「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第27回 増補:築地活版とベントン彫刻機① 入手年代

筆者:
2019年8月7日

日本では明治末~大正にかけて、3社がアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。今回からは、東京築地活版製造所(築地活版)とベントン彫刻機について、あらためて見ていきたい。

 

 

明治45年(1912)にベントン彫刻機を購入した印刷局についで、民間企業で最初にベントン彫刻機を購入したのは東京築地活版製造所(築地活版)だった。

 

その入手年代には諸説あると、筆者は第12回第13回の注釈でふれ、〈印刷局と同じく明治45年(1912)とする説もあれば、三省堂と同じ大正12年(1923)とする説もある。しかし、いくつかの今井直一のインタビュー記事を見ると、すくなくとも三省堂より先に入手しており、今井はその使用状況などを聞いていたように思える〉と書いた。

 

その後あらためて築地活版について調べたところ、大正10年(1921)5月にベントン彫刻機を輸入したという記述を板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)で見つけた。[注1] つづいてベントン彫刻機が〈実際に実用化されたのは翌11年であった。〉とのべられている。同書は〈東京築地活版製造所の歴史に合わせて、わが国の活字の発展がどのようになされてきたのかを示すもの〉[注2]であり、同社に関連する資料に丹念にあたってまとめられたものだ。大正10年5月という時期が具体的にどの資料からひかれたものかはわからないが、おなじく大正10年(1921)の『印刷雑誌』9月号「珍聞閑聞(二)」に、こんな記事を見つけた。

 

築地活版のベントン彫刻機による母型、お菓子の様に綺麗な仕上り。それで鋳造した活字、従来の活字に類を見ざるもの。本邦民間活版鋳造界に一新紀元を画するに足る。

「珍聞閑聞(二)」『印刷雑誌』大正10年9月号[注3]

 

この記事を見るかぎり、築地活版は大正10年9月よりまえにベントン彫刻機を輸入しており、実用化はまだだったとしても、彫刻母型の試作には着手していたようだ。

 

『印刷雑誌』大正15年(1926)10月号には、関東大震災(大正12年)の数年前にアメリカのベントン彫刻機を購入したという記述もあった。[注4] 一方で、『印刷雑誌』大正12年(1923)10月号に〈本春は世界一と折紙付のベントンエングレービングマシンが設備され〉[注5]と書かれていたり、板倉雅宣『活版印刷発達史』(前出)では、大正12年(1923)7月に築地活版の本社新社屋が竣工し、ベントン彫刻機が稼働を開始したとも書かれていたりする。[注6] 築地活版におけるベントン彫刻機実用化の時期は大正11~12年ごろと、ひとまずは幅をもたせてかんがえておくことにする。

 

ここであらためて、同社のベントン彫刻機購入時にふれた記事をひこう。

 

 活字の問題の大部分は母型の問題である。殊に日本の様に文字種類の多い国柄では、一層甚だしい。加うるに、種字彫刻の特技を有する工人は殆ど跡を絶たんとしている。此所に於てか精密な機械力によるより外に道がない。この事を最も痛感して居たのは、故野村社長で、震災数年前に、世界唯一ともいうべき米国のベントン母型彫刻機を購入した。当時同機の価格は二万円を超えたのであったが、会社は思い切って之れを設備し、
(中略)
同機は米国鋳造会社(筆者注:アメリカン・タイプ・ファウンダース=ATF)が、自ら発明し、自らの用として製造するに過ぎず、同社の偉大を以てしても七、八台を有するに過ぎないのであるから、製造に長時を要するのであった。

「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年(1926)10月号[注7]

ここでもベントン彫刻機が2万円を超える金額だったとのべられている。また、ATFが自社内でつかうために製造しているものだとも書かれており、亀井寅雄が書いていた〈この字母彫刻機は、同会社が優秀なる字母を製作して売り出すために発明した機械で、売品ではなかった〉という内容[注8]と一致している。ただ、記事では〈ベントン母型彫刻機を購入した〉と書かれているので、一般販売はしていなかったとしても、ATFが築地活版に販売したことは事実だろう。

 

日本のベントン彫刻機導入についてもう一度整理すると、つぎのようになる。

  • 明治45年(1912) 印刷局が1台購入
  • 大正8年(1919) 三省堂・亀井寅雄、印刷局でベントン彫刻機を知る
  • 大正10年(1921)5月 東京築地活版製造所が1台購入
  • 同年10月15日、三省堂・亀井寅雄、ベントン彫刻機入手を切望し欧米視察に出発
  • 大正11年(1922)春 三省堂・亀井寅雄、今井直一とともにリン・ボイド・ベントンに面会し、ATFにベントン彫刻機を注文
  • 大正11~12年(1922~23) 東京築地活版製造所、ベントン彫刻機を実用化
  • 大正12年(1923) 三省堂の注文していたベントン彫刻機1台と母型仕上機が日本に到着
  • 大正12年(1923)9月1日 関東大震災起こる

 

ここで気になるのが、関東大震災の影響だ。

印刷局のベントン彫刻機は、震災によって起きた大火事で、工場ごと焼けてしまった。三省堂は本社と神田三崎河岸工場が全焼したものの、ベントン彫刻機はまだ横浜の保税倉庫のなかにあったため、ぶじだった。はたして、築地活版はどうだったのだろうか?

(つづく)

 

ベントン彫刻機で製作された彫刻母型の例(築地活版の母型ではない

ベントン彫刻機で製作された彫刻母型の例(築地活版の母型ではない)

 

[注]

  1. 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)P.90
  2. 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)P.5
  3. 「珍聞閑聞(二)」『印刷雑誌』大正10年9月号(印刷雑誌社、1921)P.13
  4. 「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号(印刷雑誌社、1926)P.10
  5. 同上
  6. 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)P.91
  7. 「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号(印刷雑誌社、1926)P.10
  8. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.5

[参考文献]

  • 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)
  • 「珍聞閑聞(二)」『印刷雑誌』大正10年9月号(印刷雑誌社、1921)
  • 「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号(印刷雑誌社、1926)
  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(執筆は1950)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。