漢字の現在

第219回 死んでしまった字に魂を?

筆者:
2012年9月11日

前回の「エイ フン」という謎の字への「エイ」「フン」という注記は、訓読みなのかも知れない。いずれも和語では応答や呼びかけの際の感動詞として、当時から存在していた。『宇治拾遺物語』の有名な「ちごのそらね」での「ゑい」というタイミングを逸した稚児の返事を思い出す。これが「曳」と表記されることもあった。現在用いられる同意の「ええ」は仮に別だとしても、運動会の「えいえいおう!」もその名残だろう。「ふん」は「ふむ」「うん」と同系統の感動詞として理解することができる。

そうすると、助字の「兮」で語気を示そうとしたのか、とも思えるが、字音はケイだ。胡散臭い字音や誤刻らしき字訓、字体の崩れも多い辞書だ。やはり解けない。

グリフウィキ(GlyphWiki)では、すでに明朝体風にデザインされている。

//glyphwiki.org/wiki/hokke-37524

大学生たちに、こんな字があると紹介して見ると、びっくりされる。早速、例文を作って書いてくれた女子学生がいた。

 大学のテストなんてエイ・フンだ!!

エイ、フンと読みまで上下に付いている。「何かものを「エイッ」としてる時に使う」。内容はともかく、うまい、受講生たちに大笑いが起こった。誰が使ったのかさえ分からない死字に、新たな命を吹き込んだようで秀逸だ。この用法を得て、現代に復活することなどありうるだろうか。もちろん臨時ではあろうが個人文字になった瞬間だ。ただ、この字を使ってみようという人たちは若年層にある女子が多いという年代差と性差が見られ、位相文字としても定着するなんてこともありえようか。死んだ字のままにしておくには惜しい形をしている。さらにこれを使って作文を、とやってみると面白い。もう一度新たな生命を吹き込みたくなる、そんなかわいさがあるようだ。これは、と思ったものを挙げてみよう。

 「エイ」 エイ 魚の名(鱏・鱝) その形からか。

 「犬のフン」 フン(糞) 形からという。

 「フン紙」 ふんがみ・えいし トイレットペーパーに似ているので。

 「フンげる」 なげる 送り仮名も伴う訓読みまで生み出された。動詞だ。

 「フンどし」 フンドシ(褌) 形からだそうだ。

 「フンばる フン張る」 ふんばる

 「フン反り返る」 フンぞりかえる

 「9時45フン集合」 フン(分) なごみます、とのこと。

 「エイ智」 「叡智」がもっと楽に思えるそうだ。

 「エイ画」 映画

 「遊エイ」 遊泳  「水エイ」 水泳 一反木綿のように泳ぐ、という。

 「エイ冠」 栄冠

 「エイリアン」 エイリアン お化けっぽいので。上手だ。

 「エイ眠」 永眠 お化けつながりで、だそうだ。

 「エイ利」 鋭利 刃物みたいに見えるからという。

 「光エイです」 光栄 よろこんでいる感じからという。

 「エイっ! フンっ! エイやあ!」
   えいっ ふんっ 気合いを入れる時のかけ声に使いたいです!などの意見あり。

 「エイやー」 かけ声。

 「ちゃぶ台をエイ・フン(エイ・フン)とひっくり返した。」

 「エイと心のボールを投げると、フンと投げ返された。」
   えい ふん 心のキャッチボールというが、それ以上は続けてもらえなさそうだ。

 「エイエイおー!! エイエイおー! エイエイオー!」
   えいえいおー 応援だ。何人も共通して思いついた用法だ。

上記のようにこういうものでも教えた途端に、かわいいから、早速使ってみたいという女子が現れるものなのだ。「かわいいから使いたい」「かわいいから好き」「かわいいからほしい」「かわいいから許せる」、かわいさはかなりの価値を持ち、規範を超越し、行動を決定させる原動力を秘めているのだ。ほかに、顔文字、絵文字としても文末などで使えそうだという人たちも現れた。笑ったり怒ったりした目を加えると良いという女子もいた。目は口ほどにものを言う、目が笑っていないよ、という日本人の、顔文字や絵文字の特徴や性質に表れる視点を代弁する意見だ。

これらの反応からは、辞書を典拠に文字コードに入ったならば、遊戯性が抜けないが将来そこそこ使用頻度数が得られ、新たな用法も吹き込まれていくことだろうことが予想される。

こうしたことを、あちこちでやってみるのも、漢字のもっていた柔軟性を実感する上でも悪くはなさそうだ。この辞書には、影印化された叡山文庫蔵本のほかに異本もあるようで、そこではこの字はどうなっているのだろう、興味が尽きない。現代の文字の事情だって掴みきれないのだが、まして過去のことは内省もきかず、資料も限られ、難しい。仮に300年以上前の編者のいたずらだとしても、振り回されるのもまた愉しい。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。