タイプライターに魅せられた男たち・第163回

山下芳太郎(18)

筆者:
2015年1月8日

長谷川の遺骨を乗せた加茂丸が、和田岬検疫所の検疫を通過して、神戸港内に入ってきたのは、5月29日午前7時過ぎのことでした。山下は、長谷川の妻の長谷川柳子、親戚の福田鋤次郎、唐木屋の日向利兵衛、大阪商船の末永一三、朝日新聞の村山龍平や弓削田精一など、多くの人々とともに、メリケン波止場から日本郵船の小型艇に乗り込みました。小型艇には、朝日新聞の社旗が立てられていました。加茂丸が八番浮標に錨を降ろすやいなや、山下たちは小型艇を横付けし、船内に乗り込んでいきました。

長谷川が使っていた船室には、香が焚かれ、カーテン奥の壇上に、遺骨を納めた小さな柩が、白布をかぶせて祀られていました。「朝日新聞社員二葉亭四迷長谷川辰之助君霊」という銘の霊牌も、飾られていました。柳子夫人から順に焼香をおこない、その後に別室で、船医の村山玄沢や事務長の近藤松五郎を囲んで、故人の最期を聞くことにしました。近藤の話では「勝気の先生は、この大病に罹りながら粥を嫌って硬いものを好まれ、ただの一度も苦しいとは言われず、空気療法一点張りにて服薬を嫌い、百方苦心して勧めたる果てが、君のために一杯のんでやると微笑を洩らされた」ということでした。しかし、5月6日のコロンボ入港の頃には、手紙を書くのも無理なほど衰弱しており、5月10日午後5時15分、ベンガル湾上の北緯6度3分東経92度34分で、眠るように長逝したとのことでした。遺品を確認したところ、坪内雄三(逍遥)に宛てた遺言状と遺族への善後策が、いずれも封印のまま残されていたので、遺品とともに遺族らに手渡されました。

長谷川の遺髪と爪は、シンガポール入港前に取り分けたものでした。もし、シンガポールで火葬が叶わず、土葬あるいは水葬となった場合に、遺髪と爪だけでも故国へ、と取り分けたものでした。実際には、5月13日夜から14日未明にかけて、長谷川の亡骸は荼毘に付されました。「君が別れを祖国に告ぐるに臨んでや、家婦は花を折りて君の行を送りぬ。送られたる君は志を愛国に存じ、送りたる家婦は思を家事に残して共に空しく黄泉に入り、測らざりき僕一人悵然として又語る無きの君を埠頭に待たんとは」との弔辞を、日向が詠みました。日向は妻とともに、前年6月17日に長谷川の神戸出港を見送ったのですが、その後に妻が急逝、加えて、長谷川の遺骨を迎えることになったのです。

5月29日午前10時、山下たちは、長谷川の遺骨とともに下船しました。山下は、遺族とともに栄町通三丁目の西村旅館に向かい、夕方には三ノ宮駅へ見送って行きました。

山下芳太郎(19)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。