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明解PISA大事典:PISA型読解力への疑義あるいは異論2―そんな力、本当に必要なの?

2010年 7月 16日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第40回 PISA型読解力――そんな力、本当に必要なの?

 このところ2回連続して、作家の石田衣良さんとシンポジウムでご一緒する機会があった(1)。いずれも読書振興に関するシンポジウムである。みんなすっかり忘れているが、あるいはまったくご存じないが、今年は国民読書年(2)。読書活動を推進するような講演会やシンポジウムが、あちこちで(しかし細々と――なにしろ関連の基金が事業仕分けされてしまったのだ!)開かれているのである。

 石田さんとのシンポジウムはエキサイティングである。読書振興が目的の会のはずなのに、「本を読んで、いったい何の役に立つんでしょうねえ」とか、「本ばかり読んでる、気持ち悪い人もいますよねえ」とか、「読み聞かせなんて、ボクは絶対にやりません」などと、実に凄まじいことを言うのである。そこに、いとうせいこうさんや私が加わって、ぐちゃぐちゃの議論というか放談を繰り広げるものだから、読書振興を目指している真面目な主催者にしてみれば、傍で見ていて気が気でなかったことだろう。

 1回目のシンポジウムでは私が基調講演し、2回目のシンポジウムでは石田さんが基調講演した。私の基調講演は、例によってPISA型読解力に関するものである。ただ、最近では「PISA型読解力」という言葉はあまり使われず、「言語力」という、さらに定義の曖昧な言葉が使われるようになっている(しかし『言語力』といったほうが、『PISA型読解力』というよりも分かりやすい感じがするのだから不思議だ)。

 私の基調講演のあとのシンポジウムで、なんとなく「PISA型読解力は必要だ」という感じで話が流れていた時のこと、いきなり石田さんが「そんな力、本当に必要なんですかねえ」と言い出した。

 もちろん、何の理由もなく言っているのではない。

 これまでにも述べてきたことであるが、PISAとは多様化・複雑化・グローバル化した世界を背景に、グローバル労働市場において人材に求められる能力を測るテストである。確かに、現代が多様性の時代であることは認めざるをえない。だが、日本人の強みは多様性の強みではなく、むしろ画一性の強みなのではないか。多様化する世界において、多様性を活かせる人材が必要なのは認めるが、別に日本人がそれに合わせる必要はないのではないか。ほかのアジアの国々のように上り調子で、これから世界で勝負しようというのなら話は分かる。だが、日本は下り調子で、しかも上り調子に転じる見込みもないのだから、無理しなくてもいいのではないか。

 そういえば、石田さんの基調講演には「坂の下の湖」というタイトルが付けられていた。いま日本人は「坂の上の雲」(3)を目指すのではなく「坂の下の湖」を目指すべきなのではないか。いま必要なのは「攻め」の姿勢よりも、むしろ「守り」の姿勢。PISA型読解力は「守り」においても有効かもしれないが、その習得を目指すことで失われるものはないか? 失われるもののほうが大きいのではないか? だいたい、本を読むのに、目に見える根拠だけをチマチマ拾って、それだけを手がかりに益体もない議論をするなんて気持ち悪い――。

 「なるほどねえ」と、私も受けてしまったものだから、それからはスローな読書、耽美的な読書をテーマに、ゆるやかな話が続いた。人生において下降線を辿っている人間にとって、読書が格好の「避難所」になることについて。まさに「守り」の姿勢だ。

 読書振興を図るためのシンポジウムであるにもかかわらず、読書について前向きの議論にならないものだから、さすがに気が引けたのか、石田さんが最後に付け加えた。

 「本を読むと、モテますよ」

 本当か?

* * *

(1) ひとつは「子どもの読書活動推進フォーラム」(4月23日・於国立オリンピック記念青少年総合センター)、もうひとつは「近畿大学国民読書年フォーラム」(5月29日・於近畿大学)。
(2) 平成20年6月6日、衆参両院において、平成22年を「国民読書年」とすることが決議された。決議の内容については、以下のサイトを参照。
 http://www.mojikatsuji.or.jp/link_5dokushonen2010.html
(3) 言わずと知れた司馬遼太郎の名著(文春文庫・1999など)。欧米という「一筋の雲」を目指して、日本が「坂」を一生懸命に登っていたころのお話。

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

* * *

【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

明解PISA大事典:PISA型読解力のような力は必要か

2010年 6月 11日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第39回 PISA型読解力への疑義あるいは異論1

 最近、二人の作家と「PISA型読解力」について話す機会があった。一人は猪瀬直樹さん、もう一人は石田衣良さんである。話の内容については週刊東洋経済の連載(1)でも少しふれたが、ここでは別の観点から論じることにする。

 今回は猪瀬さんとの話から。ここでの猪瀬さんは作家というよりは、東京都副知事という立場である。石原慎太郎という作家が知事、猪瀬直樹という作家が副知事を務める東京都においては、昨今の活字離れの風潮をなんとかし、それによる言語力の低下をなんとかしようということになった。「活字離れ」と「言語力(読解力)の低下」が単純に結びつくかどうかは難しいところであるが、PISAの読解力調査(2000年のもの)を含む、さまざまな調査において何らかの相関関係がありそうなデータが示されてはいる(2)。とにかくなんとかしようということで、まずは都庁職員から意識改革をしようということになり、その第一回勉強会(4月16日)に私が講師として招かれ、また、猪瀬さんとテレビで対談するなどしたのである(3)

 このような経緯があるため、猪瀬さんとの話は、基本的には「PISA型読解力のような力は必要だ」という雰囲気の中で進んだ。ただ、猪瀬さんに「作家としての立場から」というふうに水を向けたとき、やや含みのある答えが返ってきたのである。

 たとえば「AはBだ」ということを言いたいとき、いわゆる「ぴざ的」な発想からすれば、AとBを線でジリジリと結びつけていくような、言葉を尽くして、論理を組み上げて、誰でも理解できるように納得できるように表現することが求められる。猪瀬さんも、確かにそういう力は必要だ、という。だからこそ、「AはBだ」ということを言うだけのために、一冊の本を書くことになってしまうこともあるというのだ。

 ただ――と、猪瀬さんは話の流れを一時押しとどめ、俳句や短歌のように一瞬の言葉の閃きで、すべてを表現する場合もある、と釘を刺した。

 「AはBだ」ということを言いたいとき、AとBとを線でジリジリと結びつけていくのではなく、AとBの間にある点、あるいはぜんぜん関係ない(ように見える)ところの点を示唆することにより、聞き手あるいは読み手の頭の中でAとBとを一瞬で結び付けさせてしまうという、考えようによっては、たいへんな荒ワザである。だが、文学にはそういう面もあるということだ。

 PISA読解力調査のテキストには、説明文や意見文(これは滅多にないが)はもちろんのこと、物語文であっても、「AだからB、BだからC、CだからD」というように、ジリジリと線をつないでいくような論理性が求められる。もちろん、特に物語文の場合は、この流れは必ずしも明示的なものでなくてもよく、暗示されているだけの部分があっても構わない。いずれにしても、この論理性があるからこそ、「A・B・Cの情報から、何が成り立つか?」(原因から結果の推論)や「Dを成り立たせるには、どのような情報が必要か?」(結果から原因の推論)という問いに、「文章にふれながら」答えさせることが可能になり、かつ自由記述であっても、わりと機械的かつ客観的に評価することが可能になるのである(4)。このようなPISA読解力調査で求められるような力も必要であるが、それ以外の力――一瞬の言葉の閃きを感得するような力も必要であるというのだ。

 坂口安吾は「FARCEについて」において、五十嵐力の著書からの引用として「古池や蛙飛び込む水の音 さびしくもあるか秋の夕暮れ」という短歌をあげている(5)。芭蕉の有名な句に下の句をつけた格好だ。気分と季節と時間帯が加わっているのである。これを見てびっくりしたのは、まず「さびしい」という気分。次は「秋」という季節。そして「夕暮れ」という時間帯。この解釈が正統的なものかどうかは知らないが、少なくとも私は芭蕉の句からぜんぜん違う光景を想像していた。それはともかく、坂口安吾は、この短歌が、言葉を費やしてまんべんなく説明しようとしたために、「結局芭蕉の名句を殺し、愚かな無意味なもの」にしてしまっていると批判している。一瞬の言葉の閃きに、点と点を結ぶ線は無用のようだ。だが、この芭蕉の句が欧米の言語に翻訳されると、「静かな池に、蛙(複数)が飛び込んだので、ボチャンと音がして静けさが破られたが、しばらくしてまた静けさが戻った」というように、言葉をまんべんなく費やして奇妙に論理的なものになってしまう。そうでなければ欧米人は理解できないのだという。まあ、このように翻訳されれば、芭蕉の名句もPISA読解力調査のテキストにも使えそうだが。

 猪瀬さんは、それ以外の力の必要性にふれながらも、「ぴざ的な力」の必要性も認めてくれた。ところが、石田衣良さんには真正面から否定されてしまう。これについては次回。

* * *

(1) 週刊東洋経済「わかりあえない時代の『対話力』入門」第52回(2010年5月29日号)と第55回(2010年6月19日)
(2) たとえば「生きるための知識と技能―OECD生徒の学習到達度調査PISA2000年調査国際調査結果報告書」国立教育政策研究所編/ぎょうせい 2002年など
(3) 東京MXテレビ「東京からはじめよう」(2010年5月1日放映)
(4) PISAの問いについては、第7回第8回を参照。
(5)『堕落論』p.17/坂口安吾/新潮文庫

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
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明解PISA大事典:フィンランド型教育からみた漫画、教科書の挿絵

2010年 5月 21日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第38回 ViewingとReading

 日本のストーリー漫画がティーンに大人気のフィンランドであるが、現時点で漫画を「よくないもの」とする論調は表立っては存在しない。これには多分に日本文化に対する敬意が作用しているような気がしないでもない。あるいは遠慮なのかもしれないが、いずれにしてもありがたいことである。

 昨今のフィンランドでは、日本の漫画のみならず、宮崎アニメも大人気であり、特にメディア教育関係者からの評価が高く、さまざまなかたちで教育現場に入り込んでいる。そういった事情に関連しているのだろうが、フィンランドでメディア教育関係者と接触すると、「日本の小学校や中学校では、どのようにして漫画やアニメの制作技術も教えているのか?」という、ちょっと不思議な質問を受けることが多い。質問の意図を問うと、「漫画やアニメは日本の優れた文化であり、それを継承・発展させるための措置が義務教育の段階からなされているのではないか、というあたりに興味がある」とのこと。なるほど。この生真面目さがフィンランド人の身上である。漫画やアニメを素材として用いるだけではなく、その制作技術も小学校から学ぶ――やってみたらどうだろうか?

 漫画を「よくないもの」とする論調は表立っては存在しないが、裏ではいくらでも存在する。学校の先生たちの話を聞いていると、「暴力シーンが多すぎる」という批難が多いが、「あんなもののどこがおもしろいんだ?」というミもフタもない批難も少なくない。ただ、後者の批難については、フィンランドの、特に年配の先生にとっては、日本の漫画の読みかた自体がよく分からないということに起因する部分もあるようだ。フィンランドの本はすべて左開きであるのに対し、日本の漫画だけが右開きであるため、フィンランド人が漫画を手にすると必ず裏表紙から読み始めようとする。また、日本の漫画の独特なコマ割りも、複雑怪奇というイメージを与えるようだ。

 フィンランド国語教育の重鎮メルヴィ・バレ先生(1)は「漫画を読むこと自体は悪くない。だが、漫画だけしか読まない、というのを許してはならない」としている。バレ先生は日芬友好協会の古参の会員でもあり、「漫画は日本のすばらしい文化だ」と声高に主張する立場なのである(とはいえ、本人は漫画を読まない。やはり読み方がよく分からないのだそうだ)。

 では、なぜ「漫画だけしか読まない、というのを許してはならない」というのか?

 この点について、バレ先生はフィンランドの国語教材作法と関連付けて説明しており、なかなか興味深い。フィンランドの国語教材作法(小学校)においては、挿絵と文章の関係について詳細な段階設定がなされている。「挿絵から情報を取り出す」「文章から情報を取り出す」「挿絵と文章の情報を統合して解釈する」技能を特に重視しているためだ。

 挿絵と文章の関係について、フィンランドの国語教材作法(小学校)を簡単に紹介することにしよう。

 1~2年生の教科書では、素材全体に占める挿絵の比率が高く、挿絵から取り出せる情報も多い。挿絵と文章の情報を統合して一つの物語を創っていくことを重視しており、その意味では絵本の読解に近い。また、この段階では、挿絵においても、文章においても、人間と動物が同等の存在として登場してもよいことになっている(2)

 3~4年生の教科書では、挿絵の比率がやや低くなるものの、「物語性のある挿絵」を付することになっており、依然として挿絵から取り出せる情報は多い。挿絵から取り出せる情報と、文章から取り出せる情報の比較が重要であるため、「挿絵からは分かるが、文章からは分からないことは何か」という課題が定番である。この段階から、文章においては人間と動物が同等の存在として登場することは許されなくなる。物語の内容が現実にありうることか、現実にはありえないことかをクリティカルに判断させるためである。ただ、移行をゆるやかにするため、3年生の前期(秋学期ともいう。8月末~クリスマスまで)の単元では、挿絵でのみ人間と動物が同等の存在として登場している教科書も存在する(3)

 5年生以上の教科書では、挿絵は抽象的なイラストとなり、登場人物や場面のようすがうかがわれるような挿絵はほとんど用いられなくなる。文字情報だけを手がかりにして、登場人物や場面のようすを推論する技能を重視するためだ。ここから、挿絵や写真や図表やグラフなど、視覚的な素材から情報を取り出す技能は、メディア教育の単元へと移管されていくのである(4)

 このようなプロセスを経て成長してきたのに、ティーンになって漫画ばかりを読むのは、最初の絵本の段階に逆戻りするようなものだ、とバレ先生は言う。漫画しか読まなくなると、本を読まなくなる、さらには本を読めなくなるというのは、そのあたりにも原因があるかもしれないと言う。もちろん漫画を読むこと自体が悪いのではない。漫画だけしか読まないというのがいけないのだ、と改めて強調しつつ――。

 こういった議論を聞くと、なんとなく懐かしいような感じがする。いまの日本は、本も売れず、漫画も売れない時代に突入しているからである。フィンランドの漫画をめぐる議論自体は、特に日本の参考にはならない。だが、これをViewingとReadingの議論として眺めると、実に興味深いのである。

* * *

(1) メルヴィ・バレ先生については第27回の注を参照⇒「第27回 フィンランド紀行7」の注へ
(2) 『フィンランド読解教書』(メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2008年)を参照。
(3) 『フィンランド国語教科書 小学3年生』『フィンランド国語教科書 小学4年生』(メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2006年・2005年)を参照。
(4) 『フィンランド国語教科書 小学5年生』(メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2007年)を参照。

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北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
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明解PISA大事典:活字離れと国民読書年

2010年 5月 7日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第37回 読書力・読解力・言語力

 このところ、読書力やら、読解力やら、言語力やらに絡めたイベントが多い。この背景には国民読書年がある。実は今年は「国民読書年」である。改めて言わなければ、ほとんど誰にも通じないあたりが虚しい。

 今年を国民読書年とすることは、一昨年の6月6日「国民読書年に関する決議」において衆参両院の全会一致で決議された。この決議では、人類は文字・活字によって叡智を継承・発展させてきた。だが、「活字離れ」という現状がある。そこで、読書振興のため、国をあげて努力する――と宣言されている(1)

 ただ、その実態については、奇しくも「国民読書年」に関連する一大イベント(2)の開催された4月23日に、「とくダネ!」(フジテレビ)で揶揄されていた。国民読書年にかかわる文科省の予算はゼロ。そのため、関連の財団(3)が細々とイベントなどを開催しているだけ。また、子どもの読書活動支援のために創設された「子どもゆめ基金」(4)は事業仕分けで99%縮減されてしまった。国民読書年に、これではいかんのではないか?――というのである。

 これではいかんのは確かなのだが、なぜいかんのか? よく「読書は必要だ」といわれるが、なぜ必要なのか? そもそも読書とは、どのような行為を指していうのか? マンガを読むのは読書なのか、それとも読書ではないのか? これだけメディアの発達した時代において、紙媒体でなければ読書ではないのか? 新聞紙に書かれたニュースを読むことと、ネットでニュースを読むことは同じなのか、違うのか? ケータイ小説は?……このあたりを曖昧なままにしておくと、「読書は必要だ!」と主張したところで、あまり効果はないように思う。「必要だから必要なんだ」という循環論証では、なんの説得力もない。郷愁にとらわれているだけだと思われたり、出版業界のマワシモノではないかと勘ぐられたりするのがオチである。

 いまフィンランドでは、日本のストーリー漫画が大流行している。4年くらい前までは英語訳の漫画が本屋に並んでいたものだが、3年くらい前からフィンランド語訳版が並ぶようになって大流行が始まった。最近では駅の売店にまで、最新刊の漫画本が並んでいたりする。学校の落書きにも、漫画の人気キャラクターが目立つようになってきた。特に中学生女子に人気のようで、私がフィンランドの中学校を訪れると、「私は漫画家になりたい。日本に留学して漫画家になる勉強をしたい。どうすればいいのか?」という質問を少なからず受けるようになった。

 フィンランドの国語の先生たちは、当初は楽観視していた。「漫画を読むのも読書のうちだ」と余裕を見せていた。ところが、徐々に漫画の恐ろしさ――というか影響力の強さを思い知るようになる。だいたい、それまでのフィンランドでは、漫画といえばムーミン、アメリカ発の幼児向け漫画、あるいは新聞などに掲載される大人向け漫画くらいしか存在しなかった。若者向けの漫画は質・量ともに乏しかったので、若者が漫画にハマるということはなかった。要するに、漫画の恐ろしさ――というか影響力の強さを知らなかったのだ。漫画を読み始めた若者たちは、漫画しか読まなくなった。また、読書の習慣が身についていたはずの若者が、漫画しか読まないでいるうちに、その習慣を失うようになってしまったというのである(5)

 ことここに至って、フィンランドの国語の先生たちも「漫画だけではなく、本を読もう」と言わざるをえなくなった。そのためには、なぜ読書が必要なのか。漫画を読むことと、本を読むことがどう違うのか。なぜ「漫画だけ」ではダメなのか――といった問題を解決せざるをえない。

 では、どのように解決したのか? このあたりについては、日本における国民読書年関連のイベント内容にふれつつ、次回以降で説明したい。

* * *

(1) 決議内容については、(財)文字・活字文化推進機構のウェブサイトに詳しく紹介されている。http://www.mojikatsuji.or.jp/link_5dokushonen2010.html
(2) 『子どもの読書活動推進フォーラム―国民読書年を迎えて―』於国立オリンピック記念青少年総合センター 主催は文科省と国立青少年教育推進機構
(3) (財)文字・活字文化推進機構のこと。
(4) (財)文字・活字文化推進機構が「細々と」行なっているイベントは少なからず、この基金によっていた。
(5)2009年11月、Pirjo Sinkoフィンランド教育庁国語専門官より聴取。

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明解PISA大事典:生きるための知識と技能

2010年 4月 23日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第36回 生きるための知識と技能:「生きる力」としての「読む力」の実態

 PISAといえば「生きるための知識と技能」である。PISAの結果が発表されるたびに、そういう題名の本が当局から出されることからしても(*)、PISAといえば「生きるための知識と技能」であることがわかる。だから、PISAの読解力についていえば、「生きるための知識と技能」を読解力という観点で測定するということである。平たくいえば「生きるために読む」力のテストということだ。

 「生きるために読む」とは、どういうことか? ここでPISAの高級な部分のみ取り出せば、「テキストをクリティカルに読むことによって、よりよく生きる」というようなことになり、「クリティカル・リーディングが必要だ」というようなことになる。だが、PISAは高級な部分ばかりではない。いまやPISAの参加国は70を超え、OECD外の参加国のほうが多くなっている。そういった国々の中には、求人情報や製品情報をきちんと読めるかどうかが「生きる力」と直結しているところも少なくない。

 ここで「きちんと読める」という曖昧な書きかたをすると、大きな誤解を招く恐れがある。「きちんと読める」レベルは、国によって大きく異なるからだ。日本では考えられないほど低いレベル――「低いレベル」という言いかたは適切ではないかもしれない。言いかえるならば「サバイバル・レベル」?――で「きちんと読める」かどうかを試さなければならない国も数多く存在するのである。そして、そういう国もPISAに積極的に参加していたりする。よって、PISAにもそのレベルの問題が出題されていたりする。そして、そういう問題の全体に占める割合が、決して低くなかったりするのである。

 サバイバル・レベルの読解問題とは、一般的には次のようなものだ。

 たとえば牛乳のパッケージが課題文だったとしよう。サバイバル・レベルの場合、牛乳のパッケージのように、身の回りにあるもので何らかの情報の取り出せるもの、そして情報の取り扱いようによっては多少の危険やリスクをともなうものが使われる。

 まずは「この製品は何ですか?」を聞かねばならぬ。牛乳のパッケージなのだから牛乳に決まっているなどと考えてはならぬ。製品名が「牛さんのおくりもの」だったりすると、製品が何なのか迷う人がいるかもしれぬ。製品情報の「原材料:生乳」というところきちんと見て、適切に「推論」しなければならぬ。

 牛乳を買う場合、やはり「消費期限」や「賞味期限」を見なければなるまい。ということは、読解問題においても、「消費期限」や「賞味期限」について聞かなければなるまい。ここで聞くべきことは多い。「消費期限」や「賞味期限」は何を意味するのか? どう違うのか? 「消費期限4月30日」と書いてあったら、具体的に何をどうしなければならないのか? そもそも、なぜ「消費期限」や「賞味期限」が表示されているのか?

 このあたり、自由記述で答えるとなると、なかなか難しいものもある。だから、サバイバル・レベルの読解問題では、まず間違いなく多肢選択式の課題になる。

 〆の課題としては、たとえば「この製品を買ったら腐っていました。どうしたらよいですか?」というようなもの。実際には、もう少し具体的に聞く。「電話をする場合、どこに(どの番号に)電話したらよいですか?」「製品を取りかえてもらうためには、何をしなければなりませんか?」など。製品情報のところには、製品に問題があった場合の対処法について書いてあるので、そこをきちんと読めるかどうかを問うのである。

 PISAの読解力における「生きるための知識と技能」の底辺は、ざっとこのようなものである。もちろん、日本の国語教育の新たな方向性を見出していくのなら、底辺を見てもあまり意味はないかもしれない。だが、いわゆる「PISA型読解力」が、時としてコケオドシのように機能している現状を見るにつけ、その実態を知ることは必要だろう。

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(*) 『生きるための知識と技能』『生きるための知識と技能2』『生きるための知識と技能3』国立教育政策研究所編/ぎょうせい2002・2004・2007

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教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
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日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

* * *

【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

明解PISA大事典:PISA、言語力検定と日本の読解教育

2010年 4月 9日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第35回 PISAと言語力検定

 OECDの実施したPISAは日本の教育に大きな衝撃を与えたが、(財)文字・活字文化推進機構の実施した言語力検定(1)も、日本の教育現場にそれなりの衝撃を与えたようだ。現場の声で意外に多かったのが、「ふつうの国語ならできる子が、言語力検定はあまりできなかった。その一方で、ふつうの国語はあまりできない子が、言語力検定では意外にできている場合があった」というもの。

 (財)文字・活字文化推進機構の3月26日付プレス・リリースによると、言語力検定の合格率は、3級で全受検者の21.7%、4級で13.9%、不合格者64%(2)。どの級にも受かることなく、落ちてしまう割合のほうが圧倒的に高い。ふつうの国語(というのも奇妙ではあるが)ならできる子が落ちてしまって、ふつうの国語はあまりできない子が受かるという現象が起こったのだろう。もちろん、全体として見れば、「ふつうの国語ができれば、言語力検定もできる」というケースのほうが多かったはずだ。だが、よほど目立つかたちで逆転現象が起こったものと思われる。

 言語力検定は、作問と評価の方式と体制について、OECDのPISAを完全に踏襲するかたちをとっている。PISAに関する情報が限られている現状において、PISAの読解力調査の実際を知る、よい手がかりになるだろう。OECDのPISAと異なるのは、完全に日本人を対象とした作問であるということ。とはいえ、読解問題のレベルとしては、基本的にはPISAと同じ。つまり、「生きる力」としての読解力ということで、クリティカル・リーディングの問題として特に高度なわけではない。ところが、この連載でも、繰り返し述べてきたように「PISA型読解力=高度な能力」という認識が蔓延しているためか、受検した進学校を中心に面白い反応があった。

 ひとつは、大変な危機感を抱くパターン。これはまずい。これを機会に、ウチでもPISA型読解教育を始めなければ、と思い立つのである。

 この反応はよく理解できる。PISAの読解力調査で求められているような力、すなわち言語力検定で求められているような力は、もちろん進学校においても育む必要がある。ただ、あくまでも「足元を固める力」であることを忘れてはならない。ちゃんとした進学校であるならば、通常の国語の授業において、PISAの読解力調査や言語力検定よりも、はるかに高度なことをやっているのだから。

 もうひとつは「なんだこんなものか!」と拍子抜けするパターン。PISA型読解力というから、どれほど御大層なものかと思ったら、ぜんぜんたいしたことないじゃないか。選択問題は正答が自明なものばかりであるし(3)、自由記述問題にしても文中から適切な根拠さえ見つけられれば簡単に書けるものばかりだ。こんなことは、昔からウチでもやっていた、というのである。

 この反応は大変に正しい。何度でも言うが、言語力検定にせよ、その向こうにあるOECDのPISAの読解力調査にしても、このテの読解問題としては簡単なものなのだ。ただ、ちゃんとした進学校ならば、中学生にせよ高校生にせよ、全員が合格するくらいでなければ、これからの多様化・複雑化・グローバル時代のリーダーを育むのはおぼつかない。

 何年か前、あるテレビ番組で(これから述べる肝心の部分は編集で切られてしまったので、番組名は伏せる)、PISAのサンプル問題をスタジオの大学生たちに解いてもらい、その場で正答例と誤答例をとりあげて解説したことがある。有名大学の学生ばかりだったが、正答と誤答の割合は半々くらいだったか。そのあと、記述問題の考えかたについて簡単に説明したところ、司会のKさん(劇団主宰者)が「おれ、コツわかっちゃったぞ。これ、コツがわかれば、簡単に答えられるぞ」とおっしゃって、用意していたすべての問題について、即座に模範解答となるような正答を連発されたことがある。Kさんがとても頭のよい方である点を差っ引いても、実はPISAの読解力調査程度の問題であれば、コツさえ知っていれば簡単に解けてしまうものばかりなのだ。

 では、コツさえ教えれば、日本の子どもたちもPISAで一位になれるではないか――PISAで国際順位を上げることだけを考えれば、確かにそのとおりである。だが、この連載で綿々と述べてきたように、問題の所在を考えれば、日本がその選択肢をとらなかったのは賢明であった。

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(1) (財)文字・活字文化推進機構が実施する検定で、PISA型読解力の測定を目的とする。1級(大学生・社会人対象)~6級(小学校中学年対象)の級判定をする。昨年10月~11月に第一回を実施。初年は3~4級(高校生・中学生対象)のみ実施。受検者は9984名。
(2) 3級と4級は同一の問題を用い、得点率に応じて3級合格あるいは4級合格の判定がなされた。
(3) PISAにおける読解力の選択問題には、いわゆる「ひっかけ問題」が存在しない。そのため、ややこしい選択肢を見慣れた日本人の目には「正答が自明な問題」ばかりに見えるのがふつうである。

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
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明解PISA大事典:高度ながら知識不問の「PISA型」問題の答え

2010年 3月 19日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第34回 笑話による問題解決型読解教育――解答篇

 前回笑話を素材文にした場合の問題解決型読解について紹介した。最終課題は「笑話になるように、ほかの解決策を考えなさい」である。念のため、素材文のあらすじと、素材文における「問題―解決」を再掲する(*)

物語「くらのとびら」のあらすじ
 おまぬけ村のお父さんとお母さんの話である。お父さんは、野良仕事をしている間に蔵のお金がドロボウに盗まれるのではないかと心配していた。そこで、お母さんに、家事をしながら蔵の扉を見張っているように命じた。お母さんは蔵の扉を見張っていたが、話し相手のお父さんがいないので退屈である。畑に行けばお父さんと話せるのだが、それでは蔵の扉を見張ることができない。そこで、お母さんは蔵の扉を取り外し、それを背負って畑に行くことにした。お父さんはお母さんが畑に来たのでびっくりしたが、お母さんが蔵の扉を見張っていることがわかったので安心した。野良仕事を終え、家に帰った二人はびっくりした。蔵のお金がすっかり盗まれていたからである。

〈問題と解決〉
◎お父さんにとっての問題と解決
お金を盗まれるのではないか⇒お母さんに蔵の扉を見張っていてもらう。
◎お母さんにとっての問題と解決
退屈である。しかし蔵の扉を見張らなければならない⇒蔵の扉を背負って畑に行く。

 ポイントは、お父さんもお母さんも問題解決に大真面目に取り組んだつもりでいるのに、課題文のように「お金を盗まれてはならない」という大前提が崩れるか、新たな大問題が発生するように物語を書き換えることである。それができているかどうかが評価の対象であり、物語がおもしろいかどうかはそれほど重要ではない。

 当たり前のことだが、こういった課題に決まった正答はない。そこで、フィンランドと日本の実践例から、解答パターンを五つに分類して紹介することにしよう。

①見張っていたら盗まれた

 お母さんが蔵の扉「だけ」をずっと見張っていたために、ドロボウに蔵の壁を破られたり、窓を壊されたり、屋根をはずされたりしても気付かず、結局お金を盗まれてしまう――という解答パターンである。私の知るかぎり、フィンランドでも、日本でも、この解答パターンがいちばん多い。ただ、この場合は、お母さんにとっての「退屈である」という問題について、別の解決策を考える必要がある。お母さんにとって、蔵の扉を見張ることは退屈で仕方のないことなのだ。フィンランドでも、日本でも、ドロボウにお金を盗ませることにばかり熱中して、肝心のお母さんの問題を忘れてしまう場合が多い。その点を指摘すると、「お母さんは蔵の扉を見ているうちに楽しくなってきました。なんと蔵の扉がお母さんに話しかけてきたからです」などと、急にメルヘンな展開が始まったりするので、それはそれでおもしろい。

②ドロボウ登場

 物語の挿絵には二人組のドロボウのシルエットが描かれている(*)。そこから「ドロボウは二人組である」ということがわかる。この事実を利用しないテはない。たとえばドロボウの一人がお母さんの話し相手になって退屈をまぎらわし、もう一人が蔵の壁を破ったり、窓を壊したり、屋根をはずしたりしてお金を盗む(お母さんは世間話と『扉を見張ることだけ』に熱中していて気付かない)――というような解答パターンがある。お母さんの問題も自然に解決されており、①の改良型ともいえる。

 親切なドロボウがお母さんから事情を聞き、「かわりに蔵の扉を見張っていてあげましょう」と申し出る。お母さんはその提案をありがたく受け入れて畑に行き、結局お金を盗まれてしまう――というようなパターンもある。このあたりで、ちょっと別の問題の存在に気付く可能性があるのだが、これについては⑤で述べることにしよう。

③お母さん暴走

 お母さんは「蔵の扉を見張る」という行動に疑問を抱く。なぜこんなつまらないことをやらなければならないのか?「そうそう、蔵の中にお金があるからいけないんだわ」とかなんとか言って、「ドロボウさ~ん」などとドロボウを呼び寄せ、蔵の中のお金を全部持っていってもらう。そして「もう扉を見張る必要はなくなったわ」とかなんとか言って、お父さんのいる畑に向かうのである。そしてお父さんも「そうか、見張る必要がなくなったか」などと嬉しそうに言うのである――こういった凄まじい破壊力の解答を、たまにフィンランドの教室で聞くことができる。けっこうおもしろい。

④見張っていたら枯れちゃった

 お母さんの退屈をまぎらわすため、あるいはお母さんを信用できないために、お父さんも一緒に蔵の扉を見張ることになり、お父さんは野良仕事を一切しなくなってしまったために、畑の作物が全部枯れてしまう――というようなパターン。この物語の場合、フィンランドでも、日本でも、あまり新たな問題を発生させる余地がないようだ。

⑤余計なことに気付いちゃった

 世の中には気がつかないほうが幸せなことがある。だが、そういうことに必ず気がついてしまう人間はいるものだ。なぜ蔵の扉を見張らなければならないのか? 扉にカギはないのか? ここで挿絵を見る。なんと、お母さんの背負っている扉には、大きくて頑丈そうな錠前がついているのである(*)。こんな立派な錠前が付いているんだったら、扉を見張る必要はないんじゃないか! そう、その通り。挿絵も含めてクリティカルによく読むと、この物語はちょっとおかしいのである。

 お母さんが「錠前があるから大丈夫」と思って畑に行ったら、その間に錠前をこじあけられた/蔵の壁が破られた――というような解答パターンもあるが、これでは当たり前すぎて笑話にならない。お母さんかお父さんによる大真面目な問題解決が、直截的に大前提を崩したり、新たな大問題を引き起こしたりしていないと笑話にならないのである。

 たとえば、②の二番目の解答パターンを改良する。親切なドロボウが「かわりに蔵の扉を見張っていてあげましょう」と申し出る。そのとき、「お金が盗まれていないかどうか、蔵の中を確かめてみましょう」と言って、お母さんに錠前を開けさせる。そのあと一応は錠前を閉めさせるのだが、ドロボウは「私が見張っている間も、ときどき蔵の中にちゃんとお金があるかどうか確かめてあげましょう」などと言って、お母さんから錠前のカギを預かってしまうのだ――クラスの中で錠前の存在に気付いた児童がいて、「蔵の扉を見張ること」の意味に疑義が差し挟まれると、全員の話し合いによってこういった解決策を考えていくことになる。ただ、笑話の場合は、あまり細部をクリティカルに詰めすぎると、どんどんつまらなくなっていくことがあるので難しいところだ。

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(*) 『フィンランド国語教科書 小学3年生』pp82-83 メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2006年

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明解PISA大事典:高度ながら知識不問の「PISA型」問題

2010年 3月 5日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第33回 笑話による問題解決型読解教育

 前回はフィンランドの「分離・融合方式」について紹介した。分離段階(小学校5年生くらいまで)においては、相当に仕組まれた素材文を用い、学年相応の知識と経験のみを駆使してクリティカルに読むことが求められる。要するに、自分たちと同じような登場人物が、自分たちも経験したことのあるような問題に遭遇し、自分たちもやりかねない方法で解決する物語を読んで、ああだこうだと意見を言い合うようなやりかたである。いわゆる「PISA型読解力」を容易に習得できる方法ではあるが、「深さ」の感じられる方法ではないため、日本の国語の先生にとっては物足りなく感じられるようである。

 とはいえ、やりかたによっては、けっこう手ごたえのある課題を設定することもできる。

 一例を挙げよう。小学校3年生用の教科書に掲載されている事例である(1)

物語「くらのとびら」のあらすじ
 おまぬけ村のお父さんとお母さんの話である。お父さんは、野良仕事をしている間に蔵のお金がドロボウに盗まれるのではないかと心配していた。そこで、お母さんに、家事をしながら蔵の扉を見張っているように命じた。お母さんは蔵の扉を見張っていたが、話し相手のお父さんがいないので退屈である。畑に行けばお父さんと話せるのだが、それでは蔵の扉を見張ることができない。そこで、お母さんは蔵の扉を取り外し、それを背負って畑に行くことにした。お父さんはお母さんが畑に来たのでびっくりしたが、お母さんが蔵の扉を見張っていることがわかったので安心した。野良仕事を終え、家に帰った二人はびっくりした。蔵のお金がすっかり盗まれていたからである。

〈問題と解決〉
◎お父さんにとっての問題と解決
お金を盗まれるのではないか⇒お母さんに蔵の扉を見張っていてもらう。
◎お母さんにとっての問題と解決
退屈である。しかし蔵の扉を見張らなければならない⇒蔵の扉を背負って畑に行く。

 このように各人が各人の問題を解決しているにもかかわらず、大前提が崩れてしまった、つまり盗まれてはならないお金が盗まれてしまったのである。「おまぬけ村(Hölmölä)」の物語というのは、フィンランドでは定番の民話型笑話であり、だいたいこのパターンで笑いをとることになっている。

 この物語について、通常の問題解決型読解の方式(2)で話し合ってもあまり意味はない。「お金を盗まれてはならない」という大前提のもとで、「ほかに解決策はありませんか?」「あなただったらどうしますか?」と考えさせたところで、おまぬけ村の住人のようなアホな解決策をとらなければよいだけだからである。もちろん、小学校3年生が対象の課題なので、一応は確認のために「お金を盗まれないためには、どうすればよかったのですか?」と聞くことにはなっているが……。

 このように笑話が素材文の場合は、あくまでも笑話のルールに則って問題解決思考をすることになる。つまり「笑話になるように、ほかの解決策を考えなさい」というのが、この素材文を用いた場合の最終課題である。登場する各人が各人の問題を真面目に解決したにもかかわらず、そのために大前提が崩れるような解決策――お父さんかお母さんの解決策を考えなければならないのである。

 さて、この「おまぬけ村」の物語では、ほかにどのような解決策があるだろうか?

(解答例は次回)

* * *

(1) 『フィンランド国語教科書 小学3年生』pp82-83 メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2006年
(2) 問題解決型読解については第16回を参照。

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明解PISA大事典:クリティカルリーディングと知識

2010年 2月 12日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第32回 分離・融合方式のフィンランド

 いわゆるPISA型の読解力――実質的には欧米型の読解力を習得させようとするとき、特に小学生が相手の場合は、ナマの文学素材を用いるとやりにくいことが多い。児童文学であっても文学史に残るような格調の高いものとなると、本当にやりにくいことが多い。作者の深遠にして高邁なる思想を理解したり、その作品の生まれた背景を押さえたりするなどしておかないと、いわゆるPISA型の授業――作品を読んで、児童・生徒がああだこうだと意見を言い合うような授業をしたところで、素頓狂な解釈や非常識な意見の飛び交う、悲惨なものにしかならないからだ。

 この問題について、フィンランドの国語教科書(正式な教科名は『母語と文学』)は面白い解決策をとった(1)。基礎学校の5年生までは(2)、ナマの文学素材については鑑賞に徹する。読解力の養成には、それ用に書き下ろした素材文を使うこととしたのである。

 たとえば、私の翻訳した「フィンランド国語教科書シリーズ」(3)の大半を占める素材文、ラミやユッシやサーラなど少年少女の活躍する物語は、すべて読解力養成用(もちろん語彙力などほかの用途もあるが…)に特別に書き下ろされたものなのだ。これらの物語を書き下ろしたのは、フィンランドの高名な児童文学作家であるカリ・レヴォラさん(4)。教科書編集に携わる先生たち(すべて現役の小学校の先生)から、書く前に大量の注文を出され、書いたあとも大量の修正を入れられながらの執筆だったという。

 読解力養成用に書き下ろした素材文であれば、読解に必要とされる知識の分量をコントロールすることができる。実際のところ、私の翻訳した「フィンランド国語教科書シリーズ」においても、小学校4年生くらいまでは、子どもたちの日常的な知識や経験だけで対処できるか、あるいは他の教科で学んだことを利用できるように工夫されている。

 たとえば、第17回から4回(⇒第18回第19回第20回)にわたって紹介した「ちょうど35キロ」の物語では、「どのようにして体重をちょうど35キロにするか?(それによって賞品をゲットするか?)」という問題があり、それに対する「レモネード1.5リットルを飲む(ことによって体重をちょうど35キロにする)」という解決例が提示されていた。ここで求められているのは、第一に解決例を評価すること、第二に(解決例の評価を踏まえて)他の「よりよい解決策」を考案すること。以上の作業において、必要とされる知識といえば「レモネードを1.5リットル飲むと、なぜ体重は1.5キロ重くなるのか?」くらいのもの。特別な知識は必要ない。体重をちょうど35キロにする方法について、日常的な知識と経験をもとにして自由に考えればよいのである。

 もちろん、子どもの日常的な知識と経験だけを頼りにするだけではなく、新たな知識を全員で共有したうえで読解を進める場合もある。たとえば、体重をちょうど35キロにする方法について、食物や飲物を体内に入れれば、その重量がそのまま体重に反映されると思われがちであるが、これは必ずしもそうとはいえないようだ。

 テレビ朝日の「お試しかっ!」という深夜番組では、ときどき「体重をちょうど○キロ増やす」という企画をやっている。タレントがレストランなどを巡って、あれこれ食べながら体重を増やしていくのであるが、少なくとも番組を見るかぎり、たとえば焼肉をちょうど1キロ食べたとしても、体重が1キロ増えるということは絶対にない。場合によっては、食べる前よりも体重が減っていることさえある。番組に登場する専門家によれば、食べている最中にも刻々と新陳代謝が進んでいるためであるという。この知識を全員で共有した上で「ちょうど35キロ」をやるならば、「食物や飲物で体重を増やす」という解決策は「体重を正確に増やすのは難しい」と評価されることになるだろう。

 こうして4年生くらいまでは、専用の素材文をクリティカルに読めるように徹底的に訓練される。そして5年生くらいから、専用の素材文による訓練と並行して、レトリックや文学史について学びつつ、ナマの文学素材をクリティカルに読むための訓練が始まる。最初は分離していたものを、徐々に融合させていくのである。

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(1) この方法は、フィンランドの教科書出版社WSOY教科書出版部門(WSOY Oppimateriaalit)が始めたもの。フィンランドの国語教科書市場はWSOY、Tammi、Otavaの3社の寡占状態にあるが、WSOYはフィンランドの最古にして最大の出版社である。1980年代半ば以降、国語教科書については、WSOYが「新しい国語教育のかたち」を示し、TammiとOtavaがそれに追随する(マネする?)という状況が続いている。ちなみに、WSOYの「WS」とは創業者ヴェルネル・ソーデルストローム(Werner Soderstrom)の頭文字であり、「OY」とは「株式会社」を意味する略語である。よく「『WSOY』と書いて何と読むのか?」と聞かれるが、フィンランド語読みならば「ヴェーエスオーユー」が正しい。もちろん、英語読みの「ダブリューエスオーワイ」でも通じる。
(2) フィンランドの学習指導要領(Opetussuunitelman perusteet)では、国語教育を1~2年/3~5年/6~9年の3ブロックに分けて到達目標を設定している。
(3) 『フィンランド国語教科書』(3~5年生用)メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2005 ~ 2008年
(4) Kari Levola。プロフィールについては『フィンランド国語教科書小学3年生』p21を参照。

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明解PISA大事典:クリティカルリーディングと知識

2010年 1月 29日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第31回 苦悩は続く――「知識」と「批判」の相克

 「知識を有すること」と「クリティカルに読むこと」の二者は本来は対立的なものではないのだが、指導においては意外にバランスをとるのが難しい。

 作者や作品の背景について何も知らぬまま、その作品についてクリティカルに論じたところでなんだか空しい。底の浅い議論にしかならない。だが、その「底の浅さ」を嫌って、まずは「きちんと読めること」を重視して精読を励行し、ついでに知識の注入も十分に図ろうとすると、クリティカルに読む時間がなくなってしまう。さらに、「きちんと読めもしないし、ロクに知識もないくせに、クリティカルに読むとはナマイキな」という感情的要素が加わると、いつまでたってもクリティカルに読むことは始まらない。どのくらいきちんと読めて、どのくらいの知識があれば、クリティカルに読んでもナマイキではなくなるのかが判然としないからだ。

 PISAが「知識を問うテスト」ではないことを売り物にしているのは、これまでに何度もふれてきたように学力観の転換を示すものである。とはいえ、当たり前のことではあるが、まったく知識ゼロの、さっき生まれてきた赤ン坊のような状態を想定しているのではなく、15歳の人間であれば当然有するであろう知識の存在は前提とされている。

 ただ、国際テストという性質上、その「当然有するであろう知識」の想定レベルは、どこの国の国内テストと比べても低いものに設定せざるをえない。同じ15歳であっても国が違えば、何についてどのくらい知っているかのレベルは大きく異なるからだ。特に読解力のように、それぞれの言語文化に依存する部分が大きく、数学や科学とは異なり国際的なきまりごとのほとんどない分野においては、「当然有するであろう知識」の想定レベルはどんどん下がっていく(1)

 フィンランドで教科書執筆者として有名なメルヴィ・バレさん(2)は「PISAの読解力の問題は悪くはないが、国語の問題としてのレベルは低いと思う」と述べている。「あの程度の問題なら、フィンランドだったら小学校4年生か5年生あたりを対象にすると丁度よいくらいではないか」というのである。

 なにやら傲慢な発言のようにも聞こえるが、PISAの発問形式はフィンランドのそれとほとんど同じであり、素材文を読み解くのに背景知識は必要ないとなれば、確かに小学生でも十分に対応可能であろう。逆に、PISAの発問形式と日本のそれは大きく異なり、素材文や発問のウラに思いを馳せなくてもよいとなると、日本では15歳の子どもはもちろんのこと、大人であっても戸惑ってしまうのは当然だろう。

 このような背景があるために、PISAの読解力の問題を「クリティカルに読む」授業のお手本にしてしまうと、いろいろと困難に直面することになる。前回もふれたように、「文中から根拠さえ挙げられれば、どれほど素頓狂な解釈をしてもいい。どれほど非常識な意見を言ってもかまわない」という方向に進んでしまうことさえある。PISAの読解力のように知識を極小化して、テキストから得られる情報のみを頼りにしてしまうと、なんだか空しく、底の浅い議論になってしまうのだ。

 では「知識を有すること」と「クリティカルに読むこと」のバランスは、どのようにとっていけばよいのだろうか? 次回は、この点について、フィンランド国語教育の解決策を紹介することにしよう。

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(1) とはいうものの、欧米の文化に関わることについては、少なくとも日本人からすると相当に高度な知識の存在を前提としているように感じられる。欧米寄りのグローバル・スタンダードという、経済外交ではありがちなことではあるが、とりあえずは「不公平だ」と主張し続けたほうがよいのではないか。この問題については第2回を参照⇒「第2回 PISAはグローバル・スタンダードなのか?」
(2) メルヴィ・バレさんについては第27回の注を参照⇒「第27回 フィンランド紀行7」の注へ

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

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