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日本語社会 のぞきキャラくり 第100回(最終回) なぜキャラクタを考えるのか?(下)

2010年 7月 25日 日曜日 筆者: 定延 利之

なぜキャラクタを考えるのか?(下)

 なぜキャラクタを考えるのか? 日本語教育と言語研究の観点から、その理由を述べてきた(第98回第99回)。言語研究と重なる部分があるが、最後に、コミュニケーション研究の観点からも付け足しておこう。

 大人と子供の会話。子供が「だから、んーと……」のようにことばに詰まると、大人が「じゃあ、こんどの子供会に出るのはやめとくか」と助け船を出し、子供が得たりとうなずいたとする。

 こういう会話について「子供の発言は言いよどまれており、流ちょうと呼べるものではなかったが、実は子供はこのしゃべり方で、大人からの支援を呼び込むことに見事に成功したのである」などと分析されることがあるかもしれない。(いや実際、あったりする。)こういう分析は、一面の真理をついている場合もあるだろうが、常にそうとはかぎらない。子供は大人の支援を呼び込む意図などなく、ただただ途方に暮れてことばに詰まったのであって、仮にこの会話直後に「コミュニケーションができなくてつらい。ごめんなさい」などと書き置きして死んでしまったとしたら、「大人からの支援を呼び込む」「見事に成功」分析は一体何だったのかということになる。

 赤ん坊がよちよち歩くのが危ないと、見かねた親が抱きかかえたとしても、抱かれた赤ん坊は親の死角でVサインなど(たいてい)しないだろう。意図が必ずしもないところに意図を見立て、何気ない行動を「目的の達成」とみなすということは、コミュニケーションで生じるさまざまな事柄(たとえば、よちよち歩きやたどたどしい話し方)を、常に成功としか見ないことにつながりかねない。現実には、多くの人びとはコミュニケーションの成功とはほど遠いところにあり、コミュニケーションのことで悩んだり引きこもったり、死んでしまったりしている。そこまではいかないにしても、他人とコミュニケーションするほどおそろしく、うっとうしいものはないと感じている人は、少なくはないだろう。

 コミュニケーション参加者たちの絶え間ない「成功」ではなく、現実の「幸」と「不幸」を捉えるには、意図とは必ずしも結びつかない等身大の「話し手」像にこだわる必要があるだろう。たとえば、『白い巨塔』(1969)の佐々木よし江未亡人や、『或る女』(1911-1913)の田川夫人の「不幸」とは、つい昨日まで『格上』だったのに落ちぶれてしまい、『格下』だったはずの者に『格上』として振る舞われ、それを認めることができずに戸惑い憤慨するというものだった。それを冷ややかに眺めやる業者の野村や早月葉子の「幸」とは、新しい『格上』としてのものだった(第49回~第52回)。まあ、あまりさわやかな例ではないけれども、この連載では、キャラクタを考えることで、コミュニケーションの「幸」「不幸」の一端には触れられたかと思う。

 

 コミュニケーションにおける私たちの「幸」と「不幸」を「キャラクタ」的な観点から捉えようとする試みとしては、すでに瀬沼文彰『キャラ論』(STUDIO CELLO, 2007)や相原博之『キャラ化するニッポン』(講談社, 2007)がある。だが、これらは小泉長期政権や登校拒否にも論が及ぶような、最近の日本の世情や若者のコミュニケーションに焦点を当てたものである。たとえば太宰治の戯曲『春の枯葉』(1946)で、若い男女が「あなたの兄さんは、まじめじゃからのう」「あなたの奥さんだって、まじめじゃからのう」と『老人』のように言い合う遊びの場面を取り上げて「私たちは昔から、こういうことをずっとやってきた」とするこの連載は(第10回)、「最近」や「若者」に限らない形で、日本語社会の「コミュニケーション」を、さらに「ことば」を論じようとしたものであって、そもそも論じようとする対象がこれらとは異なっている。

 対象の違いは当然ながら、「キャラクタ」に対する考えの違いを生む。たとえば、相原氏の上掲書で紹介されている伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ―』(NTT出版, 2005)では、マンガ表現が論じられる中で、「キャラクタ」と「キャラ」が別物として区別されている。それは、両者を区別することがマンガ表現論にとって有効だと伊藤氏が判断されたからだろう。また、瀬沼氏が自著の中で「キャラクタ」「アイデンティティ」「役割」いずれとも違ったものとして「キャラ」という用語を考えられるのも、それが最近の若者の人間関係やコミュニケーションを論じる上で有効だと瀬沼氏が考えられたからだろう。同様に、私が「キャラクタ」と「キャラ」を区別しない一方で、これらと「スタイル」「人格」との違いにこだわってきたのも、日本語社会のことばとコミュニケーションを論じる上で、この措置が有効だと考えるからである。それぞれの論者が、論じたいことに応じて独自の「キャラ(クタ)」定義を持つことは、当たり前のことだろう。

 もちろん、統一的な「キャラ(クタ)」論をあれこれ考えてみることは、私にとっても楽しいことではある。マンガ表現を対象としつつも、その論を通して「他の表現行為や学問分野、社会的な事象と接続する回路が開かれる」という伊藤氏の開放的な考えは、伊藤氏一人だけのものだけではない。だが、分野を超えて、それぞれの「キャラ(クタ)」論どうしを結びつけるにはまず、他の「キャラ(クタ)」論と結びつけるべき私自身の「キャラ(クタ)」論をはっきりさせる必要がある。

 相手に応じて自在に変えてよいスタイルと違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、「うわ、こいつ、オレの前では猫かぶってたんだ」「この人、強い相手にはとことん弱いな」「あの人、恋人の前ではこんな3頭身になっちゃうんだ」などと、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、見られた方だけでなく、見た方も気まずいもの。かといって、「人格」ほど根本的ではないもの――このような「キャラ(クタ)」の定義で、日本語社会のことばや、コミュニケーション(の幸・不幸)がどのように論じられるのか。この連載ではこれを、なるだけ具体的に示したつもりである。

 ここで定義された「キャラ(クタ)」は、「スタイル」「人格」と併せて、本来的には「帰属(attribution)」という社会心理学的な観点からまとめ直せると私は考えている。だが、そのような試みに乗り出す余裕は少なくとも今の私にはない。この連載で述べてきたのは結局のところ、日本語社会において、1人の話し手が発することばの多様性や、コミュニケーションの幸・不幸を捉えるには、「スタイル」と「人格」だけでは限界があるということに尽きる。そのことさえ読者に納得いただければ、小論の目的は果たせたかと思う。

 長い間のご愛読ありがとうございました。

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お断り:小論の中で表記の統一をとるため、文献にある「キャラクター」を、今回「キャラクタ」という表記で引用させていただきました。連載中、厳密には「日本語を母語とする者」「日本語を非母語として学習する者」と書くべきところを、わかりやすさを最優先して「日本人」「外国人」とした箇所があることも、併せてお断りしておきます。また、『おかま』『外人』『おやじ』など、差別的ニュアンスを持つこともある語群をキャラクタ名として使っているのは、キャラクタを観察する上で差別意識を明るみに出すことが必要と判断したためで、差別意識を助長する意図はありません。ご理解頂ければと思います。

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お礼:本務校である神戸大学、非常勤先の関西学院大学、京都大学(五十音順)の学生諸君には、さまざまな有益な意見をいただきました。また、原稿のアップや画像については毎回、三省堂辞書出版部の荻野真友子さん、山本康一さんにお世話になりました。ここに記して謝意を表したいと思います。小論は、日本学術振興会の科学研究費補助金による基盤研究(A)「人物像に応じた音声文法」(課題番号:19202013、研究代表者:定延利之)、基盤研究(B)「役割語の理論的基盤に関する総合的研究」(課題番号:19329969、研究代表者:金水敏)の成果の一部です。

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◇この連載の中国語版と英語版
  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

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【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。

2010年 7月 25日