日本語社会 のぞきキャラくり 第54回 中国でこわかったこと
2009年 8月 30日 日曜日 筆者: 定延 利之中国でこわかったこと
前回、中国での滞在に少し触れたが、そういえば、中国ではこわい思いをしたことがある。といっても、宿舎で強盗騒ぎがあって、駆けつけた警官が5時にみんな帰ってしまった時のことではない。行くなと言われていた通りの道ばたに注射器を見つけたことでもない。家内が自転車で走っている最中にリュックの財布を盗られたことでもない。
それはA大学のA先生の研究室を訪問することになり、約束どおりの時間に、A先生の研究室のドアをノックした時のことである。
“請進(チンジン)!”
と、怒号のような厳しい声が中から聞こえてきて、私はドアの前で凍りついた。
いま「お入りください」と言った声はまぎれもなくA先生。まさか、あの温厚なA先生がこんな風に怒鳴られるとは。部屋の中ではなにか大変なことが起きていて、それで怒りにまかせてあんな声を出されたに違いない。これは、どうだろう。「お入りください」とは仰ったものの、いま自分が入っていって顔を合わせたらA先生は恥ずかしい思いをされるだろうし、自分も気まずい。入っていかない方がいいのではないか。そもそも、A先生は本当に“請進!”とおっしゃったのか。外国人である自分の聞き間違いではなかろうか――てなことが頭をかけめぐるうち、
“請進(チンジン)!”
と、再びやけっぱちのような大声で怒鳴られ、私はおそるおそるドアを開けて中へ入った。
正面にパソコンがある。画面を見つめている男が一人、イスをくるりと回転させてこちらに不機嫌そうに向き直った。と思った瞬間、私を認めて仏頂面がニッコリ笑顔に変わり、私の知っているA先生がそこに現れた。
その後、A先生と、どんなことをどう話したのかは覚えていない。汗にまみれた手で研究室のドアを閉めると「A先生、イツモニコニコ笑顔デ、イイ人ト思ッテタケド、ソウジャナイ。ソウジャナイヨ。ア~ア。見チャッタヨ」という思いがぐるぐる渦巻いた。
この日のことは、A先生にとっては面目を失う不名誉な出来事であろうから、私は他言をはばかっていた。だがそのうちに、日中の言語文化差について中国人研究者と話す機会があり、そこで個人名をはずしておそるおそるたずねてみると、何と、と言うべきか、それともやはりと言うべきか、中国語社会ではああいうことは恥ずかしいことでも何でもないのだそうな。「誰だかよくわからない人に対しては冷たいスタイルに出る。知人に対しては温かいスタイルに出る」という、当たり前のスタイル変化の域を出ていない。つまりA先生の温厚なキャラクタは、冷たいスタイルと、まったく問題なく両立するという。
「まったく問題なく」という部分は私も半信半疑だが、傾向としては確かにそういう日中差があるようだ。市場に買い物に来たおばちゃんどうしの罵り合い、つかみ合いのバトルなんか、何回見たかわからない。そういえばB大学のB先生も、私と一緒に街を歩く時、私には笑顔を向けて話しながら、近寄ってくる物乞いは、実に冷たく追い払っていらした。定延には笑顔で、物乞いにはしかめっ面。定延には笑顔。物乞いにはしかめっ面。笑顔は定延。しかめっ面は物乞い。間違えられたらどうしようと、ドキドキしながら一緒に歩いていたなんて、B先生ご存じないだろうなあ。
声を荒げたり、しかめっ面で人を荒っぽく追い払ったりなんて、日本語社会の『いい人』はできません。誰に対してもいつもニコニコが日本の『いい人』の基本です。どんな時でも決して笑顔を絶やさない日本のスチュワーデス、いや、最近ではフライトアテンダントと言うべきかもしれませんが、日本の『いい人』キャラをモデルにしているんでしょうか?
◆この連載を続けてお読みになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」目次へ
◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。







![『新明解国語辞典 第七版[机上版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の机上版。判型は並判より大きいA5判で、さらに文字が大きく見やすい。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[机上版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kijo.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[小型版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の小型版。並判より一回り小さいA6変型判で、携帯にも便利。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[小型版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kogata.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[革装版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の革装版。丈夫で使うほどに手になじむ。判型は並版・特装版と同じB6判。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[革装版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kawaso.jpg)
















































































































































2007年









