2008年 6月 30日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「天道是か非か」です。
天道(てんどう)是(ぜ)か非(ひ)か
出典
史記(しき)・伯夷(はくい)列伝
意味
この世の秩序や運命は果たして正しい者に味方しているのか。この世にはほんとうに正しい道理があるのか。「天道」は、人間をつかさどる人力を超えた宿命。宇宙を支配する力。「是か非か」は、正しいのか、まちがっているのかということ。運命に対する基本的な疑問を表した句である。
原文
武王已平二殷乱一、天下宗レ周。而伯夷叔斉恥レ之、義不レ食二周粟一、隠二於首陽山一、采レ薇而食レ之。・・・・・・遂餓二死於首陽山一。由レ此観レ之、怨邪非邪。或曰、天道無レ親、常与二善人一。若二伯夷叔斉一、可レ謂二善人一者、非邪。・・・・・・行不レ由レ径、非二公正一不レ発レ憤、而遇二禍災一者、不レ可レ勝レ数也。余甚惑焉。儻所謂天道是邪非邪。〔武王(ぶおう)已(すで)に殷(いん)の乱を平らげ、天下周(しゅう)を宋(そう)とす。而(しか)るに伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)これを恥じて、義として周の粟(ぞく)を食らわず、首陽山(しゅようざん)に隠れ、薇(び)を采(と)りてこれを食らう。・・・・・・遂(つい)に首陽山に餓死す。これに由(よ)りてこれを観(み)るに、怨(うら)みたるか非か。或(あ)るひと曰(いわ)く、天道親(しん)無し、常に善人に与(くみ)す、と。伯夷・叔斉の若(ごと)きは善人と謂(い)うべき者か、非か。・・・・・・行くに径(こみち)に由(よ)らず、公正に非(あら)ざれば憤りを発せず、而して禍災(かさい)に遇(あ)える者、数うるに勝(た)うべからず。余甚だ惑う。儻(も)しくは所謂(いわゆる)天道是か非か。〕
訳文
(殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の家臣だった)周(しゅう)の武王(ぶおう)は、殷の紂王の無道を平らげて、天下は周を宗主とするようになった。伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、おのが君主を討った武王に仕えるのを恥とし、正しい道を守って、周の国の粟(あわ)を食べることを潔しとせず、首陽山(しゅようざん)に隠れて薇(わらび)を採り、これを食べていた。・・・・・・とうとう首陽山で餓死してしまった。このことから考えるに、かれらは怨(うら)みを抱いていたのであろうかいなかったのであろうか。ある人はこう言っている。「天の道は決してえこひいきはしない。いつも善人の味方だ。」と。伯夷・叔斉などは善人というべきではないか、そうではないのか。(孔子(こうし)の弟子の中で、最も正しい人だった顔回(がんかい)は貧困のうちに若くして死んだ。盗跖(とうせき)という泥棒は悪事の限りを尽くしながら、世に横行した。今の世でも正しくない者が、一生富み栄えている。)どんなときでも大道を歩み、正しいことにかかわることでなければ怒りを発することをしない者、そういう人が、災いに遭っている例は数えきれないくらいだ。わたし(=司馬遷(しばせん))はこうした現実の世にたいへん迷わずにはいられない。果たして天道というものは正しいものなのか、そうではないのか。
解説
司馬遷(しばせん)は友人李陵(りりょう)の事件に連座して宮刑(きゅうけい)に処せられた。その非合理な世に対する恨みが、このような感慨となって表れたものとも考えられる。
類句
◆采薇(さいび)の歌(うた) ◇首陽(しゅよう)の薇(わらび)
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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2008年 6月 23日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「朝三暮四」です。
朝三暮四(ちょうさんぼし)
出典
列子(れっし)・黄帝(こうてい)―荘子(そうじ)・斉物論(せいぶつろん)
意味
ごまかすこと。うまくまるめ込むこと。また、どちらにしても大差のないこと。また、目先の利益にとらわれて大局を見失うことをいう。この句は本来『荘子(そうじ)』にあったものを列子(れっし)(=列禦寇(れつぎょこう))が改めたものといわれているが、その前後関係は断言できない。「朝三暮四」とは「朝三つ、夕方四つ」ということで、「朝四つ、夕方三つ」と実質は変わらないのに、言葉を換えて言いくるめることをいう。『列子』では、内容は変わらないのに、言葉だけで言いくるめるのが、聖人のやり口だといっている。『荘子』では、人は愚にもつかぬ差にこだわりがちであることを指摘している。
原文
宋有二狙公者一。愛レ狙養レ之成レ群。能解二狙之意一、狙亦得二公之心一。損二其家口一、充二狙之欲一。俄而匱焉。将限二其食一、恐二衆狙之不一レ馴二於己一也。先誑レ之曰、与二若?一、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与二若?一、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。物之以二能鄙一相籠、皆猶レ此也。聖人以レ智籠二群愚一、亦猶三狙公之以レ智籠二衆狙一也。名実不レ虧、使二其喜怒一哉。〔宋(そう)に狙公(そこう)なる者有り。狙(さる)を愛しこれを養いて群れを成す。能(よ)く狙の意を解し、狙も亦(ま)た公の心を得たり。その家口(かこう)を損(へ)らして狙の欲を充(み)たす。俄(にわ)かにして匱(とぼ)し。将(まさ)にその食を限らんとするも、衆狙の己(おのれ)に馴(な)れざらんことを恐る。先(ま)ずこれを誑(あざむ)きて曰(いわ)く、若(なんじ)に?(しょ)を与うるに、朝に三にして暮れに四にせば足らんか、と。衆狙皆起(た)ちて怒る。俄かにして曰く、若に?を与うるに、朝に四にして、暮れに三にせば足らんか、と。衆狙皆伏して喜ぶ。物の能鄙(のうひ)を以(もっ)て相籠(あいろう)すること、皆猶(な)おかくのごときなり。聖人の智(ち)を以て群愚(ぐんぐ)を籠する、亦(ま)た猶お狙公の智を以て衆狙を籠するがごとし。名実虧(か)けずして、それをして喜怒せしむるかな。〕
訳文
<列子(れっし)>宋(そう)に狙公(そこう)(=猿を飼う人)と呼ばれている者がいた。猿をかわいがって、たくさん飼っていた。猿の気持ちをよく理解し、猿もまた狙公の心をわかっていた。狙公は家族の人数を減らしてまで、猿の欲しがるものを与えていた。彼は急に貧乏になった。そこで猿の食べ物を減らそうと思ったが、猿が自分になつかなくなるのではないかと恐れ、猿をだましてこう言った。「おまえらに団栗(どんぐり)をやろうと思うが、朝三つやって、夕方四つやろうと思うがそれでいいか。」すると猿たちはみな立ち上がって怒り出した。そこで次のように言った。「ではおまえたちにやる団栗を、朝四つにし、夕方三つにしよう。それでどうか。」すると猿たちはみなひれ伏して喜んだ。すべて物事は利口と愚か者がだまし合っているので、この話はそれを表している。聖人の知恵で愚かな者を言いくるめてしまうのは、ちょうど猿飼いの知恵で、猿たちを言いくるめるのと同じだ。名(=言葉)と実(=内容)は全く変わらないのに、愚か者は怒らされたり、喜ばされたりしているにすぎない。
解説
『荘子(そうじ)』斉物論(せいぶつろん)所収も同じ説話だが、「人間は、すべてのものに差というものはない。名(=言葉)と実(=内容)は違わないのがほんとうなのに、名だけ変われば、それに一喜一憂している。すべて道理は一つであるという偏見のない心をもたなければならない。」と説いている。
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2008年 6月 16日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「蛇足」です。
蛇足(だそく)
出典
戦国策(せんごくさく)・斉(せい)
意味
余分なものをつけ加えること。あっても役にたたないもの。
原文
楚有二祠者一。賜二其舎人巵酒一。舎人相謂曰、数人飲レ之不レ足。一人飲レ之有レ余。請画レ地為レ蛇、先成者飲レ酒。一人蛇先成。引レ酒且レ飲レ之。及左手持レ巵、右手画レ蛇曰、吾能為二之足一。未レ成、一人之蛇成。奪二其巵一曰、蛇固無レ足。子安能為二之足一。遂飲二其酒一。為二蛇足一者、終亡二其酒一。〔楚(そ)に祠(まつ)る者有り。その舎人(しゃじん)に巵酒(ししゅ)を賜(たま)う。舎人相(あい)謂(い)いて曰(いわ)く、数人これを飲めば足らず。一人(いちにん)これを飲めば余り有り。謂う、画(えが)きて蛇を為(な)し、先(ま)ず成る者酒を飲まん、と。一人の蛇先ず成る。酒を引きて且(まさ)にこれを飲まんとす。及(すなわ)ち左手(さしゅ)に巵を持ち、右手(ゆうしゅ)に蛇を画きて曰く、吾(われ)能(よ)くこれが足を為さん、と未(いま)だ成らざるに、一人の蛇成る。その巵を奪いて曰く、蛇固(もと)より足無し。子(し)安(いずく)んぞ能くこれが足を為さん、と。遂(つい)にその酒を飲む。蛇の足を為す者、終(つい)にその酒を亡(うしな)えり。〕
訳文
(楚(そ)の宰相昭陽(しょうよう)は魏(ぎ)を討ってから、斉(せい)を攻撃しようとした。斉の食客陳軫(ちんしん)は昭陽に会い、次のように言った。)「楚の国に先祖の廟(みたまや)を祭っている者がおりました。近侍の者に、大きな杯に入れた酒をふるまいました。近侍たちは相談して、『数人で飲んだら、足りないけれど、一人で飲むには多すぎる。ひとつ地面に蛇の絵をかき、いちばん早くかきあげた者が、この酒を飲むことにしたらどうだろう。』と言いました。するとその中の一人が、まず蛇をかきあげ、酒を手もとに引き寄せて飲もうとしながら、左手に杯を持ち、右手でさらに蛇をかき続け、『おれは足をかくだけの余裕があるぞ。』と言いました。その足がかき終らぬうちに、もう一人の者のかいていた蛇の絵ができあがりました。その人は足をかいている者の杯を奪い取り、『蛇に足なんかあるはずがないのに、おまえはどうして足がかけるんだ。』と言って、その酒を飲んでしまいました。蛇の足をかいていた者は、とうとう酒を飲みそこなってしまったのです。(あなたは、魏を破り、斉を恐れさせ、もう十分名誉をあげられました。斉を破っても、宰相であるあなたは、もう褒賞として与えられる官位はないはずです。この上やりすぎて、もしお亡くなりになれば、人に官位を取られることになります。それでは蛇の足をかいた者と同じではありませんか。」昭陽はもっともだと思い、軍を引き揚げさせた。)
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2008年 6月 2日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」です。
千里(せんり)の馬(うま)は常(つね)に有(あ)れども伯楽(はくらく)は常(つね)には有(あ)らず
出典
韓愈(かんゆ)・雑説(ざつせつ)・四首・其四
意味
いかに才能のある者も、それを認めてくれる人がいなければ、力を発揮できない。「千里の馬」は、一日に千里も走ることのできる名馬。「伯楽(はくらく)」は、もともと星の名で、天上で馬の世話をするのが役目であったというが、転じて馬の素養を見分ける人をいうようになった。この句は漢(かん)の『韓詩外伝(かんしがいでん)』に「驥(き)(=名馬)をして伯楽を得ざらしむれば、安(いずく)んぞ千里の足を得ん」という同じ意味の句があり、『戦国策(せんごくさく)』秦(しん)策にも、孫陽(そんよう)という馬の鑑定人が、名馬に塩運びをさせてしまったという話があり、かなり古くから伝えられていた物語と思われるが、有名になったのは、韓愈(かんゆ)の「雑説(ざつせつ)」からである。「雑説」は、「随想」という意味。
原文
世有二伯楽一、然後有二千里馬一。千里馬常有、而伯楽不二常有一。故雖レ有二名馬一、祇辱二於奴隷人之手一、駢二死於槽櫪之間一、不下以二千里一称上也。・・・・・・嗚呼、其真無レ馬邪、其真不レ知レ馬也。〔世に伯楽(はくらく)有り。然(しか)る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故(ゆえ)に名馬有りと雖(いえど)も、祇(た)だに奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間に駢死(べんし)し、千里を以(もっ)て称せられざるなり。・・・・・・嗚呼(ああ)、それ真に馬無きか、それ真に馬を知らざるか。〕
訳文
世間に馬の良し悪(あ)しをよく見抜く人がいてこそ、千里も走る名馬というものがありうるのである。名馬はいつでもいるけれど、それを見抜く人はいつもいるとは限らない。だから、たとえ名馬がいたとしても、見抜く人がいなければ、ただ下働きの者にこき使われ、飼い葉桶(おけ)の間に首を並べて死んでしまって、千里も走る名馬とはいわれないままで終わってしまう。(名馬に十分食べさせなければ、並の馬と同じになってしまうし、並の馬と同じように鞭(むち)打ったり、食事させたりして、名馬を理解しないで、世の中には良い馬はいないなどと言っている。)ああ、世の中にはほんとうに名馬がいないのか、それとも世の人が名馬を見分けられないのか。
解説
韓愈(かんゆ)(七六八~八二四)は伯楽(はくらく)のたとえを「温処士(おんしょし)の河陽(かよう)軍に赴くを送る序」や「人の為(ため)に薦(すす)めを求むる書」にも用いており、自分の才能を認めぬ上流の人への憤懣(ふんまん)をもらしている。杜甫(とほ)の「天育(てんいく)の驃(ひょう)の図の歌」にも、同じようなたとえが出てくる。また、「伯楽(はくらく)」がなまって、日本語の「馬喰(ばくろう)(=博労)」となったともいわれている。
類句
◆伯楽(はくらく)は常(つね)には有(あ)らず
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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2008年 5月 26日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「推敲」です。
推敲(すいこう)
出典
唐詩紀事(とうしきじ)・賈島(かとう)
意味
文章・詩などの辞句を練ること。「推」は、押すこと。「敲(こう)」は、たたくこと。作文作詞に苦心をする。
原文
島赴レ挙至レ京。騎レ驢賦レ詩。得二僧推月下門之句一、欲二改レ推作一レ敲、引レ手作二推敲之勢一、未レ決、不レ覚衝二大尹韓愈一。及具言。愈曰、敲字佳矣。遂並レ轡論レ詩久レ之。〔島(とう)、挙(きょ)に赴き京に至る。驢(ろ)に騎(の)りて詩を賦す。僧は推す月下の門の句を得たるも、推(すい)を改めて敲(こう)と作(な)さんと欲(ほっ)し、手を引きて推敲(すいこう)の勢を作(な)し、未(いま)だ決せざるに、覚えず大尹韓愈(たいいかんゆ)に衝(あた)る。及(すなわ)ち具(つぶさ)に言う。愈曰(いわ)く、敲の字佳(か)ならん、と。遂(つい)に轡(くつわ)を並べ詩を論ずること、これを久しうす。〕
訳文
賈島(かとう)は科挙の試験を受けるため、都へやってきた。驢馬(ろば)に乗って、その上で詩を作っていた。「僧は推す月下の門」という一句を作ったが、「推す」という語を「敲(たた)く」という語に改めようかと思い、押す動作や敲く動作を手でやりながら驢馬を歩ませていて、まだどちらの語とも決まらないうちに、うっかり都の長官韓愈(かんゆ)の行列に突き当たってしまった。そこで賈島は韓愈に、事情を詳しく説明した。韓愈は、「それは『敲く』のほうがよかろう。」と言った。二人はそのままうち解けて、馬を並べて、長い間詩を論じ合いながら行った。
解説
賈島(かとう)(七〇九?~八〇三?)のこのときの詩「題(だいス)二季疑(りぎノ)幽居(ゆうきょニ)一(=李疑は、一説には李凝(りぎょう))」という以下の作で、『三体詩(さんたいし)』に収録されている。「閑居隣並(りんぺい)少なく、草径(そうけい)荒園に入る。鳥は宿る地中の樹、僧は敲(たた)く月下の門。橋を過ぎて野色(やしょく)を分かち、石を移して雲根(うんこん)を動かす。暫(しばら)く去って還(ま)た此(ここ)に来る、幽期言(げん)に負(そむ)かず。」韓愈(かんゆ)(七六八~八二四)は当時の大官であり、大作家だった。この故事に示された出会いによって、初め僧侶(そうりょ)だった賈島は韓愈の門人となり、のち還俗(げんぞく)して詩作を事としたという。
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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2008年 5月 12日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「助長」です。
助長(じょちょう)
出典
孟子(もうし)・公孫丑(こうそんちゅう)・上
意味
現在では、成長を助けるという意味に用いる。本来そういう意味であるが、原典では、無理やりに成長させようとする、余計なことをしてかえって害を招く、やり過ぎなど、否定的な用い方がされている。
原文
宋人有下閔二其苗之不一レ長而揠レ之者上。芒芒然帰、謂二其人一曰、今日病矣。予助レ苗長矣。其子趨而往視レ之、苗則槁矣。〔宋人(そうひと)に、その苗の長(の)びざるを閔(うれ)えて、これを揠(ぬ)く者有り。芒芒然(ぼうぼうぜん)として帰り、その人に謂(い)いて曰(いわ)く、今日病(つか)れたり。予(われ)苗を助けて長ぜしむ、と。その子趨(はし)りて往(ゆ)きてこれを視(み)れば、苗は則(すなわ)ち槁(か)れたり。〕
訳文
(孟子(もうし)が浩然(こうぜん)の気について述べ、浩然の気を養うためには努力しなければならないが、その効果を期待してはならない。また、効果を早くあげようとして、無理をしてはならないと言って、たとえ話をした。)宋(そう)の国の人で自分の植えた苗の生長が遅いのを心配して、畑へ行って、苗を引っ張った者がいた。一日苗を引っ張って、すっかりくたびれて家に帰った。家の者に「今日はくたびれた。苗を引っ張って、早く生長するように助けてやった。」その息子が驚いて畑に走って行って見ると、苗は引き抜かれてすっかり枯れてしまっていた。(このように無理に浩然の気を養おうとするとかえって害を招く。それは何も努力しないでいるよりももっと悪い結果になる。)
解説
「浩然(こうぜん)の気」は、「曰(いわ)く、言(い)い難(がた)し」の項でも述べたように、なかなか説明しにくく、把握しにくい。ゆったりとして、率直で、剛毅(ごうき)な心で、宇宙と一体となったような心境とでもいえよう。原典の「芒芒然(ぼうぼうぜん)」は、「ぼんやりする」というよりも、むしろ「ぐったりする」という意味。
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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2008年 5月 5日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「四面楚歌」です。
四面(しめん)楚歌(そか)
出典
史記(しき)・項羽(こうう)本紀(ほんぎ)
意味
まわり中が敵であること。一人の味方もいないこと。四方を敵に囲まれ、孤立無援な状態のたとえ。「楚歌(そか)」は楚の国(=今の湖南(こなん)省周辺だが、中南部中国を指すことが多い)で歌われる歌。
原文
項王軍壁二垓下一。兵少食尽。漢軍及諸侯兵囲レ之数重。夜聞二漢軍四面皆楚歌一、項王及大驚曰、漢皆已得レ楚乎。是何楚人之多也。〔項王(こうおう)の軍、垓下(がいか)に壁(へき)す。兵少なく食尽く。漢(かん)軍及び諸侯の兵、これを囲むこと数重(すうちょう)。夜、漢軍の四面に皆楚歌(そか)するを聞き、項王及(すなわ)ち大いに驚きて曰(いわ)く、漢皆已(すで)に楚を得たるか。これ何ぞ楚人(そひと)の多きや、と。〕
訳文
(秦(しん)を滅ぼしたのち、楚(そ)王項羽(こうう)と漢(かん)王劉邦(りゅうほう)が、中国の覇権を争った。長い戦いの末、項羽はしだいに追い詰められ、垓下(がいか)という町にたてこもった。)項羽の軍は垓下に城壁を築いた。兵力は少なく、食糧もなくなっていた。漢の軍や諸侯の軍が、この城を幾重にも包囲した。夜になって、項羽は漢の軍が四方で皆楚の国の歌を歌っているのを聞き、驚いて言った。「漢はもうわたしの領土である楚の国を全部占領してしまったのか。なんと楚の人が多いことか。」
解説
項羽(こうう)はこの状況に絶望し、覚悟をきめ、夜、本陣で別れの宴を開いた。彼の愛妾(あいしょう)に虞(ぐ)という美人がいた。常に項羽に愛され、そばを離れなかった。また、優れた馬がおり、名を騅(すい)といった。項羽はいつもこの馬に乗っていた。しかしもうこの最後の夜となり、項羽は悲憤慷慨(こうがい)し、詩を作って歌った。「わたしの力は山をも突き崩し、気力はこの世を支配するに足りる。しかし時はわたしに利あらず、敗北し、騅も進まなくなった。騅が進まないのに、もうどうしようがあるものか。ああ、愛する虞よ。おまえをどうすればよいのだ。」と。いわゆる「抜山(ばつざん)蓋世(がいせい)の歌」である。項羽はその後垓下(がいか)を脱出したが、烏江(うこう)という渡し場で自決した。
参考
「力(ちから)は山(やま)を抜(ぬ)き気(き)は世(よ)を蓋(おお)う」の項目を参照。
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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2008年 4月 28日 月曜日 筆者: yama
塞翁(さいおう)が馬(うま)
出典
淮南子(えなんじ)・人間訓(じんかんくん)
意味
人の世の運命の吉凶禍福は予測できない。禍(わざわ)いも悲しむに及ばず、福も喜ぶにはあたらないという意味に用いる。どちらかといえば、禍いに遭ってもいずれ福も訪れることがあるというほうに多く使用される。「塞翁(さいおう)」とは、国境の塞(とりで)の近くに住んでいる老人という意味だが、原典には、「塞上に近き人」の「父」という言葉で出てきて、直接「翁」という語は用いられていない。班固(はんこ)の『幽通賦(ゆうつうふ)』、また、『後漢書(ごかんじょ)』蔡邕(さいよう)伝には、『淮南子(えなんじ)』のこの語をふまえて「北叟(ほくそう)(=北のとりでの老人)」の語を用いている。
原文
近二塞上一之人、有二善レ術者一。馬無レ故亡而入レ胡。人皆弔レ之。其父曰、此何遽不レ為レ福乎。居数月、其馬将二胡駿馬一而帰。人皆賀レ之。其父曰、此何遽不レ能レ為レ禍乎。家富二良馬一。其子好レ騎、堕而折二其髀一。人皆弔レ之。其父曰、此何遽不レ為レ福乎。居一年、胡人大入レ塞。丁壮者、引レ弦而戦。近レ塞之人、死者十九。此独以二跛之故一、父子相保。故福之為レ禍、禍之為レ福、化不レ可レ極、深不レ可レ測也。〔塞上(さいじょう)に近きの人に、術を善くする者有り。馬、故(ゆえ)無くして亡(のが)れて胡(こ)に入(い)る。人皆これを弔す。その父曰(いわ)く、これ何遽(なん)ぞ福と為(な)らざらんや、と。居(お)ること数月、その馬、胡の駿馬(しゅんめ)を将(ひき)いて帰る。人皆これを賀す。その父曰く、これ何遽ぞ禍(か)と為る能(あた)わざらんや、と。家、良馬に富む。その子騎を好み、堕(お)ちてその髀(ひ)を折る。人皆これを弔す。その父曰く、これ何遽ぞ福と為らざらんや、と。居ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮(ていそう)なる者、弦を引きて戦う。塞に近きの人に、死する者、十に九なり。これ独り跛(は)の故を以(もっ)て、父子相保つ。故に福の禍と為り、禍の福と為る、化、極むべからず、深、測るべからざるなり。〕
訳文
国境の塞(とりで)に近い所に住んでいる人で、占いが得意な人がいた。その人の馬がなんの理由もなく、異民族の地域へ逃げてしまった。人々がみんなで彼を慰めた。するとその占いの得意な父親が、「馬の逃げたことが福になるであろう。」と言った。数か月すると、逃げた馬が、異民族の名馬を連れて帰ってきた。人々がお祝いを言うと、父親は、「このことが禍(わざわ)いになるであろう。」と言った。その家には良い馬が増えたので、息子は乗馬を好み、乗っているうちに落馬して股(もも)の骨を折ってしまった。人々がお見舞いに行くと、父親は、「これが福となるであろう。」と言った。一年たつと、異民族が塞へ攻め込んできた。若者たちは、弓を引き戦った。そして塞近くの人は、十人中九人まで死んだ。ところが息子は足が悪かったので、兵役に駆り出されず、父親と共に無事だった。このように福が禍いとなり、禍いが福となる、その変化はとうてい人間の知りうるような浅いものではなく、その深さは予測できないものなのである。
解説
「人間(にんげん)万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬(うま)」という言い方をし、「にんげん」と読みならわしているが、中国語の「人間」は、「人の世の中」の意味で、「人」そのものではない。訓読するときも、「じんかん」と読む。
類句
◆禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し◆禍福(かふく)は糾?(きゅうぼく)の如(ごと)し◆吉凶(きっきょう)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し◆黒牛(こくぎゅう)白犢(はくとく)を生(う)む◆人間(にんげん)万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬(うま)
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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2008年 4月 21日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「五十歩百歩」です。
五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)
出典
孟子(もうし)・梁恵王(りょうけいおう)・上
意味
たいして違いがない。本質的な相違はない。戦場で、五十歩逃げた者も、逃げたという点では変わりがなく、ただ、わずかな距離の差があるに過ぎないという意味。
原文
孟子対曰、王好レ戦。請以レ戦喩。塡然鼓レ之、兵刃既接、棄レ甲曳レ兵而走。或百歩而後止、或五十歩而後止。以二五十歩一、笑二百歩一則何如。曰、不可。直不二百歩一耳。是亦走也。曰、王如知レ此、則無レ望三民之多二於隣国一也。〔孟子(もうし)対(こた)えて曰(いわ)く、王戦いを好む。謂う戦いを以(もっ)て喩(たと)えん。塡然(てんぜん)としてこれを鼓し、兵刃(へいじん)既に接し、甲を棄(す)て兵を曳(ひ)きて走る。或(あるい)は百歩にして後(のち)止(とど)まり、或は五十歩にして後止まる。五十歩を以て百歩を笑わば則(すなわ)ち何如(いかん)、と。曰く、不可(ふか)なり。直(た)だ百歩ならざるのみ。これ亦(ま)た走るなり、と。曰く、王如(も)しこれを知らば、則ち民の隣国より多きを望むこと無(なか)れ、と。〕
訳文
(梁(りょう)の恵王(けいおう)が孟子(もうし)に、「自分は、人民に対して、いつも心をくばっている。凶作の地の人民は豊作の地に移すようにしている。これほど他の国よりも善政を行っているのに、人民は自分を慕って、各地から集まってこないのはどうしてだろう。」と言ったので、)孟子は答えた。「王様は戦争がお好きだから、戦争をたとえにして申し上げます。進軍の太鼓が鳴り、刀と刀が触れ合う接近戦になって、鎧(よろい)・甲(かぶと)や武器を捨て逃げだす者が出てきて、ある者は百歩、ある者は五十歩退却して止まったとします。このとき五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を、自分より臆病だと言って笑ったらどうでしょうか。」王が言った。「それは間違っている。百歩逃げなかったというだけで、逃げたことには変わりがない。」孟子が言った。「王様にその道理がおわかりになるのでしたら、あなたの国の人民が、隣国より多くなることをお望みになどならないことです。(人民が苦しむのを凶作のせいにするようでは、他国の政治と大差がないのです。)」
解説
恵王(けいおう)が、凶作のとき、自分の米倉を開いて民を救済しようともせず、これを凶作のせいにしているのは、まだほんとうの善政とはいえず、それは人を殺しておいて、自分のせいではなく、凶器のせいだというようなものだといって、真の善政(=王道政治)はいかにあるべきかを説いた話である。
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
2008年 4月 14日 月曜日 筆者: yama
今週のことわざは「黄粱一炊の夢」です。
黄粱(こうりょう)一炊(いっすい)の夢(ゆめ)
出典
沈中記(ちんちゅうき)
意味
栄枯盛衰も、ほんのひとときの夢のように、はかないものである。「黄粱(こうりょう)」は、きび。「一炊(いっすい)」は、米や粟(あわ)・きびなどを炊く時間を指す。きびが炊ける間に見た昼寝の夢、束(つか)の間(ま)の夢のこと。本文の引用は、『太平広記(たいへいこうき)』巻八二・呂翁(りょおう)に拠(よ)った。『沈中記(ちんちゅうき)』の本文はテキストによって文字の異同が多い。
原文
盧生欠伸而寤。見方偃二於邸中一、顧呂翁在レ傍。主人蒸二黄粱一尚未レ熟。触類如レ故。蹶然而興曰、豈其夢寐耶。翁笑謂曰、人世之事亦猶レ是。生然レ之。良久謝曰、夫寵辱之数、得喪之理、生死之情、尽知レ之矣。此先生所三以窒二吾欲一也、敢不レ受レ教。再拝而去。〔盧生(ろせい)欠伸(けんしん)して寤(さ)む。見れば方(まさ)に邸中(ていちゅう)に偃(ふ)し、顧みれば呂翁(りょおう)傍らに在り。主人黄粱(こうりょう)を蒸して尚(な)お未(いま)だ熟せず。触類(しょくるい)故(もと)の如(ごと)し。蹶然(けつぜん)として興(お)きて曰(いわ)く、豈(あ)にそれ夢寐(むび)なるか、と。翁笑いて謂(い)いて曰く、人世の事も亦(ま)た猶(な)お是(か)くのごとし、と。生、これを然(しか)りとす。良(やや)久しくして謝して曰く、夫(か)の寵辱(ちょうじょく)の数(すう)、得喪(とくそう)の理、生死の情、尽(ことごと)くこれを知れり。これ先生の吾(わ)が欲を塞(ふさ)ぐ所以(ゆえん)なり、敢(あえ)て教えをうけざらんや、と。再拝して去る。〕
訳文
(唐(とう)の徳宗(とくそう)《在位、七七九~八〇五》のころ、山東(さんとう)の盧生(ろせい)という青年が、邯鄲(かんたん)の近くの旅館で、呂翁(りょおう)という道士に会った。盧生は呂翁に貧しい今の境遇を嘆き、出世の望みのないことを訴えた。そうしているうちに盧生は眠くなった。呂翁は彼に枕(まくら)を貸してやった。すると、夢で盧生は、とんとん拍子に出世し高官になっていた。役人になってからはいろいろな曲折を経たが、五十余年ののち宰相となり子孫も繁栄した。やがて天寿が尽きて永眠した。)ふと、あくびをすると目が覚めた。見れば旅館の店先に寝ていて、傍らには呂翁がいることに気がついた。旅館の主人は盧生が寝る前に黄粱(きび)を炊いていたが、まだ炊き上がっていなかった。目に映るものすべてもとのままであった。盧生は飛び起きて、「なんと夢だったのか。」と言った。すると、呂翁は笑って、「人の世のことというのはこんなものですよ。」と言った。盧生は全くそうだと思った、そして、「芽が出たり出なかったりすることの道筋も、栄えたり滅んだりすることのことわりも、生きていたり死んだりするときの心も、みなよくわかりました。これもすべて先生が私の欲を制御しようとお考えになってのことでしょう。これからも決してこのことは忘れません。」と礼を言い、挨拶(あいさつ)して立ち去った。
類句
◆一炊(いっすい)の夢(ゆめ)◇邯鄲(かんたん)の枕(まくら)◆邯鄲(かんたん)の夢(ゆめ)◇邯鄲(かんたん)夢(ゆめ)の枕(まくら)◇黄粱(こうりょう)一炊(いっすい)◇黄粱(こうりょう)の夢(ゆめ)◇盧生(ろせい)の夢(ゆめ)
三省堂「中国故事成語辞典」金岡照光編より
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