日本語社会 のぞきキャラくり

第29回 『ののちゃん』のお母さんの「た」

筆者:
2009年3月8日

いしいひさいち氏のマンガ『ののちゃん』は朝日新聞朝刊に連載されている4コママンガである。だが、4コママンガとはいっても、いつも必ず4コマで構成されているわけではない。たとえば第4081回(2008年10月4日)は5コマである。本来の3コマ目のスペースに2つの細かいコマ(3コマ目・4コマ目)が描かれており、本来の4コマ目のスペースに5コマ目が描かれている。以下、ストーリーを追ってみよう。(句点の表記は本稿の表記に合わせる。)

場面は家の中である。1コマ目では、お父さんがいかにも寝起きといった様子のパジャマ姿で登場し、あたりを見ながら「みんな出かけたか」と独り言を言う。そばの机の上に紙が置いてある。

2コマ目。その紙は書き置きで、見ると「冷蔵庫にチャーハンがありました」と、「た」の文が書いてある。「冷蔵庫」には「レイゾウコ」とルビがふってあるが、これは書き置きを書いた人物(お母さん)の気遣いというよりも、幅広い読者への作者の気遣いのようである。(以下のコマでも漢字にルビがふられている箇所があるが、これ以上言及しない。)

3コマ目。「た」の文の書き置きを見たお父さんは、「過去形? だれかが食っちまったのか?」とつぶやく。

4コマ目。冷蔵庫を開けたお父さんは、そこにチャーハンを発見して「いや、チャーハンがあるぞ」と言う。

5コマ目。お父さんは、手にしたチャーハンの皿をじっと見ながら「いったいいつのだ」と眉をひそめる。余白には「冷蔵庫にチャーハンがありました」という書き置きが再度描かれ、書き置きの主であるお母さんが冷蔵庫を覗いて「わお」と驚いている様子が小さく添えられている。これでこのマンガは終わっている。

「た」に関する私の研究(前回触れたもの)を知って、このマンガの情報を提供してくださった加藤宏明先生によると、このマンガを理解できるかどうかは、『ののちゃん』を読んでいるかどうかに影響されるという。たしかに、私が周囲の人間にたずねてみても、このマンガがさっぱりわからない、つまり「冷蔵庫にチャーハンがありました」という「た」の文がうまく解釈できないという人はいる。それは決まって『ののちゃん』のお母さんのキャラクタを知らない人である。

 

「冷蔵庫にチャーハンがありました」という書き置きの「た」の文は、「今日、△△山に行ったら、サルがいた」という、ハイキング帰りの人が発する「た」の文と同じである。

「今日、△△山に行ったら、サルがいた」という文は、いまこの文をしゃべっている瞬間にも△△山にはサルがいると信じていながら発することができる。「△△山にサルがいること」じたいではなく、「△△山はどんな様子だろうと探索(ハイキング)し、サルがいることを発見した」という自分の体験が過去だから、過去の「た」でいいのである。

『ののちゃん』のお母さんはズボラ、グウタラな人であり、お母さんが管理している冷蔵庫の中は混乱を極めている。お母さん自身にとっても、冷蔵庫とは、△△山のように何があるのかわからない謎の領域である。△△山はどんな様子かと探索(ハイキング)するようにお母さんは冷蔵庫を探索する。その結果、冷蔵庫にチャーハンがあることを発見したという体験は、それを書き置きする時点ではすでに過去になっているから「冷蔵庫にチャーハンがありました」という「た」の文でいい、ということになる。

もちろん、冷蔵庫はふつう、探索するようなものではない。いや、ふつうかな? ウチはどうだろう。えーと、だんだん自信がなくなってきたが、大事なことは、たとえ冷蔵庫を探索したとしても、その探索体験の結果を書き置きして人に教えようとする際には「冷蔵庫にチャーハンがあります」のように、探索体験ではなく一般的な知識の形で書くのがふつうだ、ということである。

だが、何しろお母さんはズボラ、グウタラな人なので、そんなことは気にせず、探索体験のまま書き置きしてしまったのである(2コマ目)。これにはお父さんも「過去形? だれかが食っちまったのか?」と面食らうが(3コマ目)、やがて冷蔵庫にチャーハンがいまもあることを知り(4コマ目)、この書き置きが、冷蔵庫におけるチャーハンの存在じたいを述べた知識の表現ではなく、冷蔵庫を探索したお母さんの体験談であることに思い至る(5コマ目)、というのがこのマンガの筋だろう。

 

「今日、△△山に行ったら、サルがいた」という、ハイキング帰りの人が発する「た」は、いまサルを目の前にしているわけではないという点で、前回取り上げた「発見の「た」」とは違う、別種の「た」である。「冷蔵庫にチャーハンがありました」というお母さんの書き置きの「た」も同様である。だが、5コマ目を見て「お母さんは冷蔵庫を探索し、その結果をそのまま体験談の形で書き置きしたのだ」と推論し、このマンガをうまく解釈することは、お母さんについて『ズボラ、グウタラな人』というキャラクタを当てはめることと表裏一体である。このように、「た」の自然さにキャラクタが関わっているというのは、発見の「た」にかぎったことではない。

という話も、前回の話とあわせて今度詳しく述べたいと思っている。3月28日(土)・29日(日)に神戸大でシンポジウム「役割語・キャラクター・言語」が開かれる。講演や研究発表なども予定されているので皆様ぜひおいでいただきたい。参加は無料、サイトにある指示にしたがってメールでお申し込みください。

詳細は⇒//www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/char-sympo-2009.htmをご覧ください。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。