昭和23年(1948)11月初旬に津上製作所から大日本印刷に納入された国産ベントン彫刻機第1号、第2号機は、約11ヵ月の試刻と研究を経て昭和24年(1949)10月1日付で研究所から現場に移管され、実用化された。同時に鋳造課に母型係が発足し、10月10日から彫刻母型にかんする業務を正式に開始した。[注1]
しかし現場移管後も、彫刻母型製作についての問題は多数のこっており、日々改良がかさねられた。そうして次第に能率を上げ、昭和26年(1951)8月の時点で、約1万本の母型を彫刻し終えた。
彫刻の母型総数約一万本。平仮名及び片仮名の母型は五号、九ポイント、八ポイント、六号、四・五ポイント、八号の各種を完了し、明朝体の漢字の母型は本年(一九五一年)の八月中に八ポイントを仕上げ、また本年十一月には九ポイントの彫刻をそれぞれ完成せしめ相次いで実用化する予定である。
『七十五年の歩み : 大日本印刷株式会社史』(大日本印刷、1952)[注2]
ベントン彫刻機で母型を彫るには、その型となるパターンが必要だ。そしてパターンをつくるためには、原字を書かなくてはならない。[注3] 紙に拡大原字を書くのである。津上製ベントン彫刻機を導入するまで電胎母型をつかってきた大日本印刷では、この「原字制作」の経験がなかった。電胎母型では、種字彫刻師が手彫りした原寸大・左右逆字の種字から母型をつくっていたからである。
機械だけが入手できても、彫刻母型はつくれるようにならない。大日本印刷がはじめて「原図制作」に取り組むにあたり指導に行ったのは、三省堂で書体設計・原図制作を手がけていた松橋勝二だった。今井直一から「週に一度でいいから大日本印刷に応援に行ってくれ」と言われ、松橋は大日本印刷に通い、一部原字も書いたという。[注4]
なお、松橋は昭和37年(1962)12月に三省堂を退社したのち、昭和38年(1963)1月に大日本印刷に鋳植係嘱託として入社して秀英体の原字制作にたずさわった。[注5] 日本ではじめてつくられた国産ベントン彫刻機の導入現場である大日本印刷は、三省堂の原字制作手法と機械彫刻のノウハウを受け継ぎ、独自の伝統書体「秀英体」の彫刻母型をつくりあげたのである。
では、大日本印刷ではどんなふうに原字(原図)を書いていたのだろうか。昭和29年(1954)12月22日に大日本印刷 鋳造課母型係が作成した「作業分析表 原図作業」に、その工程がまとめられている。表の作成者は母型係で原字制作を手がけていた澤田善彦である。
工程名:下図
操作1)文字の拡大写真をライトテーブルの上に載せる
操作2)規定の用紙に写真を基にして修正を加えながらトレースする
(太さ、大きさ、書体に留意しながらする。)
操作3)大体トレースしたものを鉛筆で改めて書直す工程名:原図
1)塗込
操作1)下図を受取り各文字の形態や字態の良否を検討する(技術的感覚を要す)
操作2)一定の太さの烏口を用意する。
操作3)定規で横画を画く
操作4)普通の烏口で縦画を定規で画く
操作5)カーブの個所は雲形定規を使い、他の個所はフリーハンドで画く(技術的経験を要す)
操作6)細筆を用い拡大鏡を用い覗きながら墨で塗込む(綿密に)2)仕上
操作1)各個所のはみ出し或は修正を要する所を白のポスターカラーで修正する(綿密に)
操作2)各文字の空欄に記号、年月日、文字のセンターを記入する(文字のセンターは正確に)工程名:フリーハンド原図
操作1)セクション・ペーパーに一定の正方角を画く
操作2)字母帳を参考にし鉛筆で形をとる
操作3)定規、雲形定規を用い線を鮮明に画く
操作4)文字のセンターを書入る大日本印刷 鋳造課母型係「作業分析表 原図作業」(1954)[注6]
「下図」の工程で「文字の拡大写真をライトテーブルに載せる」とあるが、写真ではなく金属活字そのものを拡大投影機に映し出してトレースした場合もあったようだ。[注7]
この作業分析表には、それぞれの作業の所要時間も載っている。見ると、原図作業のうち、下図は6字で18分(6字付を1枚としていた)。原図はそれぞれ1枚の所要時間が、(1) 烏口墨入 30分、(2) 塗込 2時間、(3) 仕上 45分、(4) 記号、年月日センター記入 3分となっている。1字の原図を仕上げるにあたり、だいたい3時間半弱をかけていたことがわかる。[注8]
ちなみに大日本印刷では、昭和23年(1948)11月に津上製ベントン彫刻機を2台入れたのち、昭和25年(1950)8月に第3号機を導入している。「正8ポ活字」の彫刻を始めたころである。しばらくは3台のベントン彫刻機を活用していたとおもわれるが、昭和33年(1958)に原字制作の現場に小野秀(1939-)が入社したときには、1台があったのみだったという。ほかの2台は、三省堂から独立して昭和28年(1953)日本マトリックス(のちの国際母型)を創立し、パンチ母型の製造を手がけていた細谷敏治に譲渡した(国産第1号機、第2号機)。このうち1号機は、後年、千葉大学工学部に附属品一式とともに寄贈され、現在も収蔵されている。2号機は「文字図形センター」に譲渡したが、その後のゆくえはわからない。[注9]
こうして、三省堂の協力を得た大日本印刷により、津上製作所製の国産ベントン彫刻機は誕生し、実用化された。機械の設計図面の作成から実用化まで、そして原図からパターン制作という作業をふくめた書体研究にはじめて取り組んで「活字の母型をつくる」という、導入期ならではの苦労をかさねたことを、その記録をまとめた鋳造課母型係の大住欣一は、こんなふうに書きのこしている。
初めから完成されたものを与えられたものには分らないと思われる様な、発明者ベントンの苦心の跡を可成り明確にたどることを得た。之は重要なことであると思う。機械各部の解析、検査規格が出来たばかりでなく、機械設計の真意をおし計ることが出来た。
大住欣一「ベントン型母型彫刻機設置の経過及びその後」(大日本印刷、1951)
アメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製のオリジナル「ベントン彫刻機」のスケッチから、津上製作所による国産機の製作過程まですべてに立ち会った三省堂の細谷は、その後ながきにわたり、大日本印刷のベントン彫刻機のメンテナンスを担当した。[注10]
なお、細谷は前述のように、昭和28年(1953)、三省堂神田工場内にパンチ母型製造販売をおこなう「日本マトリックス株式会社」を設立して独立した。三省堂で母型研究に取り組むなかで、彫刻母型よりさらに効率よく母型をつくれる「パンチ母型」[注11]を和文でも実現できそうだという手ごたえを感じた細谷は、はじめは三省堂・今井直一にパンチ母型製造販売の事業計画書を提出した。しかし今井に「母型販売は三省堂の事業ではない」といわれ、独立を決めた。独立を知らされた今井は「事業を起こすのに必要な資金は心配しなくていい。しかしもし失敗したら、かならず三省堂に戻ってきなさい。それが独立の条件だ」と言い、三省堂が所有していたATF製のベントン彫刻機や機械設備と、三省堂で細谷がそれまで勤務していた部屋までふくめて、すべて無料で5年間貸し出した。細谷の使っていた彫刻室は、今井のいる役員室のとなりだった。[注12]
(つづく)
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※本連載第51-53回については、大日本印刷株式会社ならびに元大日本印刷 小野秀氏に資料のご提供ならびに取材にご協力いただきました。また、第53回については、杏橋達磨氏に資料をご提供いただきました。心より感謝申し上げます。
[参考文献]
- 大日本印刷 鋳造課母型係・大住欣一 記「ベントン型母型彫刻機設置の経過及びその後」(社内資料/1951年5月25日)
- 『七十五年の歩み : 大日本印刷株式会社史』(大日本印刷、1952)
- 『大日本印刷百三十年史』(大日本印刷、2007)
- 細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)
- 朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行、2008)
- 片塩二朗『秀英体研究』(大日本印刷、2004)
- 『季刊タイポグラフィ』3号(日本タイポグラフィ協会編、柏書房発行、1974.4)
- 雪朱里『印刷・紙づくりを支えてきた34人の名工の肖像』(グラフィック社、2019)
[注]
なお、このときに製作中だった8ポイントは、『大日本印刷百三十年史』(大日本印刷、2007、P.75)によると、昭和26年(1951)9月には「正8ポイント」として完成し、『中央公論』などに使用された。
千葉大学工学部 収蔵品資料室 http://www.eng.chiba-u.ac.jp/dm/index.html