発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べ(第57回~第72回)、さらに「観点が4つでは足りないのでは?」という、予想される疑問に答えた(前回)。だが、「観点が4つでは足りないのでは?」という疑問は、前回とは違った意味合いで発せられることもあるだろう。つまり、たとえば「「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。これでいいのか?」といった疑問である。ここではまず、私が「破綻キャラ」と呼ぶものから説明していこう。
そもそもキャラクタというものが、遊びの文脈を別とすれば表現意図とはなじまないということは、いくら強調してもしすぎることはない。たとえば、人から『豪傑』キャラと思われたいなら、山本周五郎の『豪傑ばやり』(1940)に出てくる「ニセ夏目図書」のように、やることなすことは周到に豪快を極めながら、それを演出する意図はみじんも気取られてはならない。(周五郎先生、ネタばれすみません。)
事実、図書がこの屋敷へ来てからの挙措言動は豪快を極めていた。朝起きるとからの酒で、言葉通りでん(「でん」に傍点)と腰を据えたまま浴びるように飲む。酔えば調子も節も度外れな声で放歌する、よく聞いていると、
──ああ やんれさの やんれさの ああやんれさの やんれさの やんれさの。
何処(どこ)まで行っても同じ言の羅列(られつ)なのだが、文句などに拘(こだ)わらぬところが実に壮絶で、なるほど豪傑というものは末節に関(かか)わらぬものだという気がする。
──ああやんれさの やんれさの なんだおまえたち、なにをきょろきょろしちょる。腹だ、腹だ、腹を据えて飲め。豪傑たる者が小さなことにくよくよするなッち、おまえらの事はこの夏目図書が引き受けたぞ、さあ歌え、やんれさの ああやんれさの やんれさの。
ざっとこういう次第である。[山本周五郎『豪傑ばやり』(1940)]
「これだけ飲んで歌ったから、私のことを『豪傑』だと思ってくれるよね」などと表現意図をひとこと漏らすだけで、『豪傑』キャラのイメージは木っ端みじんになってしまう。このことはこの連載の開始直後から(第3回)、ずっと述べてきたことである。
さて、或る人物が或るキャラクタを密かに演じている際に、その意図が他人に探知されてしまったとする。あ~あ、である。この場合、その人物は、もはやそのキャラクタとしては破綻しており通用しない。
だが時として、その破綻によって、その目標キャラではない、別の複合的なキャラクタが成立することがある。これが私の言う破綻キャラである。(つづく)