著者ごとのアーカイブ

緑のソース

2011年 12月 19日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(126)

日本人が一番訪れるドイツの都市は、実はベルリンでもミュンヘンでもデュッセルドルフでもなく、ヨーロッパの交通の要所であるフランクフルトだろうと思うのだが、どうだろうか。その分逆に、フランクフルト自体を落ち着いて見て回った人は少ないのではないかと思う。

古くさい昔ながらのケーキに Frankfurter Kranz というのがあって、ザントクーヘン Sandkuchen(パウンドケーキに作り方が似ているが、コーンスターチを使うので目が詰まって重く、砂のように崩れやすい)にバタークリームをこてこてに塗りまくって、積み上げ、砕いたナッツを散らしてある。バタークリームは日本では安物の代名詞だが、向こうは乳製品が良いから、バタークリームもおいしい。バタークリームの嫌いな妻も、これは食べる。こういう伝統的な各種ケーキを出すカフェ自体がもうほとんどなくなってしまった。ともあれ、これもフランクフルト名物ではあるわけだ。

どういう前後関係だったか、私たち一家がドイツ人の友人とフランクフルトで一晩過ごす機会があって、何かフランクフルトの伝統料理はないかと聞いたら、グリーン・ソース grüne Soße というものを食べさせてくれた。残念なことにレストランのあった通りの名をを忘れてしまったのだが、せいぜいマイン河沿いの観光名所を回る時間があれば御の字という外国人旅行者などは迷い込んだことはない、ドイツ人ばかりが集う古い店がずらっと並ぶ、味わいのある下町通りのビアガーデンだった。

透明な酢と油に、パセリ・クレソン・ワケギといった新鮮なハーブ Kräuter を、伝統的には全部で7種類なんだそうだが、刻んで混ぜ込む。ハーブが新鮮な上にたっぷり混ぜ込むので、ソースがきれいな緑色になるという次第だ。これをゆでたジャガイモとか、ゆで卵にかけていただく。魚にも合う。場合によってはこれに、前に紹介したクヴァルクなどを混ぜる。

そのレストランも、そのレストランがある通りも、グリーン・ソースも、あまりにもドイツの日常に密着したものだったから、私の友人は本当に私たち一家の気に入るかどうか、最後まで懐疑的だったようだ。いや、気に入ったよ。本当においしかったよ。後になってドイツの別のレストランで見つけた時には、私たちは喜んで注文した。やはりとてもおいしかった。

【筆者プロフィール】

石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員

【編集部から】

2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

クヴァルク

2011年 12月 5日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(124)

クヴァルクの話をもう少し続けたい。牛乳に酸や凝乳酵素(レンネット)Labを混ぜ、沈殿する白い凝縮物と透明な上澄みに分ける。白い凝縮物が凝乳Quark(英curd)で、上澄みが乳清Molke(英whey)である。

乳清は昔は捨てていたそうだが、今日では風味と栄養価を様々に利用する。粉末にしてお菓子などに混ぜ込んである。お菓子の箱の裏に印刷されている成分表によく見かける「ホエー」「ホエイ」とあるのがそれだ。英語から来たこの音がおかしいといって、ちょくちょくネット上で話題になる。

凝乳の方は、各民族各地方でありとあらゆる方法で手を掛け、熟成させて、様々なフレッシュチーズを作る。輸入チーズをブレンド、加熱処理して日持ちがするようにしたプロセスチーズしか日本では長いことお目にかかれず、今でもチーズと言えばプロセスチーズが主流で、国産のフレッシュチーズが手に入るようになったのもごく最近だから、まして新鮮な凝乳などは日本で知られていない。ヨーグルト違って乳酸発酵させて作るわけではないので、風味がもっと淡泊である。

因みに牛乳から乳脂 Rahm を分離して、発酵させればサワークリーム、乳脂の純度を上げていけば生クリーム Sahne からバター Butter に。バターを分離した後に残る液体が(専門的にも Milchflüssigkeit と呼ぶらしいが)バターミルク Buttermilch である。さっぱりした飲み心地で、時々日本でも見かけるが、よくよく考えてみると脱脂乳というやつで、私くらいの世代だと給食のまずい脱脂粉乳を思い出して、興がそがれる。

クヴァルクは食材としてよく使う。ソースやドレッシングに使うと、生クリームやヨーグルトとは違う爽やかな風味が出る。甘くしてお菓子にはさむクリームにしたりもする。しかし一番印象に残ったのは、ベイクド・ポテトにたっぷりのせたクヴァルクだ。

あんなものは以前はドイツの大学でも学食ではなく、カフェの軽食で出していた。大人の握り拳二つ分はあろうかという大きなジャガイモを、皮付きのままアルミホイルでくるんでじっくりオーブンで焼く。焼き上がったら、アルミホイルのまま皿に載せ、アルミを開いてジャガイモの真ん中にさくっと切れ目を入れ、湯気の立つところへ、ハーブを刻み込んだクヴァルクをどさっと山盛りにかける。初めて目にしたときには、前に座った女子学生がうまそうに平らげていくのに、失礼も顧みずとうとう最後まで見とれてしまった。席を変えて、自分でも早速注文したが、忘れられない味だった。ドイツのレストランにもなかなかない。簡単なようで、自分で作るのは難しい。

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石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
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『クラウン独和第4版』編修委員

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オバツダ

2011年 11月 28日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(123)

パンに塗って食べるミートペーストと並んで、パンに塗って食べるいろいろな乳製品というのもドイツで味を覚えたものだった。クラフト Kraft 社のフィラデルフィア・クリームチーズさえまだ日本であまり見かけなかった頃の話である。 けれどもドイツでよく食べた塗るチーズ、日本で言うクリームチーズは、ドイツ製ではなかった。以前にドイツでさんざん世話になり、最近ようやく日本にも上陸して手に入るようになって喜んでいるキリ Kiri やブルサン Boursin といった、ハーブやガーリック入りの様々なクリームチーズを作っているベルBel社というのは、フランスの会社である。

こういう既製品もさることながら、ドイツでおいしさを知ったのは、家庭で手軽に作るチーズ・ディップだった。何日か世話になった一人暮らしの老婦人は、朝の食卓に必ず、タマネギとパセリのみじん切りとカッテージチーズを和えたもの出した。パンにのせて食べる。風味がきついのと辛みがあるので、お前には無理かも知れないが、これで私は目を覚ますので、朝食には欠かせないのだ、とその老婦人は言っていた。いや、そのおいしかったこと。日本で真似をして作ろうとするが、どうもうまくいかない。後で分かったのは、あれはカッテージチーズではなかったということだった。どうやらクヴァルク Quark というもので、味わいはサワークリームに近い。酸味となめらかさが、カッテージチーズとは比べものにならない。納豆や豆腐と同じで、やはり原材料のある本場に行かないと本物は手に入らない、というわけだ。

バイエルンで教わったのは、オバツダ Obatzda という料理だった。レストランで出していたり、既製品を売っていたりするが、もともとは家庭料理だそうだ。古くなったカマンベールにバターや柔らかいチーズを足し、タマネギやピーマンのみじん切りを加え、ハーブを入れて練り上げる。オバツダという奇妙な名前は、*angebatzte という今はもう使われなくなった動詞の過去分詞のバイエルン訛りで、押し潰し混ぜる、というような意味だそうである。ホームメード・チーズディップの極点と申すべきか。病みつきになるお味である。

昔は肉などほとんど口に入らなかった農民が、肉の代用に乳製品を使って工夫した田舎料理というものがあって、オバツダはその典型的な例なのだという話を聞かせてくれたドイツ人の友人がいた。大変興味深い話なのであちこち調べているのだが、残念ながらまだどうも調べきれないでいる。

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ドイツ料理―メットヴルスト(Mettwurst)―

2011年 11月 7日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(120)

初めてドイツで暮らして日も浅かった頃に、ドイツのスーパーマーケットで日本でも見慣れた赤いフィルムでラッピングされたソーセージを見つけた。買って帰って、おとなしくパンといっしょに食べようと思ったら、凹むばかりで、フィルムの上からナイフが入らない。ミートペーストをソーセージの形にまとめてフィルムでくるんであるのだと分かり、仕方ないので果物のようにフィルムをむいて、パンに塗って食べた。結果的に正しい食べ方であったようだ。Mettwurst との初めての出会いである。

子供の頃家中で父だけがレバーペーストが好きで、輸入品がよくうちにあったから、満更知らないものではなかった。けれども好きではなかった。レバーの血なまぐささが嫌いであっただけではない。考えてみれば例えば練りウニと同じ理屈の食べ物なのだが、肉のペーストというもの自体がどうもぞっとしなかったのだ。

古くに低地ドイツ語から入ってきたこの言葉の、Mett- というのは、脂身のない豚の赤身のミンチを意味し、英語の meat と同語源なのだそうである。そうだとすると、よく意味の分からない命名である。脂身のない肉などは下等で人気のない部分だから、これは私見だが、「普段の食事用の、すぐ食べられる」というような意味だったのではないだろうか。

あまり食指の動かなかったこういう Mettwurst も、ドイツ生活に慣れてくるに従い、ちゃんとした肉でありながら、日持ちがし、手軽にさっとパンに塗って食べられ、しかもボリュームも栄養もあるとなると、手放せなくなってくる。私は古い世代に属するからこうなるまで一段階経ねばならなかったが、子供達となると最初から「紅毛人の野蛮な肉食」を恐れ嫌う心性など持ってはいないから、すぐに Mettwurst は好物となって、帰国後も日本で手に入らないのを嘆くほどであった。

最近ようやく独仏の輸入品が少しずつ手に入るようになった。また本格的なハム・ソーセージの職人が日本でも育ってきて、「生サラミ」などという名前を付けたりして、広めようとしているようだ。

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石井 正人(いしい・まさと)
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『クラウン独和第4版』編修委員

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ドイツ料理―Dr. Oetker社について―

2011年 10月 31日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(119)

ドイツでは冷凍tiefgefroren/tiefgekühltピザをよく食べる。Lサイズの大きいのが、スーパーマーケットの冷凍食品売り場に各種並んでいる。住環境が日本と違い格段に広く、従って台所も広く、それに合わせて冷凍庫も大きいから、あんなものを買い込んでもいくらでも家庭で保存できるのだ。ちょっとしたパーティだと、10枚も用意しておけばそれだけでメインは何とかなる。宅配Lieferungピザもおいしかったが、冷凍ピザもバカにならなかった。

山ほどある中で、よくお世話になったドイツの冷凍ピザは、テレビのコマーシャルで有名なFreiberger社のAlbertoというシリーズと、Dr. Oetker社のRistoranteというシリーズだった。

Freiberger社は1970年代にベルリンで創業した、ドイツ初の宅配ピザ屋だったそうで、Albertoというイタリア語風の名前がボディに書かれた、当時の同社の宅配の赤い小型トラックの模型は、コレクターズアイテムのようである。

Dr. Oetker社については、Iglo社の白身魚のフライと並んでスーパーマーケットの冷凍食品コーナーでよく見かける(日本人がよく食べる)から、こっちが専門だと思っておられる向きもあるが、今は総合食料品メーカーであるものの、そもそもは製菓材料の会社である。更にその元はといえば19世の末に北ドイツのBielefeldで開業した薬屋Apothekeで、小麦粉500グラムにちょうど良い量のベーキングパウダーBackpulverを小分けにして売り出して当たりをとった。ドイツでは粉砂糖などその他の製菓材料が不思議に小分けして古くさい紙袋に入って売っていて、日本人にはかえって使いにくいことがあるが、この流れである。万事この方面はDr. Oetkerがかなりのシェアを占めている。

ベーキングパウダー(ふくらし粉)というのは重曹(炭酸水素ナトリウム)に酒石酸とか焼きミョウバン(カリウムミョウバンだが、これに含まれるアルミニウムはアルツハイマーの原因になるといって嫌われ、最近は使われない)のような分解補助剤を加えて、炭酸ガスを発生させ、パンや焼き菓子の膨張剤として用いる薬品である。イーストHefeとは別にこのような化学薬品を入れてパンや菓子を焼くとうまくいくことは経験的に知られていたが、Dr. Oetkerの創業者が大量生産による商品化に成功し、特許を取った。プロが使うものと思われていたベーキングパウダーを一般に使えるようにし、更にパンのクッキングブックとか料理教室にまで事業を拡張して需要を開拓し、大成功を収めたのである。日本の国産では、粉屋の日清やニップンのものもあるが、なんと言っても昭和7年創業の株式会社アイコク(先頃「愛国産業株式会社」から社名変更)の「アイコク・ベーキングパウダー」が有名で、皆さんのお宅にも必ず見慣れたあの缶があるはずである。

ピザから話が脱線してしまった。

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石井 正人(いしい・まさと)
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『クラウン独和第4版』編修委員

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子供用のおまけ

2011年 4月 11日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(114)

ドイツは昔は子供のしつけに厳しかったそうで、虐待まがいの扱いが当たり前だったとよく聞かされたものだが、十年前くらいから自分の子供を連れてドイツに滞在するようになると、ドイツも随分と子供に甘い国に変わったような気がする。

カフェに子供連れで入っても、昔は子供たちだけ別の席に座らせて一番安いものをあてがって静かに待たせておき、親たちは好きなものを食べたいだけ注文して楽しむ。子供が文句を言ったり不満そうな様子をするとすぐぶつ、などという風景が当たり前だったとドイツの教育に詳しいK先生にうかがったことがある。

それが、十五年くらい前に私がドイツ人の友人とその母親といっしょにカフェに入ると、若い親が小さい子を連れていて(これがそもそも昔はありえなかった)、甘やかし放題に甘やかし、小さな子供も店中を騒ぎまくる。私の友人の母親は、露骨に不愉快そうな顔をして、最近の若い親はしつけがなっていないと言う。けれども同じ頃別のドイツ人の母親は、形だけ厳しく子供を育てたって、ナチスが来るだけだってやっとドイツ人も気づいたわけですよ、などと言う。あの頃が世論の分かれ目だったのだろうか。

私の子供たちは五、六歳までほんとうにドイツで優しくしてもらった。一番印象に残っているのは、パン屋に行っても肉屋に行っても、必ずといって良いほど子供たちに何か「おまけ」をくれたことだ。パン屋で小さな菓子パンを持たせてくれるのはまだ分かるが、肉屋でハムをくれたのには驚いた。他の日本人からも同じような話を聞いた。レストランに行くと、ハリボーのグミ・ベアの小袋、チュッパチャップスなどをひょいと渡してくれたものだ。子供連れで行くからとレストランに予約を入れておくと、子供の席は小さなかわいい木の人形で飾ってあった。あの時は子供たちが昼間の外出で疲れて眠ってしまったので、結局大人だけでレストランに行ったのだ。記念にもらって帰ったあの人形は長いこと子供たちのおもちゃになっていた。


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石井 正人(いしい・まさと)
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ルバーブ

2011年 3月 14日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(112)

恥ずかしい話だが、ルバーブRhabarberというものを私はドイツで初めて見た。今から二十年以上前の話である。スーパーマーケットの果物の棚に、蕗のような長い太い茎が並べてあって、見たことのない名札がついていた。勇を鼓して、隣にいた老婦人に、これはどうやって食べるんですか、と尋ねたら、砂糖と一緒に煮つぶして食べるんです、毒じゃありませんよ、と諭すように丁寧に教えてくれた。

そう値段の高いものでもなかったので、早速買って帰って、言われたとおりに調理してみたら、見るからに繊維質の多い、酸味の強い、赤いきれいな色のジャムができた。独特の風味で、悪い味ではなかったが、何しろ大皿いっぱいできてしまい、そんなに一度に食べられるものでもなかったので、始末に苦労した覚えがある。後で聞いたら、ヨーグルトに入れたり、パンに塗ったり、パイに入れたりして食べるものだそうだ。大黄(だいおう)という漢方薬と同じ種類で、独特の風味はそのせいらしいのだが、お通じにきくそうで、食べ過ぎると副作用もあるようだ。

一つ不思議なのは、あの時こちらの質問に親切に答えてくれた老婦人が、なぜ「毒じゃありませんよ」とわざわざ真剣な顔をして付け加えてくれたのか、ということだった。しきりと首をかしげていたら、私のドイツ語力の低さを哀れむように、さる同僚が教えてくれた。それはお前が、「どうやって食べるのですか」という質問に、essenを使ったからだ。そういう場合はgenießenを使うものだ。essenできるかどうかとは、食べ物かそうでないか(つまり毒か)ということであり、genießenできるかどうかとは、おいしく食べられるかどうかということになるのだと。同じ「食べられる」でも、essbarとgenießbarの違いもそこだ。

こう教えられて私はすっかり恐縮してしまった。あの善意の老婦人に、私はとんでもない心配をかけてしまったのではあるまいか。

最近はドイツのスーパーマーケットでルバーブを見かけない。ドイツでもあまり食べられなくなったのだろうか。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
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『クラウン独和第4版』編修委員


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リンゴ狩り(2)

2011年 2月 28日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(111)

ドイツでリンゴ狩りに行き、好物のリンゴに囲まれて食べ放題、しかも初めて見る種類のリンゴばかり、と言うことになると、だんだん贅沢になり、一口二口初めての種類を味見すると、大して痛みもなくポイと木の根元に捨てるようになる。誰しもそうなると見えて、どの木の下も囓った後のついたリンゴが山になっている。あれは肥料にしたり馬の餌になったりで、無駄にはならないのだそうだが。

一般に果物は、もぎたてだと不思議な冷たさがあって、しかも酸味が強い。独特の風味や甘みは、収穫後しばらく置いておかないと出てこない。木からもぎ取っては味見をしていくと、「ガラ」だろうが「エルスター」だろうが「コックス・オレンジ」だろうが、みんな「紅玉」のような酸味の強い味がして、よく区別がつかない。一口囓っちゃポイ捨てに拍車がかかる。

結局体中から甘酸っぱい湯気が立つような気持ちになるほどリンゴを食べて、その上ねこ車Schubkarreに山盛り買って帰った。

果樹園の方も商魂たくましく、リンゴ狩りに疲れた客に、ちょっと休める場所を用意して、コーヒーやお菓子(もちろんホームメイドhausgemachtのリンゴ・ケーキApfelkuchen)も売る。季節の飾り付け用のカボチャKürbisも並べる。

驚いたのは、売っていたのがその果樹園に滞在中のフランス人の親子だったことだ。父親はもちろん、十二歳の息子も上手にドイツ語を話す。ヨーロッパの農家の間には、国籍や言語の壁を越えた地縁的結合があり、農繁期には人手を融通し合うほか、子供を預け合って、意識的にバイリンガルに育てるという話を聞いたことがあったが、現実に見たのはあれが初めてだった。それでも息子の方は客あしらいをしながら、思わずケーキKuchenをフランス語で「ガトー」と言ってしまったりするのだが、私のようなたちの悪い日本人にからかわれても、顔を赤らめてどぎまぎしながら、真剣にドイツ語で仕事を続けようとしていた。物見遊山ではないのだ。悪いことをした。リンゴ狩りで浮かれすぎた。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
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リンゴ狩り(1)

2011年 2月 21日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(110)

リンゴ狩りやイチゴ狩りはドイツでも楽しいレジャーで、selbst pflücken というような言い方をするらしい。

我が家はリンゴ好きで、毎年秋になるとリンゴの季節が到来するのを待ちかね、「千秋」を買い、「秋映」を買い、「シナノゴールド」を買って助走し、ようやく「フジ」が出回るようになると、青森や長野の農協からネットで箱買いをする。たまに「王林」も楽しむが、歯ごたえがあって酸味の強い味の濃いものが好きなので、ドイツのリンゴは一家でとても気に入っていた。どこのスーパーマーケットでも「デリシャス」と並んでよく見かけた緑色の「グラニー・スミス」が特にお気に入りだったが、ただしあれはアメリカ産だったようだ。

数年前一家でドイツにいた折りに、新聞のチラシの小さな記事で、近郊の果樹園でリンゴ狩りをやらせてくれることを知り、週末に勇躍出かけていった。
収穫しやすいように人の背丈ほどに刈り揃えたリンゴの木が文字通りたわわに実を付け、整然と間隔を開けて遠くまで並んでいる。一畝ごとに違う種類が植えられていて、名札がついていた。あれで10種類もあっただろうか。驚いたのは、日本にもある「ジョナゴールド」以外、一つも知った名前がないことだった。「ガラ」「エルスター」「コックス・オレンジ」「ブレバーン」「ピノファ」……後でドイツ人の友人に聞いたら、どれも古くからある銘柄だそうだ。さすがにこちらが本場だから、リンゴの品種改良の歴史は長く、種類も多くて、今では作られなくなった中には、「ビスマルク候Fürst Bismarck」とか「枢密顧問官Geheimratオルデンブルク博士」とか「フォン・ハンマーシュタイン大臣Minister」とか「ルードルフ皇子Prinz Rudolf」などというリンゴもあったという。

いったいどんな味がしたのだろうか。どんな味の違いがあったのだろうか。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
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イチゴ

2011年 1月 31日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(107)

いわゆる木の実で、汁気たっぷりのものをBeere(漿果)といい、乾いたものをNuss(ナッツ)といって区別するのはヨーロッパに広くある習慣であることはよく知られている。ナッツ類は保存がきき、輸送が可能なので、日本にいてもかなり珍しい外国産のものを愉しむことができ、なじみのものが多いが、Beereの方はそうは行かないので、はやり産地に行かないと分からないようだ。

私などまだ子供の頃には、都会の住宅街でもあちこち近所の庭にスグリやユスラウメ、グミなどが植わっていて、良く実って色づいたやつを生け垣越しに失敬してもさして叱られもしなかった。むしろ調子に乗って食い過ぎると腹をこわすと、そちらで注意されたものだ。ドイツではHimbeere(キイチゴ、ラズベリー)やBrombeere(クロイチゴ)が、道ばたや駐車場の端に大きな茂みになっていたりする。もちろん季節になると実り放題だが、場所からしてあまり清潔そうでもないからか、誰もつまんでいく様子がない。私は喜んで賞味したが、勧めても家族は手を出さなかった。キイチゴ類はイラクサ風にトゲを持った蔓で絡みながら、ああ見えて結構憎々しげに太くなって繁茂するので、ドイツで昔は農地の境界によく植えたものなのだそうで、その名残であちこちの道ばたで見かけるのだという話を聞いたことがある。

あるときドイツでバスの中から、畑の真ん中に巨大なイチゴErdbeereがあるのが見えた。何事だろうと思って行ってみると、イチゴ農家の直販店だった。大きな箱に新鮮だが、サイズや形を揃えるなどということはおよそ考えたこともないような様子の不揃いなイチゴをぶち込んで売っている。洗いもせずそのまま口にすると、ほどよく冷たくて、おいしいなんてものじゃない。店番の女性もしきりとつまみながら売っていたが、こちらも家族でつまみながら帰る。そのほかに、HimbeereやBrombeereやJohannisbeere(スグリ)やStachelbeere(セイヨウスグリ、グズベリー)やKirsche(サクランボ)も箱詰めで売っていた。どれも新鮮でおいしかった。ドイツのあちこちで季節になるとこういう店を見かけた。もういいや、というほど子供たちに好物のおいしいイチゴやサクランボを食べさせてやれて、こちらもうれしかったものだ。


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