「百学連環」を読む

第94回 知は力なり、されど・・・・・・

筆者:
2013年2月1日

当連載では、ここのところ、「百学連環」講義の原文を冒頭に掲げ、その現代語訳を記して、コメントするという構成に落ち着いています。

その原文は、江戸末期から明治期の日本語ということもあり、慣れていないといささか読みづらく感じるかもしれません。その場合、ひとまず原文は飛ばして、現代語訳とコメントを見ていただくのも一つの読み方です(そのために現代語訳をしているのでもありました)。

また、原文を読まれる場合は、音読をお勧めします。この講義のように口語を移した文章はもちろんですが、明治期の文章は、文語でも、音の調子に配慮されたものが少なくありません。口の中で転がしてみる楽しみもあると思います(私も毎回、西先生の講義を音読しながら書いております)。ただし、「百学連環」の原文には濁点が入っておりませんので、その点だけご注意ください。

では、続きを読んで参りましょう。前回の文から改行を入れず、次のように続きます。

さて前にも言ひし如く、政事上の眞理は liberty にして、之に合ふときは何れの國か治まらさらん。如何なる民か御せさらん。何事か爲さゝらん。若し一たひ之に戻るときは必す亂る。今民の耕産を奪ふて安居ならさらしめは、其の民必す一揆を起さゝるを得す。是レ其眞理に戻る所以なり。

(「百學連環」第40段落第11文~第16文)

 

上の文中、「合ふ」には「カナ」とルビが振られています。

では、訳しましょう。

さて、前にも述べたように、政治における真理は「自由(liberty)」であり、これにかなう場合には、どんな国も治まるものだ。また、どんな民衆も御すことができようし、何事も実行できるはずである。しかし、この真理に反した場合には、必ず〔世は〕乱れる。民衆が耕しつくったものを奪って、安心して暮らせなくしてしまえば、〔そんな目に遭った〕民衆は必ず叛乱を起こすだろう。なぜなら、こうした行いは、〔政治の〕真理に反するためである。

前回は、もっぱら物理学や化学などの自然科学系の学術を例にとって、真理とその応用である「術(技術)」の関係が説かれたのでした。その延長上で、ご覧のように政治学の真理と、それが現実に及ぼす影響が述べられています。東京電力福島第一原子力発電所事故を受けて、原子力発電をめぐる議論やデモが続く現在の日本の状況にも重なって見えるくだりです。

ただし、少しだけ注意が必要なのは、自然科学の場合とは違って、ここで言われている政治の真理は、「この条件が揃ったら、こうなる」という具合に、必ずしも必然であると言い切れないところです。そこには、人間の心理という、いまだによく分かったとはいえない要素がおおいに関係しています。このことは、いま読んでいる「総論」の最後で改めて大きな問題として迫ってくるはずなので、そこで詳しく考えることにします。

続きを読みましょう。

かく眞理を知るときは萬事容易ならさるなしといへとも、是を知る甚た難しとす。故に學者専ら講究し、物に就て其理を究めさるへからす。

(「百學連環」第40段落第17文~第18文)

 

この後、漢籍を引用した議論が続くのですが、ここで一旦区切ります。訳せばこうなりましょうか。

このように真理を弁えていれば、何事であろうと容易にならないことはない。とはいえ、真理を知ることはとても難しい。だから、学者はひたすら物事を深く調べてその本質を明らかにすることに集中し、物に向き合ってその理(ことわり)を究めなければならないのである。

真理を知っていれば、それを知らない場合に比べて、物事がやりやすくなる、というのは前回の遠心力を利用した洗濯物の乾かし方や、航海で星を頼りに現在地を知るといった例を思い出すとよいでしょう。知は力なりというわけです。

ただ、真理を発見することは容易ではない。それは、例えば、太陽が地球の周りを回っているのか、地球が太陽の周りを回っているのか、という問題がどんな具合に争われたかという経緯を思い出してみても感得されるところです。

必ずしも人間の目に見えることや知覚すること(毎日太陽が東から昇って西へ沈んでゆく)が、そのまま真理(地球のほうが太陽の周囲を回っている)とはいえず、知覚されることとは別に実際はどうなっているかという真理を理解しなければならない、そういうことがたくさんあります。

それだけではありません。例えば、地動説を採ったガリレオ・ガリレイがローマ教皇庁に目をつけられたように、学術における真理(知識)が、社会におけるその他の要素によって制限される場合もあります。それのみならず、当の学者のコミュニティの内部で、多くの人によって従来の通説が真理と考えられて、反証が見過ごされてしまったり、黙殺されてしまうこともあるでしょう。

この講義で西先生が繰り返す「物に就て」とは、そうした人間的な事情ではなく、明らかにしたいと思う対象自体に取り組む必要を説くキーワードであります

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。