「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第24回 増補:印刷局とベントン彫刻機① 小山初太郎の欧米視察

筆者:
2019年6月26日

日本では明治末~大正にかけて、3社がATF製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。今回は、印刷局とベントン彫刻機について、あらためてまとめたい。

 

 

日本で最初にベントン彫刻機[注1]を輸入したのは印刷局だ。ときは明治45年(1912)。[注2] このとき印刷局は、ドイツおよびアメリカから母型彫刻機4台を購入している。『内閣印刷局七十年史』(内閣印刷局、1943)にはドイツとアメリカからそれぞれ何台入れたのかという内訳は書かれていないが、大正8年(1919)ごろに印刷局を見学した三省堂・亀井寅雄が〈独逸製の字母彫刻機械数台あり、これはパントグラフ式のものであった。其他にアメリカン・タイプ・ファウンダース(A・T・F)のベントン式字母彫刻機が一台あった〉[注3]と書いていることからも、ベントン彫刻機は1台のみだったとおもわれる。

 

印刷局は母型彫刻機を導入すると、康煕字典の文字をもとにした独自書体の母型をつくり、大正8年(1919)1月4日の『官報』からこの新活字を使用した[注4](ただしその後の調査で、康煕字典書体の初出は大正7年12月27日付「衆議院第41回本会議第1号」ということがつきとめられている[注5])。 大正10年(1921)に発行された『印刷局五十年略史』(印刷局)の本文にも、この活字は使用されている。

 

『印刷局五十年略史』(印刷局、1921)の本文に使用された、康煕字典書体

『印刷局五十年略史』(印刷局、1921)の本文に使用された、康煕字典書体

 

見てのとおり独特な書体であったため、印刷局は大正12年(1923)の関東大震災で母型や活字が焼失したことを機に、この書体では、にわかに大量の活字の必要があったときに一般企業の明朝体と混用できない不便があるとかんがえ、けっきょく8ポイント明朝体の母型を東京築地活版製造所、それ以外の母型を秀英舎より購入し、昭和5年(1930)1月から使用書体を明朝体にもどした。[注6]

 

さて、印刷局が母型彫刻機を欧米から輸入するきっかけとなったといわれているのが、1907年(明治40)に活版部長・小山初太郎がおもむいた欧米視察だ。

 

印刷局は、明治四十五年(一九一二)にアメリカのベントン母型彫刻機およびドイツのベルナー母型彫刻機、あわせて四台輸入設置し、機械彫刻による母型製造の先駆になった。導入の立役者は印刷局活版部長の小山初太郎であった。彼は明治四十年(一九〇七)に欧米視察へ旅立ち、そのとき米国活字鋳造会社(筆者注:アメリカン・タイプ・ファウンダース=ATF)においてベントン母型彫刻機の実習を受けて帰国した。そして母型彫刻機の導入となったものである。

矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)[注7]

 

この内容には本連載第12回でもふれたが、筆者は〈典拠がわからない〉と書いた。その後さらにしらべてみて、典拠がわかったことと不明のままなこと、筆者の誤りがわかったことがあったので、すこしていねいに見ていきたいとおもう。

 

 

印刷局活版部長・小山初太郎は、そもそも欧米視察に行ったのか。

これについては『印刷局沿革録』(印刷局、1917)につぎのように記録されており、たしかに欧米視察に行っていたことがわかる。

 

明治40年(1907)の項(P.2)

〈四月九日 活版部長技師小山初太郎製肉課長技師矢野道也印刷事業調査ノ爲歐米各國ヘ出張ヲ命セラル〉

 

明治41年(1908)(P.3)

〈二月十七日 曩に(筆者注:さきに)歐米各國ヘ出張ヲ命セラレタル活版部長技師小山初太郎製肉課長技師矢野道也歸朝ス〉

 

さて、小山初太郎とはどのような人だったのか。

『審査官列伝』(金港堂書籍、1903)より

『審査官列伝』(金港堂書籍、1903)より

安政2年(1855)東京生まれ。明治23年(1890)6月、印刷局活版課第一室長となり、活版課長を経て、明治31年(1898)8月、活版部長に就任した。長年印刷局に在籍し、活版部門だけでなく、製版製本などの事業も監督した人物だ。[注8]

 

小山は、矢野道也(のちの印刷学会初代会長)とともに欧米視察に行っていた。『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)の年譜を確認すると、明治40年(1907)4月9日に内閣より欧米各国への出張を命ぜられ、同年5月11日に日本を出発したこと、翌明治41年(1908)2月17日に欧米出張より帰朝したことが記載されている。[注9] また、本文にもこの欧米出張について書かれている。

 

たまたま戦後各国の紙幣、銀行券等の製造ならびに印刷技術調査のため、博士はえらばれて約八カ月の予定をもって、明治四十年四月九日、欧米各国へ出張を命ぜられ、五月十一日横浜港から出発、各国の紙幣、銀行券について製版、印刷法、印刷インキ、用紙等の製造技術をつぶさに視察、翌年の二月十七日に帰朝した。

『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)[注10]

 

ただ、訪問先の詳細は書かれておらず、この欧米視察でATFを訪問したのかどうかは依然わからない。矢野より2年遅れて明治35年(1902)印刷局に入り、昭和10年(1935)に退官するまで30年以上同じ職場で過ごしたという安延郁太郎の寄稿で、すこし様子がうかがえる。

 

その後矢野さんは小山部長とともに欧米出張の途につき、各国の印刷状況を見学せられましたが、そのうちでドイツがもっとも矢野さんのお気に入りドイツならでは夜も日も明けぬように言われ、ドイツ印刷局の主任技師ニコラウス博士と無二の間がらとなられました。アメリカはお気に入らなかったようです。

安延郁太郎「矢野博士を憶う」『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)[注11]

 

同じく安延の寄稿に、欧米視察を命じられる前から、矢野が広く洋書を調べ、西洋各国の状況を洞察し、印刷やその他についての趨勢を調べていたとも書かれている。[注12]

 

はたして、小山初太郎と矢野道也は、明治40年(1907)の欧米視察でATFをおとずれたのか。引き続き、手がかりを追っていきたい。

 

なお、矢野道也は昭和9年(1934)にも欧米各国への出張を命ぜられており、5月2日から11月1日まで出かけている。このときの訪問先については「欧米印刷界所見」として同年12月4日に講演をおこなっており、ATFを訪問した詳細が講演録の記事に残っている。[注13]
(つづく)

 

[注]

  1. 1906年にアメリカで特許が登録された、母型を直接彫ることができる改良型ベントン彫刻機
  2. 『内閣印刷局七十年史』(内閣印刷局編纂、1943)P.114に〈其の後三十一年(筆者注:明治)十一月内閣官報局と併合してより、更に活字母型の改造に努む。三十六年二月ライノタイプを購入設備し欧文印刷の便を図る。又四十五年以来康熙字典の字体を基礎として活字字体の改造を企て、殿版康熙字典に依ることとし、同時に鋳造方法の改良をも計画し独逸及び米国より母型彫刻機四台を購入し(下線筆者)、煩雑なる旧式方法を廃しニッケルと銅との合成金に直接彫刻して母型を得、之に依りて鋳造するの方法に革め、大いに製造能率の増進を見たり。而して官報印刷に使用する活字の如きは、専ら此の方法に依りて鋳造したるものを用ふ。〉とあるのは、本連載第12回でもふれたとおり。
    また、『印刷局五十年略史』(印刷局、1921)P.29にも〈当局に於ては明治四十五年以来独逸及米国より母型彫刻機四台を購入し、煩雑なる旧式の手続を取らずニッケルと々との合成金に直接彫刻して母型を得、之に依りて鋳造する事とせり。現在官報印刷に試用する活字の如きに此の機械によりて鋳造したるものなり。上述の新活字は康煕字典の文字を写真により縮写したるものにして字画正確書体鮮明なる九ポイント活字なり。此新漢字活字を採用すると同時に仮名活字をも改鋳し、漢字に比し十と八との割合に縮め、以て時間の空白を減じ行数の節約を得る事とせり。〉とある。また、余談ではあるが、同書P.28には1911年(明治44)に米国製トムソン式自働活字鋳造機を購入したことも書かれている。
  3. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.5
  4. 『印刷局長年報書 第45回 自大正7年 至大正8年』(印刷局)P.25 に大正8年(1919)1月4日の出来事として、官報は従来2段組にしていたものを3段組にあらため、5号活字に代わって康煕字典の文字を基礎としてあらたに鋳造した9ポイント活字をもちいたことがしるされている。
  5. 近代日本語活字史研究者・内田明氏のブログ「日本語練習虫」2019年6月15日付の記事「築地ベントン活字その他」のうち、「印刷局による康煕字典ベントン活字など」の項参照(注4とともに)
  6. 『内閣印刷局七十年史』(内閣印刷局編纂、1943)P.114~115、矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)P.237
  7. 矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)P.237
  8. プロフィールは『審査官列伝』(金港堂書籍、1903/第5回内国勧業博覧会内本社販売所で販売)P.118を参照した。くわしい内容は次のとおり。
    第9部審査官 小山初太郎:安政2年(1855)東京生まれ。明治23年(1890)6月、印刷局五等抜手に任ぜられ、活版課第一室長になる。明治24年(1891)4月、活版課長心得を兼務し、8月、活版課長兼第一室長に。明治31年(1898)8月、活版部長。明治32年(1899)11月、軍事機密書類印刷事務を嘱託。明治33年(1900)4月、印刷局技師となり高等官6等に。6月正七位を賜り、明治36年(1903)1月高等官5等に。多年印刷局にあり、製版製本などの事業を監督し、現在も活版部長をつとめる。
  9. 『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)P.1009-1010
  10. 同上 P.85-86
  11. 安延郁太郎「矢野博士を憶う」『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)P.388
  12. 同上 P.386
  13. 矢野道也(内閣印刷局印刷部長)「欧米印刷界所見(上)」『印刷雑誌』昭和10年10月号(印刷雑誌社、1935)P.9 ちなみにこの記事には、ATFへの訪問が二度目なのかはじめてなのかについては、とくにふれられていない。

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(執筆は1950)
  • 『印刷局沿革録』(印刷局、1917)
  • 『内閣印刷局七十年史』(内閣印刷局編纂、1943)
  • 矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)
  • 『審査官列伝』(金港堂書籍、1903)
  • 『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)
  • 矢野道也(内閣印刷局印刷部長)「欧米印刷界所見(上)」『印刷雑誌』昭和10年10月号(印刷雑誌社、1935)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。