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漢字の現在:「渡辺」「渡邊」「渡邉」以外のワタナベさんたち

2011年 11月 25日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第148回 「渡辺」「渡邊」「渡邉」以外のワタナベさんたち

 目映い光の中で祝宴の行われる間は「鳳凰」、メニューには「海老」「蟹」。これらは常用漢字表外字だが、こういうときには、ルビなんて合わないようだ。むしろこういう感興に酔える場面では野暮とも映りかねない。カタカナ表記の「キンメダイ」より「金目鯛」、交ぜ書きの「金ぱく」よりもやはり「金箔」が選ばれていた。「贅沢」にふりがなを付けたら贅沢なイメージが損なわれてしまう、という人もいらしたことを思い出す。ふりがなも万能ではないのだ。

 披露宴の席次表では、出席者への配慮として異体字への気遣いが驚くほどなされるということは、私自身も体験した。そういう注意を促し、字を選ばせるためのリストは、いろいろな式場で準備されている。経験的に蓄積されたもののようで、各種できあがっている。私の時にも、確かあった。今回は、それを入手された新婦さんが、面白そうでしょうと事前に下さった。面白い異体字や当て字などによく気付き、教えてくださる利発な才媛ももう花嫁さんとなる。





 一般に、名前を間違えると失礼になるという前例と噂とが、このようなリストの準備を生じさせているのだろう。概して、姓名を表示する際には、中国や韓国では考えがたいほど細部の字体、さらにはデザインレベルでの区別が求められることがある。学校の名簿や卒業証書もそうだ。選挙ポスターではひらがなで表示され、開票時の得票数の確定のためには字形へのこだわりなどうかがわれないような国会議員さんたちにも、それが現れているようだ。そして、読み方までもが、ほぼ自由という日本人の多様性好みのある意味で頂点にあるのが氏名というものだ。

 最も異体字の多い漢字は何だろうか。石碑では「龜」(亀)がよく使われることもあって、六朝を中心にバリエーションが凄まじい。『偏類碑別字』のパンフを見た、少年時の衝撃は忘れられない。ただ、漢字の字典では、そういうものは選別されたり無視される傾向が強く、字典では「国」「殺」「炒」など、また別の字が採られやすい。

 日本人の姓で多そうなのが、しばしば話題に上る「渡辺」の「邊」(べ・なべ)とその異体字だ。この姓自体がとくに関東で確かに多い。とある大規模な大学の学部で、1年生の必修クラスを、姓名の五十音順で分けた結果、クラス全員が「ワタナベ」さんになったと聞いた。今はクラス分けの方式を変えたそうだが、そこではJIS第2水準の外字を含む姓名は、下の名前まで含めてすべてカタカナで表示されてしまう。そのクラスには、カタカナ化されたものを中心に数えると、何種類のワタナベさんがいたのだろうか。

 500人くらいのクラスでも、ワタナベさんが決まって複数含まれていて、あっという間に数通り揃ってしまう。「邊」「邉」「辺」と、その中間にあるさまざまな組み合わせが実在し、さらに戸籍が電子化される前はこうだった、などという変遷までが語られる(戦前から「辺」だった人もいるのだろう)。当人以外も、たいていワタナベにはいろいろな難しい字があったと記憶している(むろん、ワタベとも読む渡部は、ここでは除外している)。

 パーツが「自」か「白」か、「冖」か「宀」か、「八」か「儿」か、「方」か「口」か、しんにょうの点は1つか2つか。これらの揺れは古来の筆法などによるものであり、これだけでも組み合わせると相当な数に上るが、現実の100万人以上のワタナベ氏の用いるパーツは、こんなものではない。本家と分家とを区別するためなど、日本らしい意図的な異体字使用もあったことだろう。かつて戸籍には、略字を用いてはいけないという規定があったくらいで、事実上どういう字体で書いても良かったことが、実際の戸籍からうかがえる。

 有名ホテルの式場でのリストには、俗字の類の中でも別格の扱いで、「辺」には13種もの字体が並んでいた。同じ字種の異なる字体の識別に、よほど慣れた人でないと、正確に特定の字体を選び出すのは至難の業では、と案じてしまう。現実には、ワタナベさんだけでなく、田辺さんなども加わって、さらに複雑さを増す。

  

と3つが現れた宴があった。さらに、別の式では、

 

が現れた。前者は多いのだが、それらしいものは、JISの定めた包摂規準とは無関係に、みなこれで代用しておく、という方式も一部で実施されているようだ。

 そして、その席次表の下部には、「ご芳名の誤字がありました節は深くお詫び申し上げます」とも記してある。席次と並んで、皆がかなり細やかに気を遣うところとなっているのだろう。

 以前、印刷物で、「邊」の異体字を作り損ねて、かえって新たな字体になってしまい、それがまた前後と違うフォントとなっていたために、やけに目立ってしまったものも見た覚えがある。役所から個々人まで、さまざまな原因から新たな字体を生み出してきた。中国に行けば、どれも簡体字で「」とされることだろう。100種以上は作られてきた姓に含まれるという「辺」の異体字は、日本の漢字の特異性の一端を物語っている。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「華燭の典と漢字」でした。

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2011年 11月 25日