この後もロングリー夫人は、女性参政権運動に身を捧げ、それは生涯続くのですが、ここでは女性参政権運動から少し離れて、速記者としてのロングリー夫人に焦点を当ててみましょう。表音綴字はシンシナティでもあまり広まらなかったものの、ロングリー夫妻の表音速記は、かなりの需要がありました。講演や裁判、あるいは議会の記録を取るには、この当時、速記以外に有効な手段がなかったからです。シンシナティのいくつかの新聞で裁判速記者を続けながら、ロングリー夫人は、速記者教育もおこなっていました。速記者は、男女の区別なく能力を発揮できる仕事であり、しかも引く手あまたでした。夫エリアスの書いた『American Manual of Phonography』を教科書に、ロングリー夫人は、男性のみならず女性速記者の教育にも力を入れていたのです。
ただ、この時点でのタイプライターを、速記に取り入れることに対しては、ロングリー夫人は消極的だったようです。この時点の「Sholes & Glidden Type-Writer」は、ミシンのような巨大さで、裁判所や講演会場に持ち込むには無理がありました。あるいは、タイプライターを速記の反訳に使おうとしても、そもそも大文字しか打てないので役に立ちません。シカゴには、すでにタイプライターの販売代理店ができていましたが、納入先の大半は電信局や電信学校そして電信技士でした。「Sholes & Glidden Type-Writer」は、モールス符号の受信や、電報の清書に使うものであって、一般の人々が文章を打つためのものではなかったのです。
そんな中、同業者のベン・ピットマンが、シンシナティの表音速記専門学校を、閉鎖せざるを得なくなりました。ベン・ピットマンは、1878年2月11日に妻ジェーンを亡くしており、妻の遺言にしたがって、妻の亡骸を火葬にしたのです。火葬は、ペンシルバニア州ワシントンでおこなわれたのですが、このことがさらに、シンシナティの良識ある人々の妄想を掻き立てたのです。アメリカの人々が牛や鶏の肉を焼くのは、もちろん食べるためです。その意味で、人間の肉をローストするなどということは、神をも恐れぬ所業だったのです。シンシナティの新聞という新聞に、そう書き立てられたベン・ピットマンは、表音速記専門学校の生徒や教師にまで逃げられてしまったのです。
ロングリー夫妻は、シンシナティのアポロビルディングにオフィスを借りて、ロングリー式の速記専門学校を開設しました。ロングリー式速記法は、ピットマン式速記法とは微妙に異なっていましたが、元々どちらもアイザック・ピットマンが考案した表音速記法を改良したものなので、大まかなところは同じです。ロングリー夫人は、ベン・ピットマンのもとで速記を学んでいた生徒たちも引き受け、シンシナティにロングリー式速記法を広めていったのです。