1922年8月25日、山下は神戸港にいました。山下は、日本郵船の香取丸にマルセイユまで乗船し、そこから陸路でジュネーブに向かうことになっていました。ジュネーブで開催される第4回国際連盟労働総会(ILO総会)に、日本代表の一人(使用者代表)として出席するためです。山下の心づもりでは、ILO総会の終了後、ジュネーブからロンドン経由でニューヨークへと向かい、横書きカナタイプライター製造の段取りを付けた上で、サンフランシスコ経由で日本に帰る、という、まさに世界一周の旅となる予定でした。
10月3日、政府代表の道家斉や、労働者代表の田沢義鋪とともに、マルセイユに到着した山下は、10月18日から11月5日までジュネーブでILO総会に出席し、10月26日には日本の使用者代表として意見を陳述しています。というのも、労働者代表の田沢が、日本政府を非難する声明を発表し、日本が8時間労働(一部の産業では9時間半労働)条約案を履行していないと攻撃したため、それに対する釈明を、山下がおこなわねばならなくなったのです。
日本の多数の使用者は、条約案の趣旨を実際的に遂行しようとしており、現にこれを実施している者も少なくない。私も、またその一人であった。当時、私が関与していた3つの大きな金属工場は、条約案においては9時間半労働だったが、むしろ8時間制を試みた。しかし、我が国の職工に対し、多年にわたる労働慣習をいきなり変じて、短時間の就業に伴うべき高度の能率の発揮を求めるのは、すこぶる困難なことであった。現に、私の実験によれば、最初の数週間は緊張していた職工も、その後は活動を漸減し、労働効率もどんどん下がっていった。すなわち、欧州の職工が短時間に緊縮的になし得る事柄を、日本の職工は長時間にわたって緩和的に勤務させることが、なお現今においては必要なのだ。どのような緊張状態において従業するかを考えず、単に労働時間の長短のみをもって、職工の健康状態に及ぼす影響を論じることには意味がない。
しかし、山下のこの釈明は、残念ながら一笑に付されました。労働者が暇さえあればサボるのは万国共通であり、だからと言って労働時間を過大にしていいものではない、というのがILOの共通認識だったからです。
ILO総会の会期が終了した後、山下は単身、ロンドンに向かいました。20年ぶりのロンドンは、すっかり変わってしまっていました。恩師のセイラーは亡くなっていましたが、末娘のアテネは舞台女優として活躍していました。セイラーと出会ったクロスビー・ホールは、テムズ川沿いに移転していました。すぐ北のビショップスゲート67番地には住友銀行倫敦支店が開設されていて、支店長の松島準吉が、山下を迎えてくれました。ロンドンで山下の目を引いたのが、「Corona 3」というタイプライターでした。オールドボンド通り30番地にコロナ・タイプライター社の大きなショーウィンドーが出来ていて、そこに3段シフト28キーの「Corona 3」が飾られていたのです。
(山下芳太郎(40)に続く)