前回までで、三省堂・亀井寅雄が大正12年(1923)にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)からベントン彫刻機を入手するまでの経緯と、ベントン彫刻機到着直後に日本を襲った関東大震災による被害、そしてそこから三省堂が復興するまでを書いた。
三省堂は関東大震災翌年の大正13年(1924)に蒲田工場の操業を開始し、大正14年(1925)春にはベントン彫刻機を荷ほどきして組み立てた。いよいよ、ベントン彫刻機による本格的な母型製作と、そこに向けての書体研究がはじまる。
日本では明治末~大正にかけて、3社がATF製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」、第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。以前公開した記事を訂正すべき内容もあるので、三省堂のベントン彫刻機による母型製作と書体研究に話を進めるまえに、時計の針を一度明治時代までもどし、ここから数回かけて増補というかたちで、アメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)、印刷局、東京築地活版製造所(築地活版)の3社とベントン彫刻機について、あらためて見ていきたい。
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爾来私は何とかして優秀なる字母を作りたいと志していたが、偶々大正八年頃印刷局を見学したときに、印刷局に字母の彫刻機械があることを知った。独逸製の字母彫刻機械数台あり、これはパントグラフ式のものであった。其他にアメリカン・タイプ・ファウンダース(A・T・F)のベントン式字母彫刻機が一台あったが、この機械を何とかして手に入れたいと考えた。しかしながらこの字母彫刻機は、同会社が優秀なる字母を製作して売り出すために発明した機械で、売品ではなかった。それがどうして印刷局にあったのか分らない。門外不出の秘蔵の機械なので、それを手に入れるにはどうしたらよいか密かに機をねらっていた。
亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(三省堂、1955)[注1]
三省堂の専務取締役(当時)・亀井寅雄は、ベントン彫刻機を「門外不出の秘蔵の機械」と語った。たしかに寅雄がその存在を知ったとき、日本にはわずか印刷局に1台あるのみだったし、世界的にもそれほどおおくの機械が出まわってはいなかった。
しかしベントン彫刻機は、完全なる「門外不出」ではなかった。
そもそもベントン彫刻機には2種類があった。初期型の「Punch Cutting Machine」の特許が登録されたのは、1885年(明治18)12月22日のこと。初期型は、パンチ母型[注2]を つくるための父型を彫る機械だった(特許番号US332990)。
そして1906年(明治39)1月9日、母型も直接彫ることができる改良型ベントン彫刻機「Matrix and Punch Cutting Machine」の特許が登録された(特許番号US809548)。この改良型が、のちに日本でも「ベントン彫刻機」として使用されたものである。
Patricia A.Cost『The Bentons』[注4]によれば、1899年(明治32)、ATFのマンハッタンにあるRose and Duane Streetのオフィスで、初期型ベントン彫刻機(パンチカットマシン)に関する日本語のプレスリリースが印刷された。まもなく特許が満了することを見越して[注3]、あきらかな競合とはならない顧客あてに販売すべく、初期型のベントン彫刻機を宣伝したのだ。このとき、約36台のベントン彫刻機が販売またはリースされた記録が残っているという。[注5]
同書に掲載されているプレスリリースは、ATFのレターヘッドに手書きの日本語文が印刷されたものだ。「弊社は従来から活字製造販売を手がけてきたが、今後いっそうの業務拡張をはかるべく、貴国との取引を開始したい」として、日米商工協会の協力を受け、見本を郵送すると書かれている。さらに、ATFの活字がいかにすぐれているかにふれたのち、「多年の経験によって発明したベントン彫刻機[注6]という新しい機械は、古今未曾有の好結果を出している。未経験者でも容易に使用することができる世界無比の利器で、欧州各国に多数を輸出している。もし試用していただけるなら、特別廉価で差し上げます」「なお活字類は各種大小もらさず調製します」とある。[注7]
ただしこのプレスリリースと見本が日本のどの企業に送られたのか、詳細はわからない。また、日本では初期型ベントン彫刻機を輸入した記録はいまのところ見あたらない。
それでも、ATFはベントン彫刻機の販売をおこなったことがあり、「門外不出」ではなかったことがわかる。けれどもこれはあくまでも初期型ベントン彫刻機の話。のちに日本で「ベントン彫刻機」として知られるようになった――亀井寅雄が入手を切望した改良型ベントン彫刻機については、はたしてどうだったのだろうか?
それは次回、「印刷局とベントン彫刻機」についてもう一度追いながら、かんがえてみたい。
(つづく)
[参考文献]
- 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(執筆は1950)
- 「今後の活字に就て注意すべき点」『印刷雑誌』1924年10月号(印刷雑誌社)
- Patricia A.Cost『The Bentons』(RIT CARY GRAPHIC ARTS PRESS、2011)
- Theo Rehak『Practical Typecasting』(OAK KNOLL BOOKS、1993)
[注]
※なお、Theo Rehak『Practical Typecasting』には日本がベントン彫刻機を入手したことについて、1920年代はじめに日本政府または政府の請負業者がNo.61とNo.62、2台のベントン彫刻機を購入したこと、納品までに1年近くかかったことを、ATFの職工長だったJohn Bauerが辛辣なコメントとともに記録していたという記述がある。同書に掲載された写真を見ると、John Bauer文書の封筒には「Matrix Eng Machine for Japan #61 #62」「Records & Diary」と書かれている。「Matrix Eng Machine」なので母型が彫れる改良型ベントン彫刻機を指している。くわしくはまた、回をあらためて追いたい。