「ハサミの機能は?」と言われれば,「紙や布を切ること」などと誰でも答えることができる。だが,「秋の日の機能は?」「18歳の機能は?」と問われれば返答に詰まってしまうだろう。
機能という概念はどのようなものにも想定できるものではない。機能は,何らかの目的を達成するための道具が持つものである。「花びらの機能は?」と訊ねられ,多少とまどった上で「雄しべや雌しべを守ること」「虫を惹きつけること」などとそれなりに答えられるのは,「植物は種族を繁栄させるために自分の身体を道具のように使う」というそれらしい見立てに思い当たるのに時間がかかるからである。
多くのコミュニケーション研究や言語研究は「発話の機能」「言語の機能」といった概念を当然視する。だが,いま述べた機能の目的論的性質からすれば,これらの概念は私が無条件に受け入れられるようなものではない。私が「キャラ(クタ)」を持ち出すのは,「多重人格のような病理的な場合を除けば,人間は変わらない。人間が目的を果たすために,状況に応じて柔軟にスタイルを変えているだけ,そしてそのスタイルに合わせてことばを使い分けているだけである」という目的論的な説明に限界を感じればこその話だからである。
そんな私の「キャラ(クタ)」に関する講演を,こともあろうに「機能言語学者」たちが聞きに来ると聞けば,私でなくても驚くだろう。2014年4月4日,フランスのボルドーモンターニュ大学で開催された国際会議で,それは起こった。
だが結果的に言えば,私は随分と好意的に受け入れてもらえたようだ。というのは,フランスで私が受けた質問は,「おまえの言うキャラクタの考えは,コセリウとどう違うのか?」「おまえの言うキャラクタの考えは,バフチンとどう違うのか?」「おまえの言うキャラクタの考えは,批判的談話分析とどう違うのか?」といったもの,つまり「おまえの言うキャラクタの考えは,我々が知っているこれこれの考えと近いように思えるが,実際どうなのか?」というものばかりで,「おまえの言うことはさっぱりわからない。一体何を言っているのだ?」というものではなかったからである。
それに何より,私はこのフランスでの講演の「続き」を急遽,同年8月26日にスロヴェニアのリュブリャナ大学でやらせてもらえることになったのだから,「好意的」と言って間違いではないだろう。少なくともヨーロッパの機能主義言語学は,私が考えていたよりも懐が深く,いろいろな考えに寛容なもののようだった。(続)