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モノが語る明治教育維新 第21回―明治期の花形筆記具・石盤

2018年 2月 13日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第21回―明治期の花形筆記具・石盤

 近代小学校の始まりとともに、子どもたちが学習に用いた代表的な筆記具が、石盤(石板とも書きます)です。日本最初の国語教科書、明治6年版『小学読本』には、「学校には、石盤と布(ふ)き物(石盤拭きのこと)と、書物あり」との一文があり、学校を象徴するものとして、石盤が教科書以上に重要であったことが分かります。

 石盤は、ハンディタイプの黒板のようなもの。スレートという板状の粘板岩で、壊れないように木枠がついており、ろう石をペンシル状に加工した石筆で文字や数字を書いては布切れなどで消し、何度でも繰り返し使えました。18世紀末に欧米の学校で使われ始めたものを、明治5年に師範学校教師M. M. スコットがアメリカから取り寄せ、初等教育用に用いる方法を伝授したのが、日本の教育現場に導入された最初です。

 ところで、貴重な和紙を消費することなく学習ができる工夫は、日本でも古くから見られました。例えば、二宮尊徳は子どもの頃に砂書き用手文庫(砂を文箱に詰め、指や棒で字の練習をするもの)を使っていましたし、当館所蔵の「手習板(てなりやァいた【注】)」と呼ばれる秋田県毛馬内で使われていたB4サイズの赤みを帯びた板は、墨書きした文字をぬれた布でふき取ることで半永久的に何度でも使えました。しかし、西洋からもたらされた石盤はくっきりとした字画や数字が書け、携帯に便利という点で、使い勝手が格段に優れていました。そのため小学校で使われる筆記具として注目を集め、長きにわたり定着したのです。


(写真はクリックで拡大)

 「石盤」という名称は、文明開化とともに舶来品の代表的な物品名として多くの人に知られていました。第8回でご紹介した慶応2年発行の英語辞書『英吉利単語篇』には、最初のページに「A slate」の単語が載っていますし、その絵入り対訳本『英国単語図解』(明治5年)には「slate スレート 石盤 セキバン」と日本語名が読みとともに記されています。子ども用図書では学制期の教科書としても使われた『絵入智慧の環』が、明治3年に早くもペンと鉛筆と並んで石盤と石筆を1ページ大で紹介しています。ただ、詳しい説明はされず「石板 すれいとともいふ」、「石筆 すれいとぺんしるともいふ」とだけ書かれています。

 学制期に出版された教授本は、どれも石盤を用いた授業の進め方を熱心に説明しています。特に初学者が用いるのに適しており、いろいろな教科でこの石盤が活躍しています。算術では算用数字の書き方や筆算、習字では石筆の持ち方や基本的な字の練習、書取では口頭で出題された文字を石盤に書き、黒板に書かれた答えと照合するといった使われ方をしていました。

その他、文字を教える際は教師が黒板に縦横に線を引き、マス目を作ったうえで文字を書き、それを石盤にも写させるようになどと、使用の仕方を丁寧に指導しています。

 いつでも、どこでも、すぐ書ける石盤の登場は、西洋の教授法の波に乗り学習方法を格段に進歩させたのです。

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[注]手習板

  1. 一般的には「てならいいた」だと思われますが、本館所蔵品は、手習板を入れる袋に「てなりやァいた」と書かれています。これを使っていた方が書かれたものです。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。

モノが語る明治教育維新 第20回―就学督促、京都の場合

2018年 1月 9日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第20回―就学督促、京都の場合

 文明開化の風に乗り、明治6年には全国的に開校した学校ですが、実際のところ、国民の賛同は得られていたのでしょうか。答えは否です。就学率を見ても、明治7年では男児約46%、女児約17%と、平均すると3人に1人しか小学校に通っていなかったことになります。当時の庶民、特に地方の農民には貧しい者が多く、学校の授業料や学用品の購入は家庭にとって大きな負担でした。しかも、子どもは貴重な家内労働力、これが失われるのは大きな損失でした。新しい学校で学ぶことのできる学問の成就こそが、身分や階級、男女にかかわらず、人生の成功を約束するものである、つまり、「学問は身を立るの財本」(学制頒布前日に出された太政官趣意書の中の言葉)であるといくら政府が鼓吹しても、過重な負担を強いられた国民の理解はなかなか得られなかったのが実情です。

 そこで就学率をアップさせるため、各地で様々な工夫が凝らされるのですが、京都府では不就学児童と区別をする目的で「就学牌(しゅうがくはい)」なるバッジを作成し、学校に通っている児童に付けさせました。

 もとは一教員の建言によって実現したのですが、おおよそ以下のことを提言しています。形状は、直径5分(約15ミリメートル)、厚さ5厘(約1.5ミリメートル)、表面に桜花、背面に何々校生の4字を刻んだ真鍮(しんちゅう)製の円形品。これを入学した者に授与し、襟間に付けさせ入学生であることを表す。そして、大検査卒業(進級)ごとに1個ずつ加懸(懸けるバッジを増やす意か)させれば、子弟は栄誉を得ようといっそう勉強に励むようになる。すると、学ぶものと学ばざるものと(の力の差)が判然とし、(子どもを学校に通わせない)頑固な父兄も近傍の子弟の誉れを羨み、満6歳で就学させることが人生最大の急務であることを認めることになる。このことが学校を盛んにする一助となるでしょう。

 バッジ一つにそれだけ絶大な効果が期待できるのかは疑問ですが、目の付け所は面白い。徽章(きしょう) の歴史を見てみますと、建言がなされた前年の明治8年に太政官布告により賞牌が制定され、わが国最初の叙勲がなされたとあります。この案を考えた教員も、きっとこの報賞ブームに乗って、バッジのアイデアを思いついたのではないでしょうか。

 建言がなされた3か月後の明治9年9月に、京都府は就学牌を各校の区費で鋳造するようにと布達を出します。就学牌の形状を雛形にして示していますが、地金は真鍮、直径1寸1分、厚さ5厘、表面の中央に「学」の文字と学校名、裏面に姓名を彫るとあります。大きさが直径約3.3センチと建言の倍ほどとなり、表面は桜花の代わりに「学」の1文字となりました。付ける位置も襟間ではなく、鎖や紐を付け、袴や帯に掛けたそうです。

 上の写真の就学牌はこの布達に応じて作られたもので、校名は「上京第三十校」、つまり明治2年に開校した京都府64の番組小学校【注】のうち、一番早く開校式を挙げた柳池校のものであることを示しています。なかなか丁寧につくられていますが、実はこれとは別に素朴な作りの、同じ京都の就学牌(何鹿(いかるが) 郡龍川校)があります。

写真の二つを見比べてみてください。右奥の何鹿郡のものには、柳池校にある10円硬貨のギザじゅうのような縁の刻みもなく、「学」の文字を囲む細かな点の打ち出しもありません。担当した学校の財力の差による違いかもしれませんが、簡単な作りであるところを見ると、これがちまたで出回ったとされる偽造品とも推察できるのです。

 就学牌はあくまでも不就学生を見極めるために考え出されたもので、役人が就学を督促するのが目的です。その役人の目をごまかすために、類似のバッジを作り売り出す者も出現しました。そのことは、この偽バッジを必要とする、つまり、子どもを学校に通わせることができない、もしくは通わせたくない親がかなりの数いたことを物語ってもいるのです。

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[注]番組小学校

  1. 京都では、室町時代からの自治組織「町組」が明治時代に入って改組され、小学校区としても機能しました。明治2年、町組ごとに町組会所を兼ねた小学校が作られ始め、これが番組小学校と呼ばれています。

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モノが語る明治教育維新 第19回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(2)

2017年 12月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第19回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(2)

 第18回に続き、『師範学校 小学試験成規』(明治8年)に掲載された問題を見ていきます。

 書取は、教師が口頭で2回繰り返す言葉を石盤(ハンディタイプの黒板)に綴り、更に紙に清書します。第七級(小学1年後期)では、以下の漢字が書けなくてはいけません。

 (1)着物 (2)襦袢 (3)牽牛花 (4)栄螺

『小学入門』の単語図からの出題ですが、今では読むことさえ難しい漢字があります。「襦袢」は和装の下に着る「ジュバン」です。「アサガホ」は「牽牛花」、「サザエ」は「栄螺」と当て字で書くように指導されていました。


(写真はクリックで拡大)

 第五級(小学2年後期)からは、書取がなくなり作文となります。当時の作文指導は、特に低い級では、課題に対し形式的な文例を学ぶことに終始していました。例えば第五級の出題例と模範解答は次の通りです。

 例題「小学校」

 答え「士民一般幼稚ノトキヨリ勉励シテ、普通学科ヲ修ムル所ナリ」

作文の教授法はすべてこの調子で、ある時「教師」をテーマに作らせたところ、「教師は骨と皮にて作り、人を教ふる道具なり」と書いて名文と褒められた、などといったエピソードが残されています。作文では、このように子どもの個性も独創性も必要とされませんでしたが、これは次の問答でも同様です。

 問答は、質問されたことに口頭で答えるのですが、第八級(小学1年前期)では単語図の中から三つ選び(例示は時計・着物・雁(がん))、その性質と用法を質問しています。それぞれ、

「時計は金銀等にて拵(こしら)へ大小種々あり 長針短針 又秒を計る針あり みな時を計る器なり」

「着物は衣服の総名にて絹、木綿、麻等の反物を裁縫し人の着る物なり 其製長短各種あり」

「雁は水禽の類にて秋は北より来たり 春は北へ去る 寒を好むものなり」

(『師範学校改正小学教授方法』明治9年より)

などと答えれば、合格でしょう。


(写真はクリックで拡大)

 第七級は、「下等小学教則」(明治6年 師範学校制定)で定められた「色ノ図」「人体ノ部分」「通常物(日常問題)」からの出題です。色に関する問題2問は、茶色とカナリア色のカードを見せてそれぞれ何色かを問います。当時は、色図を使い40色以上の名称を覚えさせられました。人体に関する問題2問は、人体図上か、教師が自らの手と眉間を指し、その名称を問います。通常物2問は、男女別に出題され、男児には、一里の丁(町)数と八畳敷きの坪数、女児には、布絹一匹の尺数と昼夜の時間などが質問されます。一つ間違えるごとに2点半ずつ減点です。

 最後に習字ですが、第八級は仮名文字、第七級から第三級までは漢字楷書、第二級からは手紙文を草書体で書きます。

 こういった難度の高い暗記重視の試験が、時には官員や町村の名士らの立会いの下、厳正に行われました。無事に及第した生徒には、わざわざ官員が出張の上、卒業証書を与え、優秀な子どもには賞状や賞品を贈る決まりになっていました。勉強好きな上昇志向の強い子どもは誉れと喜ぶその一方、教室の席次や名札まで成績順で決められるなど、不得意な子どもにとっては何かと負担が大きなものでした。

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唐澤富太郎三女
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モノが語る明治教育維新 第18回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(1)

2017年 11月 14日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第18回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(1)

 第16回で、進級試験に合格することがいかに大変か、在籍比率を例にお話しましたが、はたしてその試験はどのようなものだったのでしょうか。『師範学校 小学試験成規』(明治8年)の中から一部、ご紹介しましょう。


(写真はクリックで拡大)

 この本は、東京師範学校を明治7年6月に卒業し、神奈川県師範学校教員となった小林義則が、下等小学の試験法と例題を記したものです。明治7年の段階では、近代的な教授法を学んだ東京師範学校卒業生は小林を含めわずか37名しかおらず、江戸期以来の旧来の教育関係者が講習所に通い、にわか教師として雇用されていました。規則に定められた進級試験の仕方にも戸惑う教師が多い中、小林が一つの指針として自ら執筆、出版したと考えられます。

 凡例によれば各級の科目と配点は、次の通りです。算術20点、読物・摘書(てきしょ)20点、講義10点、書取(第五級からは作文に変更)20点、問答15点、習字15点。評価は減点方式ですが、作文と習字はそれぞれ4段階評価(甲20点、乙15点、丙10点、丁5点)と3段階評価(大佳15点、佳々10点、佳5点)です。100点満点で、50点以上が及第とされています。答えは記されていませんので、以下の答えは私の試算、私見です。

 まず、算術問題から。第八級(小学1年前期)は以下の4問です。(1)~(3)は漢数字を算用数字に、算用数字を漢数字になおす問題、(4)は暗算問題です。

 (1)七十七 (2)九十 (3)69 (4)6+5+4+2+7+5=

これは簡単なので答えは割愛しますが、漢数字を常用していた日本人が算用数字を学ぶには、教師も生徒もだいぶ苦労し、「1は一の倒立」「3はだるま」などと言いつつ覚えたそうです。第七級(小学1年後期)では、ローマ数字「CLXXII」を算用数字になおす問題が出題されています。現代では時計の文字盤ぐらいでしか馴染みがありませんが、当時は漢数字、算用数字と並び、ローマ数字も学んでいました。ちなみにCが100、Lが50、Xが10を表すので、答えは172となります。

 第六級(小学2年前期)以上は、筆算2問、文章問題1問、暗算1問の構成ですが、第一級(小学4年後期)ともなると筆算もかなり複雑です。


ずいぶん込み入った「分数ぶんの分数」問題で、解くには根気が必要ですが、ぜひ挑戦してみてください。答えは文末に記します。

 読物・摘書は、合わせて20点。読物は学習した掛図や教科書の中から指示された範囲を朗読します。摘書は、黒板に抜き書きされた単語の読み方を口頭で答え、○が付いたものはその意味も述べます。各級かなりの難問揃いですが、例えば第三級(小学3年後期)は以下の8問です。

 (1)峠 (2)纔 (3)○磽确 (4)○職分田 (5)香美 (6)律令 (7)藺席 (8)甲奴

難しい漢字がありますが、「纔」は「わず(か)」もしくは「ひたた」、「磽确」は「こうかく」、「藺席」はイ草で作られた筵(むしろ) のことで「いむしろ」と読むと思われます。○の付いた「磽确」は石の多いやせた土地、「職分田」(しきぶんでん) は、律令制で官職に支給した田のこと、などと言葉の意味を説明しなくてはいけません。「香美」と「甲奴」は地名で、それぞれ高知県の「かみ」、広島県の「こうぬ」のことです。明治の小学生はこんな難しい言葉を勉強していたのですね。

 講義は、読物で朗読した部分の内容を簡潔に説明します。正しければ10点、一つ間違えるごとに第八級は2点半、それより上の級では5点ずつ引かれます。

 算術の答え・・・7100/7189

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唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
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モノが語る明治教育維新 第17回―日本最初(!?)の卒業証書 (2)

2017年 10月 10日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第17回―日本最初(!?)の卒業証書(2)

 第16回に引き続き、草山直吉の卒業証書から当時の学校の様子をあきらかにしていきます。

 明治5年に頒布された「学制」には、「大中小学区ノ事」として日本全国を8つの大学区に分け、一つの大学区を32の中学区に分け、更に一つの中学区を210の小学区に分けるとあります。これが実践されれば全国で5万3760校(8×32×210)の小学校を設けることとなり、それは人口600人を以て1小学区とすることを目的としたものでした。実際ははるかに及びませんでしたが、明治6年に1万2558校、明治7年には現代とほぼ同数の約2万校の小学校が存在しました(もっとも立派な校舎をもつ学校は少なく、寺子屋が学校と名を変えただけのものも多かったのですが)。

 直吉の卒業証書を見ると、学校名がこの学制期のナンバリングで記載されています。足柄県は第1大学区に指定された1府12県(東京府と関東近県)の中の1つでしたので、この第1⼤学区内の第28の中学区、その中の第145番の小学校(第三級以降は学区変更のためか第140番小学となっています)である、と記しているのです。 証書に押された校印も何々学校ではなく、このナンバリングで記されています。手書きの証書に「第何大学区 第何中学区 第何番小学」といちいち書き込むのは大変だと思いますが、「学制」が廃止される明治12年まではどの卒業証書も同様の体裁をとっています。そして、第一級卒業、つまり下等小学卒業の証書にだけ、「平澤学校」と校名が併記されています。

 氏名の右肩には、在住する県や村の名称と共に族称(維新後に定められた国民の身分上の呼称)が記されています。直吉の族称は平民で、明治5年の壬申戸籍によれば人口の93パーセントをこの平民が占めています。当館が所蔵する明治6年から12年までの卒業証書のうち、族称が記載された28人を調べたところ、平民22人に対して、士族が6人もいました。確認した数が少ないためはっきりしたことは言えませんが、人口比率のわりに士族が就学・卒業した割合が多かったと推察されます。

 氏名の左下には年齢が記されています。第八級卒業証書にある「当年十二月九年十月」とは、今年12月で満9歳と10カ月であるという意味です。旧来の数え年(誕生月に関わらず、新年を迎えると一つ年を加えて数える年齢)をとらず、西洋風に満年齢を採用したところが開化的ですね。直吉は第八級を9歳10か月で終えたということは、入学年齢も9歳だったことになります。これは何も直吉の入学が遅れたというのではなく、明治6年は学校がスタートした年でもあり、入学者は6歳未満から10代後半までと年齢層が幅広かったのが実情だったのです。

 日本最初の、と言っていいかはわかりません(これ以前のものをご存知の方は、ぜひお知らせください)が、近代小学校揺籃(ようらん) 期の姿を知るうえで、とても意味のある卒業証書です。

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モノが語る明治教育維新 第16回―日本最初(!?)の卒業証書 (1)

2017年 9月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第16回―日本最初(!?)の卒業証書 (1)

 近代小学校が発足した当初の制度や実態を説明するときに重宝するのが、この草山直吉の卒業証書です。1枚の証書からどんなことが読み取れるのでしょうか。

 まず「下等小学第八級卒業」とありますが、「学制」によれば尋常小学校は上下二等にわかれ、下等小学は6歳から9歳まで4年間、上等小学は10歳から13歳まで4年間学ぶと定められています。各年は二級に分かれているので、1年前期が第八級、後期が第七級と順に数が減り、第一級卒業が下等小学卒業となります。つまり、この証書は小学1年生前期を無事修了したという証なのです。

 なぜ、このように小刻みに証書を授与したのでしょうか? 当時は現代のように入学年数に応じて異なる課程を修める学年制ではなく、能力に応じた課程を修める等級制でした。誰もが進級できるのではなく、半年ごとに行われる進級試験に合格した者だけが上の級に進むことができました。知的啓蒙を重視した時代だけに、試験は厳格さを重視し、「原級留置」つまり落第する者も多かったそうです。1年生で落第とは気の毒ですが、退学する者も多く、明治8年の等級別在籍者の比率をみると、第八級が65.2%と全体の3分の2を占めるのに対し、第七級は16.7%と激減します。上に進むほど少なくなり、第一級ともなると全児童の0.1%しかいません。いかに下等小学を卒業することが難しかったかがうかがわれます。

 そんな試験地獄の時代に直吉は、明治6年6月の開校と同時に入学し、その半年後の12月に第八級を卒業します。そして、それ以降も順調に進級し、学制が定めた4年の歳月で無事卒業したことを、その後の6枚の証書が明らかにしています。

  明治7年5月(5か月) 第七級卒業
  明治8年4月(11か月) 第六級・第五級卒業
  明治8年7月(3か月) 第四級卒業
  明治8年11月(4か月) 第三級卒業
  明治9年4月(5か月) 第二級卒業
  明治10年5月5日(13か月) 下等小学教科卒業

※( )は進級までにかかったおよその月数

 卒業月を見ると、試験は半年おきに規則正しく行われていたわけではないことがわかります。この小学校のあった足柄県(現・神奈川県)では「進歩の疾きものは臨時試験を以て之を進級せしむ」(明治7年文部省年報)としたので、優秀な児童がいれば随時試験が行われていたのです。

 また飛び級制度もあり、明治8年4月に第七級から一つ飛んで第五級へ進級しています。

飛び級といえば、夏目漱石も成績優秀のため飛び級をしたことが知られています。そこで、やはり直吉もひとかどの人物に成長したのではないかと思い、記載された住所「足柄県大住郡平澤村」を手掛かりに、現在の神奈川県秦野市教育委員会に照会したところ、今回初めてプロフィールが分かりました。元治元年生まれで長じて地方行政に邁進(まいしん) し、村長も務めたそうです。市史には、熟年期の、口ひげを蓄え謹直そうな顔写真が掲載されています。

 144年前の卒業証書からこうして、持ち主の情報が分かり、血が通ったものになる。資料を扱っていてワクワクするのは、こんな瞬間です。

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モノが語る明治教育維新 第15回―文部省発行の家庭教育錦絵 (5)

2017年 8月 8日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第15回―文部省発行の家庭教育錦絵 (5)

 第13回の「西洋器械発明者の像」と同様に、西洋の科学技術力に追いつける人材の育成を目当てに出版されたのが5の物理を扱ったシリーズです。殖産興業を進め、国を豊かにするためには、産業革命を成しえた西洋の知識を広く普及させる必要がありました。西洋の輸入書やその翻訳書に書かれた科学的なものの見方を、普段の生活や仕事の場面を例に引くことで、子どもにもわかりやすく教えています。

 例えば「陸地の物一ツとして空気の包まざるはなし」の詞書で始まる1枚は、目には見えない空気の存在を説くものですが、これは福澤諭吉が明治元年に出版した『訓蒙窮理図解』(きんもうきゅうりずかい)を参考にしています。

monogakataru-15_11.jpg

『訓蒙窮理図解』は諭吉が英国と米国の書物から知りえた科学的な知識を、初学者用にかみ砕いて解説したものですが、この中の第二章「空気のこと」に書かれた内容の一部を、錦絵では言い回しをかえて詞書としています。

 例えば、絵図中の団扇(うちわ)で風を起こすと盤上の升が動く様子は「風は即ち空気なり 風なきときも団扇にて扇げば風の起らざることなし」の1文を図解したと考えられます。もろ手を挙げて驚く男の子は、西洋の知識に目を見開かされた当時の日本人を、象徴しているようです。

monogakataru-15_22.jpg

 この他の物理図は、梃子(てこ)や滑車、斜面の原理といった力学を教える内容が主で、この中の梃子と斜面を解説した絵図には、開化絵らしく洋装の少年が描かれています。

 6の切り取って遊ぶものには、女の子向けに西洋人形の着せ替え図、男の子向けに器械体操図などがあります。1枚の錦絵を図柄に沿って切り抜き、組み立てることで、平面的だったものが三次元的に楽しめるわけですが、この手法は江戸期からのもので、立版古(たてばんこ)の名前で親しまれてきました。器械体操図には、木製の平行棒や馬、鉄棒、吊(つ)り輪など、当時は珍しかった体操風景が外国さながらに描かれています。


(写真はクリックで拡大)

 これらの錦絵は「当省製本所ニ於テ拂下(はらいさげ)」と布達にあるように、一般の家庭でも入手ができましたが、学校では学習のご褒美として生徒に渡していた事例も残されています。

 江戸から明治へ、伝統と開化が入り交じった過渡期の様相を今に伝える錦絵の数々です。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。

モノが語る明治教育維新 第14回―文部省発行の家庭教育錦絵 (4)

2017年 7月 25日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第14回―文部省発行の家庭教育錦絵 (4)

 前回、前々回(⇒第11回第12回第13回)に続いて、文部省が発行した教育錦絵を見ていきます。

 5の数理図の中には、旧来の度量衡〔尺、枡(ます)、秤(はかり)〕について描かれたものの他に、明治になり制度が大きく変わった貨幣をテーマとした1枚があります。政府は新貨条例を明治4年に制定し、貨幣単位を圓(円)・銭・厘とし、新たな金貨・銀貨・銅貨を造幣しましたが、この新貨幣を絵解きで紹介しているのです。


(写真はクリックで拡大)

 錦絵の上段には、20圓、10圓、5圓、2圓、1圓の5種類の金貨、1圓、50銭、20銭、10銭、5銭の5種類の銀貨、1銭、半銭、1厘の3種類の銅貨が表裏一対として描かれています。よく見ると明治3年と刻印された銀貨や銅貨が描かれており、「当時一般通用の品なり」と説明にもあることから、条例制定前にすでにこれら硬貨が流通していたことも分かり、興味深いですね。

 半銭銅貨には「二百枚換一圓」、1厘銅貨には「十枚換一銭」とわざわざ交換比率が記されており、その比率は1圓=100銭=1000厘となります。現代から見れば、銭や厘と単位が複数あり複雑に感じられますが、江戸期の貨幣制度に比べればとても簡略化されているのです。例えば、江戸期の金貨は金何両何分何朱というように数え、1両=4分=16朱と四進法だったのです(つまり1分は0.25両、2分は0.5両、3分は0.75両となります)。換算する際、見るからに計算が面倒そうですね。これは開国で貿易を始めた相手国からも不評で、政府としては西洋式に十進法に統一すべき、となったのでしょう。

 江戸期の貨幣制度が複雑だったことは、和算書『塵劫記(じんこうき)』からもうかがわれます。3種類の通貨(金、銀、銭)が流通し、しかも実態が変動相場制だったこともあり、金と銀の両替計算や、銭と銀の両替計算など、かなりのページを割いて出題しています。庶民にとっては計算でだまされないための大切な学びでしたが、一方で、複雑な換金には画中にあるような両替屋が大きな役割を担っていました。しかし、錦絵が出版された明治のはじめには、通貨制度が円に統一されて複雑な計算の必要もなくなり、金融は銀行へ移行する時期でもありました。算盤(そろばん)を手にする散切り頭の商人が、何となく浮かない表情なのは、そんな時代の趨勢(すうせい)を感じているからでしょうか。

 子ども向けに数理の教材として作られたものですが、世間一般に新しい制度を浸透させるための新聞的役割を持った1枚といえます。

◆この連載の目次は⇒「モノが語る明治教育維新」目次へ

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。

モノが語る明治教育維新 第13回―文部省発行の家庭教育錦絵 (3)

2017年 7月 11日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第13回―文部省発行の家庭教育錦絵 (3)

 第12回に引き続き、文部省が発行した教育錦絵について話を進めます。前回では伝統的な色彩の濃い内容の錦絵をご紹介しましたが、今回は文明開化の影響が濃く表れたものの一つ、4の「西洋器械発明者の像」についてみていきます。

 先の文部省布達に「各四十七種の絵草紙は、西洋器械発明者の像、及び本邦児童の遊戯に、勧戒発明(注:善を勧めて悪を戒め、ものの道理を明らかにすること)を示せし摺物(すりもの)等なり」とあることから、まず初めに頒布したかった錦絵が、これら西洋器械発明者の像であったことが分かります。科学技術の分野で後れを取っていた日本としては、一刻も早くこの分野で活躍できる人材が育つことを求めていたのでしょう。蒸気機関の技術を改良したジェームズ・ワットや水力紡績機を発明したリチャード・アークライト、イタリアの画家ティツィアーノやアメリカの物理学者ベンジャミン・フランクリンなど産業革命や西洋文明に貢献した偉人のエピソードを、絵解きで紹介したのがこのシリーズです。


(写真はクリックで拡大)

 これらの話は実は、中村正直(なかむら・まさなお)訳の『西国立志編』(明治4年発行)からの引用であることが明らかになっています。当時『学問ノススメ』と並び、大ベストセラー(何しろ人口3千数百万の時代にミリオンセラーだったのです)となったこの本は、維新はなされたものの生き方の指針に惑う若者に、大きな影響を与えました。原著はS・スマイル著 “Self-Help”(『自助論』)で、幕府の瓦解で英国留学から急きょ呼び戻された幕臣中村が、イギリスの友人から贈られたこの本を帰船の中で翻訳しました。「天ハ自ラ助ルモノヲ助ク」つまり、自主自立して他人の力に頼らない生き方を示し、たとえ貧しく、身分が低くても志を持ち、努力、勤勉、忍耐の力を有することで成功を導いた偉人の例を多数あげた啓蒙書で、明治の多くの起業家がこの本に触発されました。

 文部省もブームの『西国立志編』がこれからの子どもの教訓話に適していると考え、教材として取りあげたのでしょうが、中には子どもに読み聞かせするのにいかがなものかと首をひねる部分もあります。



「英国(いきりす)の阿克来(あくらい)は紡棉機(もめんいとをよるしかけ)
を造るに数年心を苦しめて
家貧くなりけるを其妻其功な
くして徒に財を費すを憤り雛
形を打砕きければ阿克来怒
りて婦を逐出しぬ其後機器
成就して大に富しとそ」
(改行は原文ママ)

例えば、このアークライトの話で記されているのは、 「研究にお金がかかり、そのことに憤った妻が機器を壊してしまう。怒ったアークライトは妻を家から追い出すが、その後成功して金持ちになる」といった話の展開と結末なのです。『西国立志編』からの抜粋ではあるのですが、なぜこの部分が教訓的なのか、疑問に思うのは私だけでしょうか。

◆この連載の目次は⇒「モノが語る明治教育維新」目次へ

◇次回は7月25日(火)更新の予定です。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
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モノが語る明治教育維新 第12回―文部省発行の家庭教育錦絵 (2)

2017年 6月 27日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第12回―文部省発行の家庭教育錦絵 (2)

 文部省が家庭教育のために発行した錦絵のうち、この回では江戸期の伝統を引き継いだ1・2・3のシリーズについて、具体的に見ていきます。

 1の「衣食住之内家職幼絵解之図(いしょくじゅうのうちかしょくおさなえときのず)」は家の建築を扱い、設計から上棟までのプロセスを段階的に説明した9枚と、左官、鍛冶屋、畳屋といった造作(ぞうさく=障子・畳・床の間・柱など、建物の内装部分)を担った職人の仕事紹介11枚で構成されています。

 幼児と家づくり、少し意外な組み合わせですが、江戸期には、種々の職人の姿を集めた「職人尽(づくし)」を絵解きしたものが人気でしたし、寺子屋でも往来物『番匠往来』を使って建築資材や基本用語を学びました。家を建てることはいつの時代も人生の大仕事であり、その基礎的知識を幼少期に授けることも重要と考えられていたのでしょう。子どもにとっては遊びの少ない時代でしたし、目に見えて刻々と変化する普請場(ふしんば)は身近なワンダーランドとして、面白かったのかもしれませんね。

 「衣食住之内家職幼絵解之図」とシリーズ名が付されていること、曜斎国輝(二代歌川国輝)と絵師の名前が記され、描いた人物が特定できるところが他のシリーズと違います。描かれている家づくりは江戸期からの伝統的な手法で、文明開化の要素といえるのは、瓦の製造に加え煉瓦が紹介されていること、丁髷の他に断髪した散切り頭(ざんぎりあたま)の職人が描かれている程度です。


(写真はクリックで拡大)

 2の農林・養蚕では日本の代表的な産物である米・茶・絹(蚕)、それに糊として用いられる蕨(わらび)、材木としてはもちろん、その葉はお線香にもなる杉の生育法と用途を紹介しています。どれも伝統的な方法で、絵図中にも開化的な要素は見受けられず、1と同様に散切り頭の人物が描かれている程度です。


(写真はクリックで拡大)

 3の教訓・道徳では、善行を勧め、悪行を戒める題材が取り上げられています。善行は「早朝の掃除」「勉強する童男(わらべ)」「勉強する家内(かない)」「出精する家内」「心切(しんせつ)なる童女(わらべ)」の5枚、悪行は「狡戯(わるあそび)をなす童男」「小盗(こぬすみ)する者」「争闘(あらそい)を好む童男」「粗暴の童男」「難渋者ヲ侮辱(はずかし)ムル童男」「疎漏より出来(しゅったい)する怪我」の6枚です。このシリーズは「早朝の掃除」以外は画題のみで、詞書(ことばがき)がありません。他ではある説明文を付けなかったのは、絵を見ながらしていいこと悪いことを親が子に諭して導いてほしい、との思いがあったからではないでしょうか。どれも常識的な教えではありますが、学制が布(し)かれて1年、勧学の意図は見て取れます。絵図中の開化度は1・2に比べては高く、西洋の物品が描かれているものも登場します。「心切なる童女」では、御者に鞭(むち)うたれながら走り抜ける馬車が大きく描かれ、後ろ姿の男性が持つ緑の西洋傘が何とも印象的です。

 この時代、職人の世界や農村では江戸のままであるのに比べ、都市では文明開化が着実に進んでいることを感じさせる一枚です。

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『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
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唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
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