日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第91回 誤解について

筆者:
2015年8月2日

ボルドーでの会議を受けて,スロベニアのリュブリャナ大学で開催されたキャラクタのワークショップでは,私は「キャラクタとは何か」ということよりも,むしろ「キャラクタとは何でないか」を話すことになった。ボルドーで受けた質問やコメントの中には,「キャラクタ」という日本発の新しい考えに対する誤解に基づいているものが少なくなかったためである。

誤解のうち,最も根本的と思われたのは,「キャラクタは,既存の理論枠組み(たとえばバフチンのポリフォニーやゴッフマンの自己呈示,オクスの社会的アイデンティティ,ガンパーツの文脈化,さらには批判的談話分析)と対立し競合する,一つの理論だ」というものである。これが誤解であることを,私は以下のように説いた。

キャラクタは,今日では若者にかぎらず沢山の日本語母語話者が日常生活の中で口にし,意識にのぼらせる概念ではあるけれども,それ自体は「理論」ではない。キャラクタは,既存の理論枠組みと何ら競合的な関係に立つものではない。キャラクタはそれらの理論枠組みを否定しないし,正当化もしない。

ではキャラクタとそれらの理論がまったく関係ないかというと,そうでもない。多くの理論はキャラクタという概念を取り入れることによって,説明力を増すことができるだろう。キャラクタに関して理論間に対立・競合があるとすれば,それは,「キャラクタという概念を受け入れられる理論」と「キャラクタという概念を受け入れられない理論」の間にしかない。

「キャラクタという概念を受け入れられない理論」とは,人間のコミュニケーション行動として意図的な行動しか認めない理論である。この理論は,たとえば「あくびが伝染る」,つまりAさんが思わずあくびしたところ,その場にいたBさんが思わず釣り込まれてあくびするという現象や,「もらい泣き」,つまりAさんが泣いてしまい,その様子を見ていたBさんまで思わず感涙するという現象を,コミュニケーション行動として認められない。この理論の前提には「人間は目的を達成するために,状況に応じてスタイルを変える。スタイルは状況に応じて変わるが,人間じたいはどんな状況下でも(病理的な多重人格にでもならないかぎり)変わらない」という,伝統的な人間観がある。これまで述べてきたように,キャラクタという現象は,この伝統的な人間観では受け入れられない。

こんなことを私に言われて,参加者たちがカンカンになって怒ったかというと,どうもそんなことはないようだ。というのは,ワークショップ終了後に,私は,リュブリャナ大学が発行している英文オンラインジャーナルACTA LINGUISTICA ASIATICAで「キャラクタ」の特集号を組まないかというお誘いをいただいたからだ。この雑誌が出るのはもう少し先だが,私自身だけでなく,いろいろな方々に論文投稿をお願いしたので,ぜひご覧いただければと思う次第である。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。