クラウン独和辞典 ―編集こぼれ話―

14 言語の規範意識

筆者:
2008年6月23日

辞書には、言語の実際の使用を示す記述的な面だけではなく、「正しい」と思われる使用を示す規範的な面も必要である。その「正しさ」は、時代とともに変化するものである。

言語にとっての「正しさ」を決める規範意識がどのように生じるのか、よくわかっていない。文化庁による2003年度「国語に関する世論調査」の結果によると、「姑息な手段」という言い回しの「姑息」は、次のように理解されている。

(ア)「一時しのぎ」という意味    ……… 12.5%
(イ)「ひきょうな」という意味    ……… 69.8%
(ウ)(ア)と(イ)の両方      ………  4.7%
(エ)(ア)や(イ)とは全く別の意味 ………  1.7%
        分からない      ……… 11.4%

「姑息」とは本来は(ア)の意味だったのだが、この調査結果から考えると、圧倒的多数派の(イ)が現代では「正しい」意味であり、本来の(ア)は誤りと考えるべきなのだろうか。しかし今年の1月に刊行された「広辞苑」第6版を見ても、(ア)の意味しか記述されていない。2006年10月刊行の「大辞林」第3版には、〔現代では誤って「卑怯(ひきょう)である」という意味に使われることが多い〕という丁寧な注記がある。しかしどちらの辞書も、「一時しのぎ」という意味が「正しい」と判断しているのである。

言語の規範意識は、多数決では決まらない。しかし本来の意味・論理的な意味が常に「正しい」というわけでもない。もしそうなら、「おかしい」を「滑稽である」と理解する現代人は全員、誤った日本語を使っていることになってしまう。言語の規範意識がどのように生じるのか、よくわかっていない。しかし規範意識は時代とともに変化するものなのである。

ドイツ語の接続詞weilは従属接続詞であり、定動詞は後置されるのが「正しい」用法だと考えられてきたが、実際の用例を調べてみると、定動詞正置の用例も数多く見つかる。このような定動詞正置の用法は、特に話し言葉において、最近増加していることが確認されている。このような現象は他の従属接続詞には見られず、weil特有のものである。

クラウン独和第4版では、接続詞weilに関して「話し言葉では定動詞正置文が用いられることもある」という注記とその用例を書き加えた。この注記は、ドイツ語の実際の使用法の記述としては明らかに正しい。ドイツ語の規範としては、どうだろうか。「話し言葉では」という条件付きでなら、ドイツ語の規範としてもすでに正しいと言えるのではないだろうか。

筆者プロフィール

『クラウン独和辞典第4版』編修委員 重藤 実 ( しげとう・みのる)

東京大学大学院人文社会系研究科教授
専門はドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

編集部から

『クラウン独和辞典』が刊行されました。

日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

(第4版刊行時に連載されたコラムです。現在は、第5版が発売されています。)