「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第47回 原字の書き方――三省堂の手法

筆者:
2020年5月13日

終戦翌年の昭和21年(1946)春に東京府立工芸学校印刷科を卒業し、三省堂に入社した杉本幸治は、ベントン用原字を書くために、おそらく三省堂がはじめて新卒から育てあげた書体設計士だ。

 

書体設計士・杉本幸治(1926-2011)
(撮影:雨宮秀也/2010年3月12日)

杉本幸治、40代のころ。『季刊タイポグラフィ』3号(1974)[注1]

 

杉本は入社後、活字鋳造や紙型・鉛版製作の現場を経験し、3年目からは母型彫刻室に異動となって、ベントン彫刻機による母型彫刻にたずさわった。やがて書体研究室所属となり、彼の待ちのぞんだ書体設計にたずさわるようになったのが昭和26年(1951)ごろのことである。[注2] じつは当時、一刻もはやくつくらなくてはならない活字があったのだ。

 

昭和21年(1946)、「当用漢字」1850字が発表された。当用漢字とは、漢字の読み書きを平易にし、正確にすることを目的として、法令や公文書、新聞雑誌、一般社会などの日常生活で使用する漢字の範囲をさだめたものだ(国語審議会が決定・答申し、内閣訓令第7号、同告示第32号で公示)。昭和24年(1949)4月には「当用漢字字体表」が発表され、活字や印刷関連会社、新聞社、出版社などは、一日もはやい新字体への対応がもとめられた。もちろん三省堂も例外ではない。自社で出版する教科書や辞書、参考書などの新字体への変更をいそぐことになった。[注3]

 

当用漢字字体表(一部/1949)

当用漢字字体表(一部/1949)

 

新字体の活字をつくるには、あたらしい原字を書き、母型をつくらなくてはならない。そこで今井直一(昭和26年1月、三省堂社長に就任)は杉本に、急いで書体設計を手伝うよう命じた。

 

当時のわたしはまだ未熟でしたし、そんな本格的な書体設計をするだけの力はなかったのですが、「ともかく、大至急だ」ということで、先輩とわたしとふたりで手分けして「当用漢字」に対応する書体設計と母型彫刻をがむしゃらにやりました。
 「当用漢字字体表」なんて名称は立派ですが、見本として提示された字体はガリ版印刷の粗末なもので、資料としては役立つものではなかったんです。

『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス、2008)[注4]

 

このときの「書体設計の先輩」とは、1923年(大正12)8月に桑田福太郎の助手として三省堂に入社した松橋勝二だ。杉本は松橋を「本木昌造にそっくりの風貌だった」とくりかえし語っていた。松橋は神保町の本社で出版部に所属しながら原字を書いており、杉本は神田工場(のちに三鷹工場)で原字と母型彫刻にたずさわっていた。[注5]

 

松橋勝二。『季刊タイポグラフィ』3号(1974)

松橋勝二。『季刊タイポグラフィ』3号(1974)[注6]

 

こうして杉本は、当用漢字字体表による新字体の原字制作を機に、三省堂の書体設計の中心人物となっていった。[注7]三省堂時代の杉本のくわしい原字制作工程をたどれる資料は見つけられていないが、杉本が三省堂に在籍しつつ監修をつとめた晃文堂明朝(昭和33年[1958]、晃文堂より発売)の原字写真があるので、それを見てみよう。原字制作は、つぎのような流れでおこなった。
※撮影 (★)マークの写真すべて:木村雅彦氏[注8]

 

①鉛筆デッサン
 まず、方眼紙に鉛筆で下図を書く。大きさは2インチ(5.08cm)[注9]

 

晃文堂明朝の鉛筆デッサン(★)"

晃文堂明朝の鉛筆デッサン(★)

 

②墨入れをおこなう
 鉛筆でしあげたデッサンの上に薄いトレーシングペーパーをのせ、墨入れ。道具はおもに烏口(からすぐち)と三角定規、雲形定規をもちいる。杉本は、漢字のハライやひらがななどの曲線部もフリーハンドではなく、すべて雲形定規をあててひいた。

 

晃文堂明朝原字。墨入れ途中のもの(★)

晃文堂明朝原字。墨入れ途中のもの(★)

 

晃文堂明朝原字(★)

晃文堂明朝原字(★)

 

トレーシングペーパーの場合、パターンを製版する際にこの原字をポジフィルムがわりに亜鉛板に直接焼きつけた。このため、塗りのこしや薄い部分がないよう、文字の画線のなかをきちんと塗りつぶして、光を通さないようにしなくてはならなかった。また、ホワイトをつかうとそこが光をとおさず、製版で露光する際に文字のかたちがくずれてしまう。カミソリあとすら出てしまうということで、削って修整もできず、ひとたび烏口を握ったあとは修整なしの一発書き勝負だったという。
なお、原字はのちにトレーシングペーパーではなく上質ケント紙がもちいられるようになり、これにともないホワイトの使用も可能になった(しかし杉本はケント紙でもめったにホワイトを使用しなかったと語っていた)。[注10]

 

杉本のつかった道具。烏口。ねじでペン先の太さを調整後、先端に墨を差して線をひく。おもに製図につかわれた筆記具(★)

杉本のつかった道具。烏口。ねじでペン先の太さを調整後、先端に墨を差して線をひく。おもに製図につかわれた筆記具(★)

 

杉本のつかった道具。細筆は、墨入れのときに文字のなかを塗りつぶすのにもちいた(★)

杉本のつかった道具。細筆は、墨入れのときに文字のなかを塗りつぶすのにもちいた(★)

 

杉本のつかった道具。曲線をひくのにもちいた雲形定規。定規のカーブそのままをひくのではなく、近いカーブ部分をあてながら、手で微妙に調整しながら、おもいえがく曲線をひいた(★)

杉本のつかった道具。曲線をひくのにもちいた雲形定規。定規のカーブそのままをひくのではなく、近いカーブ部分をあてながら、手で微妙に調整しながら、おもいえがく曲線をひいた(★)

 

杉本のつかった道具。墨入れには墨汁はもちいない。作業のまえには、たんねんに硯で墨をすってそれをつかった(★)

杉本のつかった道具。墨入れには墨汁はもちいない。作業のまえには、たんねんに硯で墨をすってそれをつかった(★)

 

筆者が2009年に杉本にインタビューをした際、彼は書体設計の仕事についてこんなふうに語っていた。

 

「いまは『デザイン』というかっこいい言い方をしますが、私らの時代は『文字設計』『書体設計』と言いましたね。ようするに、設計をするんです。デッサンして、定規をつかって浄書するわけ。そこにトレーシングペーパーをのせて、墨をすって、烏口をつかって、製図と同じ方法で、トレーシングペーパーに文字を写すわけですよ。墨入れをする。それをもとにして、亜鉛板に焼きつけるんです。そうして亜鉛板を腐蝕すると、パターンができる。

いまだったら亜鉛板に焼きつけるまえに原字からフィルムをつくるんですが、当時はそういうものがなかった。だから、トレーシングペーパーで文字を写して書く。手間ひまがかかりましたね」

「つぎに、完成したパターンを使って母型を彫る。母型も、横線や縦線の太さをいくつにするか、ひじょうにシビアな数値が求められるんです。そうやって母型をつくる。工業的な文字のつくり方の世界だったんです。しかも、ポイント(文字のおおきさ)ごとにつくらなくてはならなかった。

そんなふうに、私はたまたま、原字を設計する作業と、母型を彫刻する作業の両方を体験しました。だから私は、その後、写植やデジタルフォントの設計にたずさわるようになったときにも、つくるときには数字的なファクターがほしいとかんがえていました。この線は何mmにするのか、太さはどうするのか。こういうつくり方だから、かたい、緻密な字になってしまう。デザイナーの方々と、私の世界はちょっとちがう。機械製図と同じやり方です。だから『書体設計』という表現になるんです」[注11]

 

杉本は2011年3月に逝去するまで、写植、そしてデジタルフォントへと書体制作技術が変遷しても、ずっと書体設計をおこなっていた。制作過程として写真を掲載したのは晃文堂明朝のものだが、おそらく1980年代にMacを導入するまでは、三省堂でつちかった書体設計(原字制作)手法をつづけていたのではないだろうか。

以下は、杉本がかかわったとおもわれる原字やパターン、母型の写真だ。まったくホワイトの入らない、とぎすまされた原字の様子から、「ひとたび烏口を握ったら一発書き勝負」という杉本や当時の現場の緊張感が伝わってくるようだ。

 

三省堂「部首字体」原字。杉本が書体研究室に在籍中の昭和34年(1959)6月29日に書かれたもの(杉本が書いたかどうかは不明)。このころはまだトレーシングペーパーがもちいられている(三省堂印刷所蔵)

三省堂「部首字体」原字。杉本が書体研究室に在籍中の昭和34年(1959)6月29日に書かれたもの(杉本が書いたかどうかは不明)。このころはまだトレーシングペーパーがもちいられている(三省堂印刷所蔵)

 

三省堂「聖書用見出し文字」原字。制作者のサイン「YOSHIDA」の横に、杉本の印鑑がおされている。昭和28年(1953)3月23日制作(三省堂印刷所蔵)

三省堂「聖書用見出し文字」原字。制作者のサイン「YOSHIDA」の横に、杉本の印鑑がおされている。昭和28年(1953)3月23日制作(三省堂印刷所蔵)

 

三省堂「辞書用絵文字」原字。辞書にもちいられる絵文字も、これらも原字からパターンを製版し、活字をつくっていた。昭和33年(1958)10月3日制作(三省堂印刷所蔵)

三省堂「辞書用絵文字」原字。辞書にもちいられる絵文字も、これらも原字からパターンを製版し、活字をつくっていた。昭和33年(1958)10月3日制作(三省堂印刷所蔵)

 

三省堂、昭和30年(1955)3月4日制作の原字。「反対向き(原稿ヲ裏返ス)焼付 深サハ浅ク」とのメモあり。ベントン彫刻機の性能を見るために制作されたものとおもわれる(三省堂印刷所蔵)

三省堂、昭和30年(1955)3月4日制作の原字。「反対向き(原稿ヲ裏返ス)焼付 深サハ浅ク」とのメモあり。ベントン彫刻機の性能を見るために制作されたものとおもわれる(三省堂印刷所蔵)

 

上の原字から製版したパターン(★)

上の原字から製版したパターン(★)

 

さらに、上のパターンから彫刻した母型と、鋳造した活字。1号サイズ(27.5ポイント)の活字のなかに「古い歴史新しい内容・辞書は三省堂」の16文字の明朝体がおさめられている。ベントン彫刻機の精度の高さがうかがえる(★)

さらに、上のパターンから彫刻した母型と、鋳造した活字。1号サイズ(27.5ポイント)の活字のなかに「古い歴史新しい内容・辞書は三省堂」の16文字の明朝体がおさめられている。ベントン彫刻機の精度の高さがうかがえる(★)

(つづく)

 

[注]

  1. 「現代の彫師たち」『季刊タイポグラフィ』3号(日本タイポグラフィ協会編、柏書房発行、1974.4)P.44
  2. 「現代の彫師たち」『季刊タイポグラフィ』3号(日本タイポグラフィ協会編、柏書房発行、1974.4)の杉本幸治の項には、〈(筆者注:昭和)26年から文字デザインを手掛け、30年以降、40年に植字製版課長になるまでは、チーフとして活躍〉とある(P.44)
  3. 当用漢字表(昭和21年11月5日) https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin02/
    当用漢字字体表(昭和23年6月1日) https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin05/
  4. 朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行、2008)P.13
  5. 筆者による杉本幸治へのインタビュー(2009年1月30日)と、朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行、2008)P.15より。
  6. 「現代の彫師たち」『季刊タイポグラフィ』3号(日本タイポグラフィ協会編、柏書房発行、1974.4)P.46
  7. 書体研究室に異動になり、杉本が書いた原字を先輩(松橋)に見せても、直しがあまりなかったと後年杉本は不満をもらしていた。「私なんてただ好きというだけで字を書いていたから、いきなり原字をかけと言われても、どこをどうしたらいいかコツがわからない。ただ一定のかぎられたスペースに、明朝体なら明朝体を書く。先輩が書いた明朝体の太さ、大きさ、エレメントをまねて書いていく。でも見よう見まねだから、エレメントなんてよくわからない。書いたものを先輩に見せて、監修していただいて、修整指示をもらうんですが、直しがあんまりない。これでいいですよ、いいですよって。専門家から見れば、いろいろあるはずなのに。とにかく新字体の原字が早くほしい、そのためにはあんまりのんびりやり直しなんてやっていられない。急いでいたから。それで350~400字ぐらいを、先輩と私とで分けてつくって、新字体の原字ができたんです」
    筆者による杉本幸治へのインタビュー(2009年1月30日)より
  8. 2006年4月22日開催の講演会「杉本幸治 本明朝を語る」(リョービイマジクス主催)会場にて撮影されたもの。撮影は木村雅彦氏。
    資料協力してくださった木村雅彦氏に心より感謝申し上げます。
  9. 三省堂の原字は2.15インチ(5.46cm)。これは、アメリカから輸入したパターンが4.3インチであり、その大きさで字画の多い漢字の設計をおこなうのは大変なので2分の1サイズにしたから。晃文堂をはじめとする他社では、原字は2インチ(5.08cm)で書いていた。朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行、2008)P.19より
  10. 筆者による杉本幸治へのインタビュー(2009年1月30日)より
  11. 同上

[参考文献]

  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)
  • 朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行、2008)
  • 『季刊タイポグラフィ』3号(日本タイポグラフィ協会編、柏書房発行、1974.4)
  • 雪朱里『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社、2010)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。