漢字の現在

第81回 64画以上の字

筆者:
2011年2月1日

前回、画数の話といえばお決まりのテーマとなった観のある「龍4つ」をはじめとする64画の字について、とくに「龍4つ」の成立と運用の実際に触れてみた。

ちなみに中国では、これを元にしたとも思われるような、さらに画数の多い字(符か)も道書つまり道教の経典に見られはした。『大漢和辞典』でも、一部で目玉のようにも扱われているその64画の字は、漢文の参考書にも転載され、小学生か中学生だった私にも、そんな凄い漢字を載せたという辞書を部屋に置きたいと思わせ、漢字の不可思議な世界に導かせるのに十分な存在であった。

ただ、この字は、『大漢和辞典』が編纂された当初(戦前)は、その原稿に存在さえもしておらず、数奇な運命を経て、ついに掲載されるに至っていたということが色々な出逢いのお陰で最近分かってきた。これは、検証の説明に字数を要するので、別に述べることとしたい。

ほかにも、『当て字・当て読み 漢字表現辞典』には、凄まじい画数の漢字が実際に使用された例を鏤めてみた。

中国語辞典のたぐいで総画索引の末尾に36画として載る「(鼻+囊)」(nang4 鼻がつまる)について、中国からの留学生たちに聞いてみると、語としては知っている者もあるが、漢字はない(有音無字)と思っていた、という。30画を超す字が常用されることは、中国でもまずないようだ。しかし、その中国から進出してきた50画台で擬音語を表したとされる字【図1】を含むラーメンの名「ビアンビアン麺」は、店で画数を当てられれば値引きしてもらえると聞いた。ただ、その字の本場である中国は西安でも、店舗によって掲げられた字体が少しずつ違うので、どの画数が本当なのかは分かりにくい。その字は、かの秦の始皇帝が発明したという立派な伝承まで生まれていて、何やらもっともらしそうだが、元は「日月」「干戈」「馬」「糸」「長」「言」「心」を組み合わせた、やはり64画に達する南方の造字【図2】だったのでは、と思われる。

図1

【図1】

図2

【図2】

そして、それらの64画という中国思想によって構築されたと考えられる大きな「壁」を軽々と突破し、70画台ともいえる「字」も日本で登場する。「64」という無意識ではあっても継承されてきたであろう思想的な縛りを意識しなかった日本人ならではの芸当、ともいえようか。その一つが「大一座」を表す江戸時代の戯作に登場する遊びの字であり、一部では有名になっている。さらには、宮沢賢治によって実際に詩の中で記された、正真正銘の76画の造字【図3】も、ファンなどの間では知られており、なおも個人文字ではあろうが載せておいた。この「鏡」を4つ書く字まで入った画引き索引があの辞書に、紙幅などの制約を超えて設けられたならば、末尾において目を驚かせることになったであろう。そんな画数のものがありうるのか、と思われる方は、パラパラとでも眺めて、見つけてみていただけると幸いである。

図3

【図3】

そして、「雲」を「品」字様に3つ、その下に「龍」を同じく3つ重ねて84画に達するという、幽霊名字とおぼしい「国字」、読みは「たいと」「おとど」などと言われるものについての真相究明など、画数の多い「字」には、まだ解けない謎も残されている。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。