「百学連環」を読む

第51回 日新成功

筆者:
2012年3月30日

「温故知新」の重要性を説いた西先生は、次にこう述べます。

日新成功と云ふあり。日に新たなるを好しとすると雖も、廣く古を知らすんは日新に至るの道なし。故に知は廣からされは行ヒかたし。十分の知を以て十分の事を行ふことは最も難きものなり。十分の知を以て五分の事を行はゝ始めて可なり。故に知は常に大なるを要す。

(「百學連環」第14段落)

 

訳してみます。

「日新成功」と言われる。日々新しくなることはよいとして、広く過去を知らなければ、日々新たになりようもない。だから、知は広くなければ行いがたいのである。十分な知でもって十分なことを行うのは、最も難しいことだ。〔そうではなく〕十分な知でもって五分のことを行うというのであればどうにかとんとんであろう。だから、知はいつでも大きくあることが必要なのである。

「日新成功」の「日新」は、『大学』の「伝二章」に見える「苟日新、日日新、又日新」の句を連想させます。「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たに」と読み下されるこの一文は、湯王(古代中国殷王朝の創設者)の洗盤に刻まれた言葉だとか。いつまでも古いままでいるのではなく、日ごと新しく新鮮であれというほどの意味でしょうか。

そうすれば「成功」ですから、功を成すであろうという次第。もっとも『大学』のいま見た箇所には「成功」という言葉はありません。いずれどこからか持ってこられたのか、「日新成功」という言い回しがあったのか、勉強不足で詳らかにできておりませんが、西先生が言わんとすることは分かります。

要するに、「温故知新」という主張について、少し角度を変えながら繰り返し強調しているわけです。

では、「十分な知でもって十分なことを行うのは、最も難しいことだ」とは、どういうことでしょうか。ここにはなにか「知」と「行」に関する西先生の見立てが働いていそうです。

本当はここも筆選びのような具体例が欲しいところですが、残念ながらそうした例示がありません。そこで、西先生の言葉を、自分なりに言い換えながら考えてみることにします。

まず、「十分」と「五分」という数字は、ものの喩えではありますが、あくまでも検討のために一旦文字通り素直に受け取ってみます。すると、こんなふうに考えてみることができます。

   【文】十分な知でもって十分なことを行う

   【式】知:行=10:10

でも、これは最も難しいことだというわけでした。

   【文】十分な知でもって五分のことを行う

   【式】知:行=10:5

このくらいであればなんとかなるという次第。

仮にこの10対5という比率を書き換えればこうなりますね。

    知:行=2:1

これを数式にすると、こうなります。

    行=知/2

なんだか怪しげな話になってきましたが、要するに「知」に対して「行」は半分くらいだというわけです。

なぜわざわざ数式にしたのかというと、こう書き直すことで、西先生の最後の言葉「知はいつでも大きくあることが必要なのである」の意味がはっきり目に見えるからです。

この式の「知」に、ある値を入れると、「行」はそれを2で割った分だけになる。例えば、「知」に100を入れれば、結果として「行」は50になる。「知」をその5倍の500にすれば、「行」は250となる。つまり、より大きな「知」を入れたほうが、結果的にはより大きな「行」が得られるということです。

もちろん先ほども申したように、これは検討のために敢えてしてみている簡単な思考実験みたいなものに過ぎません。別に西先生は、「知」と「行」の比率を「こうだ」と定めているわけでもありませんでした。ただ、こう考えてみることで、「知は広ければ広いほどよい行が得られる」という含意は、すっきり理解できるように思います。

また、第47回で見たように、「知」は外から人間に入ってくるもの、いわば「入力(input)」であり、「行」は「知」を介して、人間の内から外へ出るもの、「出力(output)」という見立てでした。

この図式をいまの話に重ねれば、「知」という「入力」が多ければ多いほど、「行」という「出力」も多くなる、というふうにも読み替えられそうですね。

今回は、「温故知新」に関わる西先生の主張を機械的に読んでみましたが、そこで言われていること自体はシンプルです。言葉を補って言えば、「身につける知は狭いより広いほうがいい」ということであります。

考えてみれば、「百学連環」という希有壮大な知のマップを広げてみようじゃないかというわけですから、「温故知新」はこの企ての屋台骨であるとも言えましょう。

ただし、筆選びの例から窺えるように、そこには「より多くの選択肢(筆/知)があれば、いっそうよりよいもの(筆/知)を選べる可能性が高まる」という前提がありました。これは本当にそうなのかという疑問も含めて、引き続き考えて参ります。

最後にまとめを兼ねて、今回読んだ文章を、さらに言い換えておきます。

知っていることを活用し尽くしてなにかを完璧に行うのは難しいことだ。せいぜい知っていることの半分も実行できたら御の字であろう。だからこそ、〔なにかをうまく行おうと思ったら〕なるべく広い知を持っていることが大切なのである。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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