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漢字の現在:ベトナムで漢字は復活する?

2011年 6月 14日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第107回 ベトナムで漢字は復活する?

 ベトナム語のクオックグウという名のローマ字は、世界の中でも字の種類が多い。母音の「a」にも、音韻の差を示すために「ˆ」が被さったり、「ˇ」が乗っかったりすることが多い。そこにさらに6つの声調(アクセント)を表すために「~」「・」など5種類の記号が上下に付される。


チュノムで書かれた文と遭遇。ハノイの文廟で。
このたぐいのチュノムの現代での使用例を
数例見つけることができた。(クリックで拡大)

 「ẫ」など、不便で識別もたいへんなのでは、と外国人として思うことがある。25年前の授業のプリントは、英文タイプ打ちのローマ字に、そうした記号が手書きで添えてあった。「・」などと解されるものが印刷時のただの汚れであることもあった(思えば、かのJISの幽霊文字の原点のようだ)。

 ネイティブの方々の手書きは、記号の形がいっそう不明確に見え、特定しにくいときがある。しかし、そうした老婆心とは裏腹に、学生たちには別に何の苦もない様子で、とくに文脈の中ではスムーズに読解されている。文字はやはり慣れが大きいのである。現地の方もむろん書き間違えや打ち間違えなどは起こしていたが、とくに不慣れな外国人にとってはこのローマ字体系には違和感が消えにくい。記号をとって発音すれば近似の音が得られるが、ベトナムの人からすれば異なるいくつもの音をいっしょくたにされることになる。

 ベトナムでは、1音節の単語は、ローマ字にすると、長いものはnghiêng(傾く)のように7字にまでなる。もっと長いのもあったかもしれない。ちなみにチュノムで書けば「迎」と1字になる。また、「(迎+右上に小さく「く」)」と記号を付して漢字と区別したものや、「(傾+迎)」のようにやけに横に伸びそうなものなどもあった。trưởngは漢字では「長」というように、6字に、さらに記号が3つも付くような表記まである。

 さて、2日間、6時間にわたった講義も、いよいよ終わりに近づいてきた。ここで、忘れては帰国してから後悔の種となるので、学生諸氏に尋ねてみた。

 皆さんは、ベトナムで漢字を復活させたいですか?

 意外にも、皆、このクオックグウのままでいいと語る。まだ決して裕福とまではいえない社会において大学に入ることが許され、しかも漢字を学ぶ若者たちの意見として、重く響いた。最初に聞いた、「漢字が好きだ」と声をそろえての拍手と矛盾するようだ。しかし、学生たちは漢字は学ぶ上では確かに好きだけど、生活の中にまで面倒なものを持ち込みたくない、という意識をもっているのだろう。やはり、ローマ字の方が漢字よりも簡単であり、一度すべてを表音文字でやりくりするようになると、それが習慣化し、ニュアンスなどの表記の遣い分けも忘れ、過去に戻ることは困難となるようだ。日本人も、個々人において、幼稚園でひらがな、カタカナを学習し、表音文字だけの世界を経験している。それから、小学校で正式に漢字も、というケースが多いのではあるが、それは発達段階を追ってのことなので、状況は明らかに違う。

 2、3年前に、ベトナムの国会で、漢字を復活させるかどうか議論がなされたという。ただ、何で漢字をとかいうことで、漢字復活は推進されることはなかったとのことだ。ハノイの大学教授たちからも、漢字教育を始めるべきだとの提言が文部科学省に当たる機関になされたそうで、そのことと関連するのかもしれないが、そこでは、歴史との断絶を生み出してはいけないということと、中華圏との関わりが意識されてのことだという。

 ただ、ベトナム語表記のために漢字を復活させるとなれば、チュノムもその動きに追随させる必要性も出てくるであろうし、そうすれば変化した現代語に対応させることに種々の困難も伴うであろう。何よりも子供たちにとって、たいへんなこととなるのだろう。

 間もなく中学に入る男児に、ベトナム人は漢字よりもローマ字がいいんだって、と話してみたら、「そりゃそうだ。漢字は、漢字テストがなきゃ、好きだけど」と答える。そうか。思えば、ベトナム人の書いた漢字であっても、筆で書かれた「壽」の伝統的な異体字も「ことぶき」とこの子が読めたのは、「実況パワフルプロ野球」というゲームに、「3本書いて…」という形のこの「寿」という字がキャラクターの名として出てきたためだという。そして幼稚園を卒園したばかりの男児だって、ベトナム航空の機内で雑誌に載っていたベトナムの「大」の崩し字を、テレビのレンジャーもので覚えていて「おー、ダイ」と音訓ともに読めた。漢字を身につけさせるための試験が逆に子供から漢字を心理的にも遠ざけているのだとしたら、それは本末転倒なことといわざるをえず、どうにか変えていく道を探す必要があるのだろう。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「美」は嬉しくない?」でした。

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2011年 6月 14日