モノが語る明治教育維新 第25回―双六から見えてくる東京小学校事情 (3)

2018年 6月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第25回―双六から見えてくる東京小学校事情 (3)


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 当時、小学校が注目された理由の一つに、擬洋風建築といわれる独特な校舎の造りがありました。これは、外国人居留地などにあった西洋式建築物を日本の伝統的建築法を身につけた大工棟梁等が見て回り、見よう見まねで洋風に仕立てたものをいいます。各地にこのような目新しい建築物が完成し、それを初めて見たときの人々の驚きや興奮が今でも時を超えて伝わってきます。前回ご紹介した学校もこのスタイルですが、明治10年江東区深川に校舎が落成した「明治学校」の様子を長谷川如是閑(大正デモクラシー期を代表する思想家・明治14年に「明治学校」入学)は、次のように語っています。

 「東京につくられたのは番町、鞆絵(ともえ)、常盤(ときわ)、愛日、明治、育英の六校で、私はそのうちの『明治』に入れられた。それらの学校はいずれもその頃丸ノ内の旧大名屋敷を取り払った跡に建てられた諸官庁と同じ、その頃『南京下見』といわれた、部厚の貫板を日本家屋の下見板のように重ねて、それに青ペンキを塗った二階造りの堂々たるもので、その玄関も官庁のそれと同じ、洋風のいかめしいつくりで、その玄関と正門との間には、やはりそのころの官庁の前庭に見られたような、大きい円形の植え込みがあって、それをめぐって玄関に入るような堂々たる構えだった」(日本経済新聞社編『私の履歴書 反骨の言論人』 日本経済新聞出版社)

 「南京下見」とは外壁工法の一種で、細長い板を横向きにして並べ、上板の下端が下板の上端に少し重なるように張り合わせたものを言います。絵図を見ただけでは分からない建築法や外壁の色、優雅なアプローチの様子などが分かり、貴重な証言です。そして、子どもの目から見ても小学校が庁舎に匹敵するほど立派な建物に映っていたことが伝わってきます。

 ちょうどこの頃、文部省学監のD. モルレーが東京府下の公立学校を視察しているのですが、双六に描かれている学校へ出向くことも多々ありました。その報告書である『学事巡視功程』(明治11年)の中で、校舎については次のようなことを述べています。学制頒布の頃に建設された校舎は構造が拙く、教室は狭小、天井は低く、教室の配置も勝手が悪いため生徒の出入りに混雑し、窓が小さく光線の取り入れ方に不備など多くの問題点があった。しかしながら本年、及び前2年間(明治9~11年)に造られた校舎は、大変進歩している、と評価しているのです。見よう見まねで形ばかり真似して建てられた当初の校舎も、数年でだいぶ改善されたようです。そして、“最も貴重なる小学校舎”として第一等から第三等まで各3校ずつを選んでいるのですが、その第一等に挙げられたのがこの「明治学校」であり、ともに名を連ねているのが次の「千代田学校」なのです(ちなみに、残りの1校は泰明学校)。


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 バルコニー付きの張り出し玄関が見事な「千代田学校」は、明治10年3月に馬喰町3丁目(現・中央区日本橋馬喰町1丁目)に開校しました。9月には府立商業夜学校を仮設し、夜間にも授業を行っていました。そのためでしょうか、双六では「千代田学校」だけが夜の風景で、絵図中10校もの学校に街灯が描かれている中で、ここのガス灯にだけ灯りがともされています。

 堅牢さも感じられるような豪壮な校舎ですが、モルレーの報告書によればその規模と建築費は、建坪136坪、教室数10室、建築費3,218円で、坪単価は23円67銭と算出されています。建築に必要な費用は所在地である第一大区十二小区の29箇町が集めた寄付で賄われましたが、報告書にわざわざ坪単価を記したのは、単価の高さが建築物の立派さと比例し、そのことが地元の人たちの学校に対する意識の高さを表すと考えたからなのです。ちなみに「明治学校」の坪単価は24円13銭と「千代田学校」と比べれば若干高く、先の“最も貴重なる小学校舎”に選ばれた第一等から第三等までの平均坪単価は、第一等が約27円、第二等が約15円、第三等が約13円と、やはり高価な順に並んでいます。

 モルレーは、このように人民自らが学事に関する資金を集め、校舎の建設費や運営費を拠出するのは自分たちであるとの自負心を持つようになったことはもっとも喜ぶべきことであり、このことは政府が働きかけた結果の表れであると、文部省のご意見番らしい見解を述べています。

 「学問は身を立るの財本」を前面に押し出し、国は受益者負担の意識を国民に浸透させたかったわけですが、それがようやく実を結び始めたのがこの頃でした。地域の一二を争うような立派な校舎の裏には、地元の教育を自分たちで支えたいと願う地域住民のプライドがあったのです。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。


モノが語る明治教育維新 第24回―双六から見えてくる東京小学校事情 (2)

2018年 5月 8日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第24回―双六から見えてくる東京小学校事情 (2)

 錦絵には、とかく作者の想像力の産物が含まれることがあります。第3回でご紹介した「訓童小学校教導之図」にも、当時の日本には存在しなかったシャンデリアが教室の天井を豪華に飾っているさまが描かれています。絵師が西洋画などをヒントに描き加えたことは、想像に難くないのです。

 では、「小学校教授双六」に描かれた事物には、果たしてどれ程の信ぴょう性があるのでしょうか。その目安として、「久松学校」と「有馬学校」を例に、錦絵に描かれた校舎と各学校の沿革史に掲載されている当時の写真とを比較することにより、検証してみましょう。

 まず、久松町(現・中央区日本橋久松町)にあった「久松学校」。越前勝山藩の第8代藩主であった小笠原長守の邸宅跡に、明治6年「第一大学区第一中学区第二番小学 久松学校」として開校しました。明治7年には、地元(第一大区十三小区)の有力者が寄付を集め、校舎を増築しました。図版の校舎は、増築後のものです。開校当初は生徒が70余名だったとあります。

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左:沿革史に掲載された久松学校
右:双六に描かれた久松学校

 校舎を囲む塀が、異人館(日本に来た西洋人が住んだ西洋風の家や商館)に見られるような石組みの上に木製とみられる柵を巡らせたものであるところ、平屋建ての校舎の造り、釣り鐘型の窓の形など、外観の特徴がよくとらえられています。校門左手に立つ樹木も描かれています。ただ、写真では校門右手にある国旗や標旗を掲げる白い柱が、校門左手に移動していますね。絵師の広重は、このポールを学校のシンボルとして絵図中に描き加えたかったのでしょう。また、路上にたたずむ男は巡査ですが、手には当時の警棒である三尺棒を持ち、制帽や制服には階級を表す帯(袖章)といった細かな点まで描き込んでいることが分かります。

 次に明治7年に開校した「有馬学校」は、筑後久留米藩の第11代藩主だった有馬頼咸(よりしげ) から、資金2000円、毎月60円の寄付を受けたことにより「第一大学区第一中学区第六番小学 有馬学校」と個人名が冠された校名となりました。その後、生徒増加のため明治9年に蛎殻町(現・中央区日本橋蛎殻町)に建築費6500円を投じ、建坪130坪の新校舎を建設したのですが、坪単価50円とは、巡査の初任給が4円だったことからみてもかなり立派な建物と推察されます。3階に物見のある洋風建築はかなり人目を惹いたようで、明治9年5月6日の読売新聞は、

「蛎殻町三丁目の有馬学校は何から何まで大そう立派に出来上り、三階の眺望は別段な事で多分今月九日が開校になり、定めし権知事さんもお出になりましやう」

と伝えています。ちなみに権知事とは知事に次ぐ地位で、今の副知事にあたります。

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左:沿革史に掲載された有馬学校
右:双六に描かれた有馬学校

 沿革史に掲載された写真も全景を描いた写生画なので実際がどうであったかの判別はつきませんが、中央に膨らみを持たせたバルコニーの形、釣り鐘型の開口部の左右四つは窓で中央の一つがバルコニーへの出入り口とみられるところ、頂上の塔屋が八角形である点などが、よく似ています。塔屋の屋根が、沿革史の絵では富士形であるのに対し、錦絵ではドーム形である点が違いますが、これは他に高い建物がない時代、屋根の形を確認する術がなかったのでしょう。

 三代歌川広重、通称安藤徳兵衛はこの頃、弓町十八番地、今の銀座2丁目あたりに住んでいました。久松学校や有馬学校があった日本橋は、目と鼻の先。実際にこれらの学校まで出かけ、絵師ならではの細やかな観察眼をいかし、実像に近い絵を描き上げたと考えられます。

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モノが語る明治教育維新 第23回―双六から見えてくる東京小学校事情 (1)

2018年 4月 10日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第23回―双六から見えてくる東京小学校事情 (1)

 今回から連載でご紹介するのは、開化絵で有名な三代歌川広重の作品「東京小学校教授双六」です。

文明開化は、身の回りの景色や文物を急速に西洋風にしていきましたが、その一瞬を見事に切り取って錦絵にしたものが開化絵です。この錦絵が描かれた明治10年前後の東京では、耳目を集めるような小学校の開校があいつぎ、報道マンの役目も担った当時の浮世絵師としての広重の血もさぞ騒いだことでしょう。振り出しの「師範学校」から上がりの「華族学校」まで、東京府内にある43もの小学校が、サイコロを振って出た目の数だけ進む回り双六(すごろく)の形を借りて紹介されています。


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 「東京」と題目にはありますが、当時の行政区画は「大区小区制」と呼ばれるもので、現在の23区にあたる範囲が11大区103小区(各大区がそれぞれいくつかの小区に分けられている)に編成されていました。錦絵で紹介されている学校は、その中でも皇居に近い第1大区から第6大区までの、今の千代田区(9校)、中央区(10校)、港区(5校)、台東区(4校)、江東区(3校)、墨田区(5校)、新宿区(4校)、文京区(3校)の8区内に創設されたものばかりです。振り出しの「師範学校」は、神田宮本町、現在の千代田区外神田に明治6年1月に創設された官立師範学校の付属小学校のことで、いわば教師を目指す学生のための練習学校です。絵図中、唯一の外国人と思われる洋装の女性が描かれているところが、欧米式の教授法を学ぶ学校の特徴を表しています。

 ところで、当初、東京の公立小学校の設置は他の府県に比べ出遅れたといわれています。これは、「私学家塾開業ノ者学舎大凡千五百ヶ所」というように寺子屋や私塾などが東京には多く存在しており、これらの者に講習会を開いて新しい授業法を伝授し、私立学校などの名称を与え、活用すればいいとしたからです。政府のお膝元である東京は国のかじ取りに気を取られ、学校建設にあまり熱心ではなかったともいえます。明治6年12月までの段階で公立校はたった29校しかありませんでした。が、4年後の明治10年の調査では公立校は142校に増えています。つまり、錦絵が描かれたこの頃は、爆発的な小学校建設ラッシュだったのです。そして、何よりもこの絵を描かせた理由は、明治10年にひときわ豪華な校舎が神田錦町に完成した「華族学校」の開校にあったことは、間違いないでしょう。


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 ひとつひとつのコマを細かく見ることで、面白い発見があります。例えば、学校名がナンバリングで呼称された時代、その第1番であった第一大学区第一中学区第一番小学の「坂本学校」は現在の中央区日本橋兜町に明治6年に開校しましたが、国立第一銀行間近の、いわば近代的企業の発生地にありました。そんな場所柄を示しているのが手前左に描かれた白い柱です。これは電信線を引いた電信柱です。近くに開局した日本橋電信局の線かと思われますが、見落としそうになる思わぬところに文明開化の面白い情報が隠されています。

 次回からは学校沿革史や当時の新聞記事なども参考にしつつ、明治10年頃に東京にあった小学校の様子をつぶさに見ていきたいと思います。

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モノが語る明治教育維新 第22回―五十音図の不思議な文字

2018年 3月 13日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第22回―五十音図の不思議な文字

 明治期のモノコトを調べるうえで重宝するのが、石井研堂が著した『明治事物起原』です。文明開化とともに激変した身の回りの事物を総覧した百科事典のような本ですが、慶応元年生まれの著者自身が経験したことも記されています。その中に「五十音中の奇字」という話があります。

 「著者が寺子屋より、新設の小学校に転学せしは、明治七年なりと思ふ。新入の初等八級生として所要の教科書を一冊買へり。本の名は、今記憶に無きも、喜びて之を自宅に持ち帰り、一枚を開き見て驚けり。今までに習ひし、いろはにあらずして、片かなの五十韻なり。そして、そのヤ行には、見なれざる字あり、これはたしかに本が違ひ、文字が逆さになつているものと速断し、早速さきの本屋に往き『この本は、字が逆さになって居るから、取り換へて下さい』とかけ合へり」


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 この石井少年が逆さ文字と早合点したものが、明治6年に師範学校が作成した「五十音図」の中にあります。確かにヤ行の「イ」が上下逆さまに書かれていますし、ヤ行の「エ」、ワ行の「ウ」の字も変です。しかし、これは誤植ではなかったのです。

 寺子屋の初学者は、もっぱら「いろは」四十七文字を学びましたので、「五十音図」は近代の産物と思われがちですが、その歴史をたどると平安時代にまでさかのぼります。ただし、それは学者うちのことで、子ども用図書に載ったのは、やはり明治になってからのこと。初出は古川正雄著『絵入智慧の環』で、明治3年版には「いつらのこゑ(五十連音の意味)」として、カタカナ表記の五十音が並べられています。ここでもヤ行の「イ」が石井が奇字と称した逆さ文字にわざわざ書き換えられ、ヤ行の「エ」、ワ行の「ウ」も師範学校の五十音図と同じに直されています。

 これは、江戸後期から続く音義派と呼ばれる人々の学説を、洋学派の古川や師範学校彫刻本の実質責任者・田中義廉などが取り入れたことによります。音義派はヤ行の「イ」「エ」、ワ行の「ウ」は、本来ア行の「イ・エ・ウ」とは違う音であると主張していました。そこで、旧来のいろは四十七文字を五十音に当てはめたときに足りなかった3文字を新しく工夫して作り出した文字がこれらなのです。

 しかし、ほぼ同時期に国学者・榊原芳野が編集した『小学読本』では、例言に「五十音韻中也(ヤ) 行のイエ和(ワ) 行のウは皇国古より別用せず 故にこれを省く」とあるように、ヤ行の「イ」「エ」、ワ行「ウ」はア行と同じ文字を使っています。結局、これ以降の教科書でも榊原式が定着し、この奇字が実際に用いられることはありませんでした。

 本屋に交換を申し出た石井少年は、「どの本もさうだから、違っては居ません」と言われ、顔を赤らめすごすご帰ってきたとあります。学校揺籃(ようらん)期のほんの束の間登場した不思議な文字は、良くも悪くも一生の思い出となったようですね。

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モノが語る明治教育維新 第21回―明治期の花形筆記具・石盤

2018年 2月 13日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第21回―明治期の花形筆記具・石盤

 近代小学校の始まりとともに、子どもたちが学習に用いた代表的な筆記具が、石盤(石板とも書きます)です。日本最初の国語教科書、明治6年版『小学読本』には、「学校には、石盤と布(ふ)き物(石盤拭きのこと)と、書物あり」との一文があり、学校を象徴するものとして、石盤が教科書以上に重要であったことが分かります。

 石盤は、ハンディタイプの黒板のようなもの。スレートという板状の粘板岩で、壊れないように木枠がついており、ろう石をペンシル状に加工した石筆で文字や数字を書いては布切れなどで消し、何度でも繰り返し使えました。18世紀末に欧米の学校で使われ始めたものを、明治5年に師範学校教師M. M. スコットがアメリカから取り寄せ、初等教育用に用いる方法を伝授したのが、日本の教育現場に導入された最初です。

 ところで、貴重な和紙を消費することなく学習ができる工夫は、日本でも古くから見られました。例えば、二宮尊徳は子どもの頃に砂書き用手文庫(砂を文箱に詰め、指や棒で字の練習をするもの)を使っていましたし、当館所蔵の「手習板(てなりやァいた【注】)」と呼ばれる秋田県毛馬内で使われていたB4サイズの赤みを帯びた板は、墨書きした文字をぬれた布でふき取ることで半永久的に何度でも使えました。しかし、西洋からもたらされた石盤はくっきりとした字画や数字が書け、携帯に便利という点で、使い勝手が格段に優れていました。そのため小学校で使われる筆記具として注目を集め、長きにわたり定着したのです。


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 「石盤」という名称は、文明開化とともに舶来品の代表的な物品名として多くの人に知られていました。第8回でご紹介した慶応2年発行の英語辞書『英吉利単語篇』には、最初のページに「A slate」の単語が載っていますし、その絵入り対訳本『英国単語図解』(明治5年)には「slate スレート 石盤 セキバン」と日本語名が読みとともに記されています。子ども用図書では学制期の教科書としても使われた『絵入智慧の環』が、明治3年に早くもペンと鉛筆と並んで石盤と石筆を1ページ大で紹介しています。ただ、詳しい説明はされず「石板 すれいとともいふ」、「石筆 すれいとぺんしるともいふ」とだけ書かれています。

 学制期に出版された教授本は、どれも石盤を用いた授業の進め方を熱心に説明しています。特に初学者が用いるのに適しており、いろいろな教科でこの石盤が活躍しています。算術では算用数字の書き方や筆算、習字では石筆の持ち方や基本的な字の練習、書取では口頭で出題された文字を石盤に書き、黒板に書かれた答えと照合するといった使われ方をしていました。

その他、文字を教える際は教師が黒板に縦横に線を引き、マス目を作ったうえで文字を書き、それを石盤にも写させるようになどと、使用の仕方を丁寧に指導しています。

 いつでも、どこでも、すぐ書ける石盤の登場は、西洋の教授法の波に乗り学習方法を格段に進歩させたのです。

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[注]手習板

  1. 一般的には「てならいいた」だと思われますが、本館所蔵品は、手習板を入れる袋に「てなりやァいた」と書かれています。これを使っていた方が書かれたものです。

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モノが語る明治教育維新 第20回―就学督促、京都の場合

2018年 1月 9日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第20回―就学督促、京都の場合

 文明開化の風に乗り、明治6年には全国的に開校した学校ですが、実際のところ、国民の賛同は得られていたのでしょうか。答えは否です。就学率を見ても、明治7年では男児約46%、女児約17%と、平均すると3人に1人しか小学校に通っていなかったことになります。当時の庶民、特に地方の農民には貧しい者が多く、学校の授業料や学用品の購入は家庭にとって大きな負担でした。しかも、子どもは貴重な家内労働力、これが失われるのは大きな損失でした。新しい学校で学ぶことのできる学問の成就こそが、身分や階級、男女にかかわらず、人生の成功を約束するものである、つまり、「学問は身を立るの財本」(学制頒布前日に出された太政官趣意書の中の言葉)であるといくら政府が鼓吹しても、過重な負担を強いられた国民の理解はなかなか得られなかったのが実情です。

 そこで就学率をアップさせるため、各地で様々な工夫が凝らされるのですが、京都府では不就学児童と区別をする目的で「就学牌(しゅうがくはい)」なるバッジを作成し、学校に通っている児童に付けさせました。

 もとは一教員の建言によって実現したのですが、おおよそ以下のことを提言しています。形状は、直径5分(約15ミリメートル)、厚さ5厘(約1.5ミリメートル)、表面に桜花、背面に何々校生の4字を刻んだ真鍮(しんちゅう)製の円形品。これを入学した者に授与し、襟間に付けさせ入学生であることを表す。そして、大検査卒業(進級)ごとに1個ずつ加懸(懸けるバッジを増やす意か)させれば、子弟は栄誉を得ようといっそう勉強に励むようになる。すると、学ぶものと学ばざるものと(の力の差)が判然とし、(子どもを学校に通わせない)頑固な父兄も近傍の子弟の誉れを羨み、満6歳で就学させることが人生最大の急務であることを認めることになる。このことが学校を盛んにする一助となるでしょう。

 バッジ一つにそれだけ絶大な効果が期待できるのかは疑問ですが、目の付け所は面白い。徽章(きしょう) の歴史を見てみますと、建言がなされた前年の明治8年に太政官布告により賞牌が制定され、わが国最初の叙勲がなされたとあります。この案を考えた教員も、きっとこの報賞ブームに乗って、バッジのアイデアを思いついたのではないでしょうか。

 建言がなされた3か月後の明治9年9月に、京都府は就学牌を各校の区費で鋳造するようにと布達を出します。就学牌の形状を雛形にして示していますが、地金は真鍮、直径1寸1分、厚さ5厘、表面の中央に「学」の文字と学校名、裏面に姓名を彫るとあります。大きさが直径約3.3センチと建言の倍ほどとなり、表面は桜花の代わりに「学」の1文字となりました。付ける位置も襟間ではなく、鎖や紐を付け、袴や帯に掛けたそうです。

 上の写真の就学牌はこの布達に応じて作られたもので、校名は「上京第三十校」、つまり明治2年に開校した京都府64の番組小学校【注】のうち、一番早く開校式を挙げた柳池校のものであることを示しています。なかなか丁寧につくられていますが、実はこれとは別に素朴な作りの、同じ京都の就学牌(何鹿(いかるが) 郡龍川校)があります。

写真の二つを見比べてみてください。右奥の何鹿郡のものには、柳池校にある10円硬貨のギザじゅうのような縁の刻みもなく、「学」の文字を囲む細かな点の打ち出しもありません。担当した学校の財力の差による違いかもしれませんが、簡単な作りであるところを見ると、これがちまたで出回ったとされる偽造品とも推察できるのです。

 就学牌はあくまでも不就学生を見極めるために考え出されたもので、役人が就学を督促するのが目的です。その役人の目をごまかすために、類似のバッジを作り売り出す者も出現しました。そのことは、この偽バッジを必要とする、つまり、子どもを学校に通わせることができない、もしくは通わせたくない親がかなりの数いたことを物語ってもいるのです。

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[注]番組小学校

  1. 京都では、室町時代からの自治組織「町組」が明治時代に入って改組され、小学校区としても機能しました。明治2年、町組ごとに町組会所を兼ねた小学校が作られ始め、これが番組小学校と呼ばれています。

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モノが語る明治教育維新 第19回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(2)

2017年 12月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第19回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(2)

 第18回に続き、『師範学校 小学試験成規』(明治8年)に掲載された問題を見ていきます。

 書取は、教師が口頭で2回繰り返す言葉を石盤(ハンディタイプの黒板)に綴り、更に紙に清書します。第七級(小学1年後期)では、以下の漢字が書けなくてはいけません。

 (1)着物 (2)襦袢 (3)牽牛花 (4)栄螺

『小学入門』の単語図からの出題ですが、今では読むことさえ難しい漢字があります。「襦袢」は和装の下に着る「ジュバン」です。「アサガホ」は「牽牛花」、「サザエ」は「栄螺」と当て字で書くように指導されていました。


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 第五級(小学2年後期)からは、書取がなくなり作文となります。当時の作文指導は、特に低い級では、課題に対し形式的な文例を学ぶことに終始していました。例えば第五級の出題例と模範解答は次の通りです。

 例題「小学校」

 答え「士民一般幼稚ノトキヨリ勉励シテ、普通学科ヲ修ムル所ナリ」

作文の教授法はすべてこの調子で、ある時「教師」をテーマに作らせたところ、「教師は骨と皮にて作り、人を教ふる道具なり」と書いて名文と褒められた、などといったエピソードが残されています。作文では、このように子どもの個性も独創性も必要とされませんでしたが、これは次の問答でも同様です。

 問答は、質問されたことに口頭で答えるのですが、第八級(小学1年前期)では単語図の中から三つ選び(例示は時計・着物・雁(がん))、その性質と用法を質問しています。それぞれ、

「時計は金銀等にて拵(こしら)へ大小種々あり 長針短針 又秒を計る針あり みな時を計る器なり」

「着物は衣服の総名にて絹、木綿、麻等の反物を裁縫し人の着る物なり 其製長短各種あり」

「雁は水禽の類にて秋は北より来たり 春は北へ去る 寒を好むものなり」

(『師範学校改正小学教授方法』明治9年より)

などと答えれば、合格でしょう。


(写真はクリックで拡大)

 第七級は、「下等小学教則」(明治6年 師範学校制定)で定められた「色ノ図」「人体ノ部分」「通常物(日常問題)」からの出題です。色に関する問題2問は、茶色とカナリア色のカードを見せてそれぞれ何色かを問います。当時は、色図を使い40色以上の名称を覚えさせられました。人体に関する問題2問は、人体図上か、教師が自らの手と眉間を指し、その名称を問います。通常物2問は、男女別に出題され、男児には、一里の丁(町)数と八畳敷きの坪数、女児には、布絹一匹の尺数と昼夜の時間などが質問されます。一つ間違えるごとに2点半ずつ減点です。

 最後に習字ですが、第八級は仮名文字、第七級から第三級までは漢字楷書、第二級からは手紙文を草書体で書きます。

 こういった難度の高い暗記重視の試験が、時には官員や町村の名士らの立会いの下、厳正に行われました。無事に及第した生徒には、わざわざ官員が出張の上、卒業証書を与え、優秀な子どもには賞状や賞品を贈る決まりになっていました。勉強好きな上昇志向の強い子どもは誉れと喜ぶその一方、教室の席次や名札まで成績順で決められるなど、不得意な子どもにとっては何かと負担が大きなものでした。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。


モノが語る明治教育維新 第18回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(1)

2017年 11月 14日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第18回―進級試験問題をのぞいてみると・・・(1)

 第16回で、進級試験に合格することがいかに大変か、在籍比率を例にお話しましたが、はたしてその試験はどのようなものだったのでしょうか。『師範学校 小学試験成規』(明治8年)の中から一部、ご紹介しましょう。


(写真はクリックで拡大)

 この本は、東京師範学校を明治7年6月に卒業し、神奈川県師範学校教員となった小林義則が、下等小学の試験法と例題を記したものです。明治7年の段階では、近代的な教授法を学んだ東京師範学校卒業生は小林を含めわずか37名しかおらず、江戸期以来の旧来の教育関係者が講習所に通い、にわか教師として雇用されていました。規則に定められた進級試験の仕方にも戸惑う教師が多い中、小林が一つの指針として自ら執筆、出版したと考えられます。

 凡例によれば各級の科目と配点は、次の通りです。算術20点、読物・摘書(てきしょ)20点、講義10点、書取(第五級からは作文に変更)20点、問答15点、習字15点。評価は減点方式ですが、作文と習字はそれぞれ4段階評価(甲20点、乙15点、丙10点、丁5点)と3段階評価(大佳15点、佳々10点、佳5点)です。100点満点で、50点以上が及第とされています。答えは記されていませんので、以下の答えは私の試算、私見です。

 まず、算術問題から。第八級(小学1年前期)は以下の4問です。(1)~(3)は漢数字を算用数字に、算用数字を漢数字になおす問題、(4)は暗算問題です。

 (1)七十七 (2)九十 (3)69 (4)6+5+4+2+7+5=

これは簡単なので答えは割愛しますが、漢数字を常用していた日本人が算用数字を学ぶには、教師も生徒もだいぶ苦労し、「1は一の倒立」「3はだるま」などと言いつつ覚えたそうです。第七級(小学1年後期)では、ローマ数字「CLXXII」を算用数字になおす問題が出題されています。現代では時計の文字盤ぐらいでしか馴染みがありませんが、当時は漢数字、算用数字と並び、ローマ数字も学んでいました。ちなみにCが100、Lが50、Xが10を表すので、答えは172となります。

 第六級(小学2年前期)以上は、筆算2問、文章問題1問、暗算1問の構成ですが、第一級(小学4年後期)ともなると筆算もかなり複雑です。


ずいぶん込み入った「分数ぶんの分数」問題で、解くには根気が必要ですが、ぜひ挑戦してみてください。答えは文末に記します。

 読物・摘書は、合わせて20点。読物は学習した掛図や教科書の中から指示された範囲を朗読します。摘書は、黒板に抜き書きされた単語の読み方を口頭で答え、○が付いたものはその意味も述べます。各級かなりの難問揃いですが、例えば第三級(小学3年後期)は以下の8問です。

 (1)峠 (2)纔 (3)○磽确 (4)○職分田 (5)香美 (6)律令 (7)藺席 (8)甲奴

難しい漢字がありますが、「纔」は「わず(か)」もしくは「ひたた」、「磽确」は「こうかく」、「藺席」はイ草で作られた筵(むしろ) のことで「いむしろ」と読むと思われます。○の付いた「磽确」は石の多いやせた土地、「職分田」(しきぶんでん) は、律令制で官職に支給した田のこと、などと言葉の意味を説明しなくてはいけません。「香美」と「甲奴」は地名で、それぞれ高知県の「かみ」、広島県の「こうぬ」のことです。明治の小学生はこんな難しい言葉を勉強していたのですね。

 講義は、読物で朗読した部分の内容を簡潔に説明します。正しければ10点、一つ間違えるごとに第八級は2点半、それより上の級では5点ずつ引かれます。

 算術の答え・・・7100/7189

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モノが語る明治教育維新 第17回―日本最初(!?)の卒業証書 (2)

2017年 10月 10日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第17回―日本最初(!?)の卒業証書(2)

 第16回に引き続き、草山直吉の卒業証書から当時の学校の様子をあきらかにしていきます。

 明治5年に頒布された「学制」には、「大中小学区ノ事」として日本全国を8つの大学区に分け、一つの大学区を32の中学区に分け、更に一つの中学区を210の小学区に分けるとあります。これが実践されれば全国で5万3760校(8×32×210)の小学校を設けることとなり、それは人口600人を以て1小学区とすることを目的としたものでした。実際ははるかに及びませんでしたが、明治6年に1万2558校、明治7年には現代とほぼ同数の約2万校の小学校が存在しました(もっとも立派な校舎をもつ学校は少なく、寺子屋が学校と名を変えただけのものも多かったのですが)。

 直吉の卒業証書を見ると、学校名がこの学制期のナンバリングで記載されています。足柄県は第1大学区に指定された1府12県(東京府と関東近県)の中の1つでしたので、この第1⼤学区内の第28の中学区、その中の第145番の小学校(第三級以降は学区変更のためか第140番小学となっています)である、と記しているのです。 証書に押された校印も何々学校ではなく、このナンバリングで記されています。手書きの証書に「第何大学区 第何中学区 第何番小学」といちいち書き込むのは大変だと思いますが、「学制」が廃止される明治12年まではどの卒業証書も同様の体裁をとっています。そして、第一級卒業、つまり下等小学卒業の証書にだけ、「平澤学校」と校名が併記されています。

 氏名の右肩には、在住する県や村の名称と共に族称(維新後に定められた国民の身分上の呼称)が記されています。直吉の族称は平民で、明治5年の壬申戸籍によれば人口の93パーセントをこの平民が占めています。当館が所蔵する明治6年から12年までの卒業証書のうち、族称が記載された28人を調べたところ、平民22人に対して、士族が6人もいました。確認した数が少ないためはっきりしたことは言えませんが、人口比率のわりに士族が就学・卒業した割合が多かったと推察されます。

 氏名の左下には年齢が記されています。第八級卒業証書にある「当年十二月九年十月」とは、今年12月で満9歳と10カ月であるという意味です。旧来の数え年(誕生月に関わらず、新年を迎えると一つ年を加えて数える年齢)をとらず、西洋風に満年齢を採用したところが開化的ですね。直吉は第八級を9歳10か月で終えたということは、入学年齢も9歳だったことになります。これは何も直吉の入学が遅れたというのではなく、明治6年は学校がスタートした年でもあり、入学者は6歳未満から10代後半までと年齢層が幅広かったのが実情だったのです。

 日本最初の、と言っていいかはわかりません(これ以前のものをご存知の方は、ぜひお知らせください)が、近代小学校揺籃(ようらん) 期の姿を知るうえで、とても意味のある卒業証書です。

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モノが語る明治教育維新 第16回―日本最初(!?)の卒業証書 (1)

2017年 9月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第16回―日本最初(!?)の卒業証書 (1)

 近代小学校が発足した当初の制度や実態を説明するときに重宝するのが、この草山直吉の卒業証書です。1枚の証書からどんなことが読み取れるのでしょうか。

 まず「下等小学第八級卒業」とありますが、「学制」によれば尋常小学校は上下二等にわかれ、下等小学は6歳から9歳まで4年間、上等小学は10歳から13歳まで4年間学ぶと定められています。各年は二級に分かれているので、1年前期が第八級、後期が第七級と順に数が減り、第一級卒業が下等小学卒業となります。つまり、この証書は小学1年生前期を無事修了したという証なのです。

 なぜ、このように小刻みに証書を授与したのでしょうか? 当時は現代のように入学年数に応じて異なる課程を修める学年制ではなく、能力に応じた課程を修める等級制でした。誰もが進級できるのではなく、半年ごとに行われる進級試験に合格した者だけが上の級に進むことができました。知的啓蒙を重視した時代だけに、試験は厳格さを重視し、「原級留置」つまり落第する者も多かったそうです。1年生で落第とは気の毒ですが、退学する者も多く、明治8年の等級別在籍者の比率をみると、第八級が65.2%と全体の3分の2を占めるのに対し、第七級は16.7%と激減します。上に進むほど少なくなり、第一級ともなると全児童の0.1%しかいません。いかに下等小学を卒業することが難しかったかがうかがわれます。

 そんな試験地獄の時代に直吉は、明治6年6月の開校と同時に入学し、その半年後の12月に第八級を卒業します。そして、それ以降も順調に進級し、学制が定めた4年の歳月で無事卒業したことを、その後の6枚の証書が明らかにしています。

  明治7年5月(5か月) 第七級卒業
  明治8年4月(11か月) 第六級・第五級卒業
  明治8年7月(3か月) 第四級卒業
  明治8年11月(4か月) 第三級卒業
  明治9年4月(5か月) 第二級卒業
  明治10年5月5日(13か月) 下等小学教科卒業

※( )は進級までにかかったおよその月数

 卒業月を見ると、試験は半年おきに規則正しく行われていたわけではないことがわかります。この小学校のあった足柄県(現・神奈川県)では「進歩の疾きものは臨時試験を以て之を進級せしむ」(明治7年文部省年報)としたので、優秀な児童がいれば随時試験が行われていたのです。

 また飛び級制度もあり、明治8年4月に第七級から一つ飛んで第五級へ進級しています。

飛び級といえば、夏目漱石も成績優秀のため飛び級をしたことが知られています。そこで、やはり直吉もひとかどの人物に成長したのではないかと思い、記載された住所「足柄県大住郡平澤村」を手掛かりに、現在の神奈川県秦野市教育委員会に照会したところ、今回初めてプロフィールが分かりました。元治元年生まれで長じて地方行政に邁進(まいしん) し、村長も務めたそうです。市史には、熟年期の、口ひげを蓄え謹直そうな顔写真が掲載されています。

 144年前の卒業証書からこうして、持ち主の情報が分かり、血が通ったものになる。資料を扱っていてワクワクするのは、こんな瞬間です。

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