正月になった。「ご飯にするとお茶碗3杯分」と数えたりしながらお餅(前回)を食べる。焼いては砂糖醤油を付け海苔で巻いて食べ、雑煮に入れては味をしみ込ませて食べと、正月太りの一因となるものだ。
小学生の頃、日本海に面した田舎で、正月の前後に、炊きたてのもち米から杵と臼で餅を搗きあげる大人たちを見た。売られている切り餅しか知らなかった子供は、まだところどころに米粒が姿を残したままの搗きたての餅のことを、「こんなものは本当の餅ではない」とむしろ思ってしまった。
さて、新年には、今年の抱負、などと称して色々な計画を立てたり、夢を抱いたりするものだ。それがあまりに実現不可能なものであれば、「絵に描いた餅」と言われてしまう。すなわち「画餅」という語は、日本ではガベイ、ガヘイ、ガビョウと様々に読まれる。
「絵に描いた餅」で実際にイメージされる「餅を絵に描く」とどういうものになるだろうか。実際に尋ねて描いてもらった。
すると、日本人であれば、立派な「鏡餅」、そうでなければ焼いて膨らんでいる餅がほとんどだ。これは大学生のばあいだが、年配の方々ではいっそう「鏡餅」のイメージが強くなっている。年末年始ということに関係なく、常に日本人の中で、立派なお供え餅こそが、絵に描くにふさわしい餅として意識されているようだ。風格と愛嬌を兼ね備えた鏡餅は、鏡開きの日がくれば再び脚光を浴びる。
「画餅」は、元は中国で生まれた漢語である。中国語でも、この語は「ホアビン」(hua4bing3)と発音され、千年以上にわたって使われ続けている。「画餅充飢」と四字熟語となって、もっと現実的な意味(絵に描いた餅で飢えをしのごうとする:空想によって自分を慰める)も生まれている。
しかし、その語を見聞きしている中国の人に、そこからイメージされる食品を描いてもらっても、「お餅」を描く人はまずいない。留学生たちはやはり小麦粉でできた中国の食品である「餅」(bing3 ビン)を描いた。円形で薄く、肉や野菜などを巻いて食べるので「巻餅」(juan3bing3 ジュエンビン)とも呼ぶ。時期を問わず食される、油を使ったそれに、モチモチとした粘りはない。
韓国では、「画餅」(hwa byeong ファビョン)よりも「クリメトック」(絵の餅)という固有語による表現がよく使われている。また、「画中之餅」(ファジュンジビョン)という四字熟語も用いられており、その意味は、「努力しても手に入らない物」と意識されることがあるそうだ。
韓国から来た留学生たちに、イメージされるものを描いてもらったところ、何と、丸くて小さな団子のようなものを幾つも描いてくれる。それが、皿の上に置かれている図だ(餅や団子を綺麗に重ねたがるのは日本の習慣なのだろうか)。これは、旧暦の8月15日の秋夕に食べる、もち米を蒸した白くて丸みのある「松ピョン(餅)」(ソンピョン)や、時期を問わずおやつとして食べる、茶色いきな粉餅の「インジョルミ」(injyeolmi 固有語)だそうだ。後者はあまり聞かないが、もち米を蒸し、搗いてから薄く伸ばし、切ったものだ。
満月といえば、まだ幼かったころ、夜に空を見上げてまん丸い月を見ると、そこに兎が餅搗きをしているように見える、と教えられた。「そうかなあ」と月の黒っぽい部分を目を凝らして眺め、見える、いや見えないなどと思ったものだ。
平成生まれの学生たちでも、母親や保育園の先生、絵本などから、そのように教わった、という者が大多数を占めている。マクドナルドの月見バーガーのCMでもそうだったと言う学生たちもおり、大人になってからイメージをより固定化させるための再生産がさまざまなメディアで続いているようだ。
韓国でも、同様に、兎が餅を搗いていると言い伝えられているという。兎は2羽で仲良く搗いているともいわれる。台湾でも兎が餅を搗いていると見立てるそうだ。
しかし中国大陸では、そのようには教わらないという。漢代の昔から、月には兎(白い玉兎)がいるとされる(*1)。しかし、1羽の兎の姿と見られるほか、兎が何かしているとすれば杵である物を搗いているのだが、搗かれるものは餅ではなく薬(漢方)や薬草だとされる。このイメージは、元は道教思想によるもので、ついには「月」の異体字として「」という会意文字(あるいは象形文字といえるか)まで道教の本の中に登場したという。
この中国大陸発の伝説が東アジア各地に広まり、食文化の差が細部を変えさせたようだ。もち米を搗いて餅にして食べる地域では、満月を白くて丸い餅に重ね合わせたのであろう。
実は「餅」の字体も歴史上で変転を重ねてきたものであり、コンピューターでもOSやフォントによってその表れ方が異なっているのが現状である。この先、いかに固まっていくのであろうか。少なくとも漢字圏での「餅」は、2回にわたって記してきたとおり、ずいぶん柔軟なものであった。
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