「ああ、お月さま。──明日は下田、嬉(うれ)しいな。赤坊の四十九日をして、おっかさんに櫛(くし)を買って貰って、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行って下さいましね」
「あんなに大きく見えるんですもの、いらっしゃいましね」
「お掛けなさいまし」
「どうしてあんなに早くお歩きになりますの」
ここに並べたのは、川端康成の『伊豆の踊子』の中で、薫(かおる)という踊子が20歳の「私」に対してしゃべることばである。
「それはあなたの思っているより重いわ。あなたのカバンより重いわ」
なんて、対等っぽく笑うセリフもわずかにあるが、基本的に薫は『目下』の者として「私」に接している。次のように、私に直接ものを頼むことさえはばかられるぐらいである。
踊子はおじさんおじさんと言いながら、鳥屋に「水戸黄門漫遊記(まんゆうき)」を読んでくれと頼(たの)んだ。しかし鳥屋はすぐに立って行った。続きを読んでくれと私に直接言えないので、おふくろから頼んで欲(ほ)しいようなことを、踊子がしきりに言った。
[川端康成『伊豆の踊子』1926]
鳥屋のおじさんには気安く頼めることが、20歳の「私」には頼めない。ということは、これは年齢の問題ではない。身分の問題である。制帽と学生カバンを身につけた「私」は学生様であり、茶店の婆さんには「旦那様」と呼ばれ敬われている。一方、薫は(同じ茶店の客であるのに)婆さんから「あんな者」と蔑まれる旅芸人の娘に過ぎない。だから薫は「私」に対して『目下』としてしゃべっている──という理屈はわかるけど、しかしさすがに時代を感じるね。「なさいまし」とか「お歩きになりますの」とか、ことばの古さもあるけど、薫って、今どきの娘じゃあないよ。だってまだ14だもの。いくら相手が上だっていっても、今の14歳がここまで『目下』キャラを発動するかね。
たとえばお店に行ったら、親がいなくて、14の子供が満面の笑みで出てきて「あ、いつもお世話になっとります。じきに帰ってきますんで。いえいえ、ささ、どうぞお履き物をお脱ぎになって」なんて親並みにしゃべって「シー」と空気でもすするかね。そんな14歳はあんまりいないだろうし、こっちだって14歳にはそういうことは期待しないんじゃないの。
子供がかしこまって平伏する、なんてのも、時代劇にはありそうだけど、今は見ないね。誰に対してもぞんざい口調が許される「格」の最低値を、この連載では仮に『ごまめ』と呼んでいるわけだけど、『ごまめ』を卒業する時期が、昔からすると、遅くなってるってことかねえ。
「格」の最低値『ごまめ』と、「年」の最低値『幼児』が弱い形で連動するってことはもう話したけど(第63回)、『幼児』に次いで若い『若者』とも、『ごまめ』は結びついてきてるみたいだね。これも前に言ったけど(第63回)、親に丁寧な口をきかない、内弁慶ならぬ内『ごまめ』も今は多いみたいだしね。
え、みんなそうなんじゃないのかって? たしかに、マンガ『サザエさん』の磯野カツオや、『ドラえもん』の野比のび太なんかは、親にぞんざいにしゃべってるね。でも、『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎や、『一休さん』の一休さんとかは、親に「です」「ます」調で話してるよね。『巨人の星』の星飛雄馬は親に対してぞんざいにしゃべってるけど、上流階級って設定の花形満は親に丁寧にしゃべってるんだよね。
韓国語でもやっぱり、親には丁寧にしゃべるんだけどね。ま、韓国語社会は、どんな悪い奴でも年上には敬語でしゃべるっていうから、一つの巨大な体育会みたいなもんで、日本語社会とはまた違うかもしれないけどね。