「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第23回 増補:2つのベントン彫刻機

筆者:
2019年6月12日

前回までで、三省堂・亀井寅雄が大正12年(1923)にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)からベントン彫刻機を入手するまでの経緯と、ベントン彫刻機到着直後に日本を襲った関東大震災による被害、そしてそこから三省堂が復興するまでを書いた。

 

三省堂は関東大震災翌年の大正13年(1924)に蒲田工場の操業を開始し、大正14年(1925)春にはベントン彫刻機を荷ほどきして組み立てた。いよいよ、ベントン彫刻機による本格的な母型製作と、そこに向けての書体研究がはじまる。

 

日本では明治末~大正にかけて、3社がATF製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。以前公開した記事を訂正すべき内容もあるので、三省堂のベントン彫刻機による母型製作と書体研究に話を進めるまえに、時計の針を一度明治時代までもどし、ここから数回かけて増補というかたちで、アメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)、印刷局、東京築地活版製造所(築地活版)の3社とベントン彫刻機について、あらためて見ていきたい。

爾来私は何とかして優秀なる字母を作りたいと志していたが、偶々大正八年頃印刷局を見学したときに、印刷局に字母の彫刻機械があることを知った。独逸製の字母彫刻機械数台あり、これはパントグラフ式のものであった。其他にアメリカン・タイプ・ファウンダース(A・T・F)のベントン式字母彫刻機が一台あったが、この機械を何とかして手に入れたいと考えた。しかしながらこの字母彫刻機は、同会社が優秀なる字母を製作して売り出すために発明した機械で、売品ではなかった。それがどうして印刷局にあったのか分らない。門外不出の秘蔵の機械なので、それを手に入れるにはどうしたらよいか密かに機をねらっていた。

亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(三省堂、1955)[注1]

 

三省堂の専務取締役(当時)・亀井寅雄は、ベントン彫刻機を「門外不出の秘蔵の機械」と語った。たしかに寅雄がその存在を知ったとき、日本にはわずか印刷局に1台あるのみだったし、世界的にもそれほどおおくの機械が出まわってはいなかった。

 

しかしベントン彫刻機は、完全なる「門外不出」ではなかった。

 

そもそもベントン彫刻機には2種類があった。初期型の「Punch Cutting Machine」の特許が登録されたのは、1885年(明治18)12月22日のこと。初期型は、パンチ母型[注2]を つくるための父型を彫る機械だった(特許番号US332990)。

 

ベントン彫刻機の初期型「Punch Cutting Machine」(特許明細書より)

ベントン彫刻機の初期型「Punch Cutting Machine」(特許明細書より)

 

そして1906年(明治39)1月9日、母型も直接彫ることができる改良型ベントン彫刻機「Matrix and Punch Cutting Machine」の特許が登録された(特許番号US809548)。この改良型が、のちに日本でも「ベントン彫刻機」として使用されたものである。

 

母型も彫れる改良型ベントン彫刻機「Matrix and Punch Cutting Machine」(特許明細書より)

母型も彫れる改良型ベントン彫刻機「Matrix and Punch Cutting Machine」(特許明細書より)

 

Patricia A.Cost『The Bentons』[注4]によれば、1899年(明治32)、ATFのマンハッタンにあるRose and Duane Streetのオフィスで、初期型ベントン彫刻機(パンチカットマシン)に関する日本語のプレスリリースが印刷された。まもなく特許が満了することを見越して[注3]、あきらかな競合とはならない顧客あてに販売すべく、初期型のベントン彫刻機を宣伝したのだ。このとき、約36台のベントン彫刻機が販売またはリースされた記録が残っているという。[注5]

 

同書に掲載されているプレスリリースは、ATFのレターヘッドに手書きの日本語文が印刷されたものだ。「弊社は従来から活字製造販売を手がけてきたが、今後いっそうの業務拡張をはかるべく、貴国との取引を開始したい」として、日米商工協会の協力を受け、見本を郵送すると書かれている。さらに、ATFの活字がいかにすぐれているかにふれたのち、「多年の経験によって発明したベントン彫刻機[注6]という新しい機械は、古今未曾有の好結果を出している。未経験者でも容易に使用することができる世界無比の利器で、欧州各国に多数を輸出している。もし試用していただけるなら、特別廉価で差し上げます」「なお活字類は各種大小もらさず調製します」とある。[注7]

 

ただしこのプレスリリースと見本が日本のどの企業に送られたのか、詳細はわからない。また、日本では初期型ベントン彫刻機を輸入した記録はいまのところ見あたらない。

 

それでも、ATFはベントン彫刻機の販売をおこなったことがあり、「門外不出」ではなかったことがわかる。けれどもこれはあくまでも初期型ベントン彫刻機の話。のちに日本で「ベントン彫刻機」として知られるようになった――亀井寅雄が入手を切望した改良型ベントン彫刻機については、はたしてどうだったのだろうか?

 

それは次回、「印刷局とベントン彫刻機」についてもう一度追いながら、かんがえてみたい。
(つづく)

 

[注]

  1. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.5
  2. パンチ母型:「打ち込み母型」ともよばれる。活字と同じく凸型に彫刻した父型(種字)を真鍮の母型材などに打刻することでつくられた、活字を鋳造するための凹型(母型)。父型ひとつから母型を量産できるため、欧米ではおもにこの方法がもちいられていたが、画数のおおい漢字や、細い明朝体の文字は打刻の衝撃に耐えられないため、日本のパンチ母型が実用化するには昭和40年代(1970年代)ごろまで時間を要した。
  3. 「今後の活字に就て注意すべき点」『印刷雑誌』1924年10月号(印刷雑誌社)P.13に〈千九百〇一年(ママ)に至って、この特許権期は尽きたので、初めて諸所で利用することになったらしい。〉とある。
  4. Patricia A.Cost『The Bentons』は、リン・ボイド・ベントンとモリス・フラー・ベントンという、アメリカの書体史で重要な役割をはたしたふたりの父子のことを書いた書籍。副題は「How an American Father and Son Changed the Printing Industry」(RIT CARY GRAPHIC ARTS PRESS、2011)
  5. Patricia A.Cost『The Bentons』(RIT CARY GRAPHIC ARTS PRESS、2011)P.160/約3ダースを販売またはリースしたという記述については、Theo Rehak『Practical Typecasting』(OAK KNOLL BOOKS、1993)P.107より。販売記録の1ページが掲載されているが、そこに見られる取引先はライノタイプ社をはじめとする欧米の活字製造会社、印刷会社となっている
    ※なお、Theo Rehak『Practical Typecasting』には日本がベントン彫刻機を入手したことについて、1920年代はじめに日本政府または政府の請負業者がNo.61とNo.62、2台のベントン彫刻機を購入したこと、納品までに1年近くかかったことを、ATFの職工長だったJohn Bauerが辛辣なコメントとともに記録していたという記述がある。同書に掲載された写真を見ると、John Bauer文書の封筒には「Matrix Eng Machine for Japan #61 #62」「Records & Diary」と書かれている。「Matrix Eng Machine」なので母型が彫れる改良型ベントン彫刻機を指している。くわしくはまた、回をあらためて追いたい。
  6. 文書では「べんとん壓穿切断機(Benton Punch Cutting Machine)」と記述
  7. Patricia A.Cost『The Bentons』(RIT CARY GRAPHIC ARTS PRESS、2011)P.161/この文書の原本は、モリス・フラー・ベントンの娘(リン・ボイド・ベントンの孫)Caroline Benton Greggによって「RIT's Cary Graphic Arts Collection」におさめられている

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(執筆は1950)
  • 「今後の活字に就て注意すべき点」『印刷雑誌』1924年10月号(印刷雑誌社)
  • Patricia A.Cost『The Bentons』(RIT CARY GRAPHIC ARTS PRESS、2011)
  • Theo Rehak『Practical Typecasting』(OAK KNOLL BOOKS、1993)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。