は明治天皇崩御後ほぼ丸3年経つ時期に書かれ、「私」なる青年が私淑する「先生」が「明治の精神に殉死する」遺言をもって終わっている。青年「私」の「先生」への傾倒ぶり(一部、二部)や、「先生」の遺書からなる三部における「私」(先生)の述懐と自決にやや独りよがり(ないし説明不足)の感がすること、その他細かな点をあげつらう向きもあるが、何よりも人のこころの頼りなさ・不気味さ・憐れさに視点を定め、リアルで凝縮した描写が重ねられる点において、時をおき何度読み返してもその都度ひきこまれる魅力をもっているように感じられる。そもそも「こころ」とは、精神でも霊魂でも性根でも情念でもない、何か翻訳しきれぬ、もやもやしたものである。いわゆる上代特殊仮名遣いでは、「コ」も「ロ」も乙類に属し、“kokoro”ではなく、“kökörö”と表示される興味ある語でもある。私の気付いた「こころ」の歌3例を提示して、この項を閉じることにしよう。
(1)万葉集巻3 柿本人麻呂歌
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念
あふみのみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ
(2)万葉集巻5 山上憶良
伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
はしきよし かくのみからに したひこし いもがこころの すべもすべなさ
(3)古今和歌集巻20
かひがねを さやにもみしが けけれなく よこほりふせる さやのなかやま
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【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員
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【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。







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