人名用漢字の新字旧字:「仏」と「佛」
2010年 3月 11日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第58回 「仏」と「佛」
新字の「仏」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「佛」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。つまり、「仏」も「佛」も出生届に書いてOKなのですが、その背後には、当用漢字表制定時のゴタゴタがあったりするのです。
漢字制限に関する審議をおこなっていた国語審議会は、昭和17年6月17日、文部大臣に標準漢字表を答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、2528字が収録されており、その中に旧字の「佛」が含まれていました。「佛」の直後には、カッコ書きで新字の「仏」が添えられていて、「佛(仏)」となっていました。標準漢字表では、新字の「仏」はカッコ書きになっているものの、一般に使用して差し支えないということでした。
昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字には、旧字の「佛」が収録されていました。これに対し、文部省教科書局国語課は8月2日、常用漢字に関する主査委員会において、簡易字体の「仏」を収録するよう提案しました。しかし、主査委員会は8月27日の会議でこれを否決し、旧字の「佛」のままでいくことを決定しました。また、10月1日に主査委員会は、表の名称を、常用漢字表から当用漢字表へと変更しました。この結果、昭和21年11月16日に内閣告示された当用漢字表1850字には、旧字の「佛」が収録されていて、新字の「仏」はどこにもありませんでした。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。
昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「佛」が収録されていたので、「佛」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。一方、国語審議会は、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する委員会を組織し、「佛」を「仏」へと字体整理することを決議します。一旦、否決したはずの「仏」が、字体整理で復活したのです。この結果、昭和23年6月1日に国語審議会が答申した当用漢字字体表では、旧字の「佛」の代わりに新字の「仏」が収録されていました。昭和24年4月28日に当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「仏」が当用漢字となり、旧字の「佛」は当用漢字ではなくなってしまいました。
当用漢字表にある旧字の「佛」と、当用漢字字体表にある新字の「仏」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、「佛」も「仏」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。その後、常用漢字表の時代になって、新字の「仏」は常用漢字になりましたが、一方、旧字の「佛」はそれまで子の名に使えてきた経緯を踏まえて、人名用漢字となりました。この結果、現在に至っても、新字の「仏」と旧字の「佛」の両方が、子供の名づけに使えるのです。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
人名用漢字の新字旧字:「𦁪」と「綾」
2010年 2月 25日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第57回 「𦁪」と「綾」
昭和32年2月22日、琉球政府は人名用漢字表を告示しました。この人名用漢字表は「𦁪」(糸へんに坴)を含む92字を収録していました。本土復帰前の沖縄では、「𦁪」を子供の名づけに使ってOKだったのです。
その9年前、昭和23年1月1日におこなわれた戸籍法改正は、しかし、沖縄にはその効力が及んでいませんでした。当時、沖縄はアメリカ軍の軍政下にあり、しかもほとんどの市町村で戸籍簿が滅失してしまっていたのです。本土では、子供の名づけに当用漢字しか認めないという漢字制限が始まっていたのですが、沖縄では戸籍制度そのものが崩壊しており、漢字制限どころではなかったのです。昭和26年5月25日に人名用漢字別表が内閣告示され、「綾」を含む92字が人名用漢字になりましたが、その効力も沖縄には及びませんでした。
昭和29年3月1日、琉球政府は戸籍整備法を施行し、失われた沖縄県戸籍の再製に乗り出しました。当時、琉球政府の公文書では、「沖縄県」も「昭和」も一切使用を許されていなかったのですが、再製された戸籍に限っては、本土と同じく元号表記を使用し、「沖縄県」を本籍地としたのです。沖縄にとって、本土と全く同じ形式の戸籍は、本土復帰への大きな一歩でした。
さらに琉球政府は、昭和32年1月1日、戸籍法を施行しました。その第46条には以下の条文がありました。
第四十六条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。 2 常用平易な文字の範囲は、規則で定める。
沖縄での出生届の漢字制限は、本土から9年遅れで始まったのです。しかし琉球政府は、当用漢字表すら告示していませんでした。アメリカとの関係を考えると、琉球政府にとって当用漢字表の告示は、まず不可能だったのです。それに代えて琉球政府は、7週間後の2月22日、人名用漢字表を告示しました。人名用漢字表は92字を収録していましたが、本土の人名用漢字別表とは微妙に違っていました。違いの一つは、「綾」の代わりに「𦁪」(糸へんに坴)が収録されていたことです。しかも、琉球政府の人名用漢字表の前文は以下のようになっていました。
「当用漢字表」(1952年告示第63号「文書作成規程」第5条)に掲げる漢字以外に人名に用いてさしつかえない漢字を次の表とおり定める。
実は、文書作成規程(昭和27年12月8日琉球政府告示)第5条には「漢字は、当用漢字表・同音訓表によらなければならない。」とあるだけで、当用漢字表そのものは掲載されていなかったのです。しかし、これが琉球政府としては精一杯でした。
昭和47年5月15日、沖縄は日本に復帰しました。同時に琉球政府の人名用漢字表は無効となり、本土の人名用漢字別表が適用されることになりました。「𦁪」(糸へんに坴)も子供の名づけに使えなくなり、本土と同じく「綾」が出生届に書いてOKとなったのです。
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安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
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人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(最終回)
2010年 2月 16日 火曜日 筆者: 安岡 孝一第56回 「玻」は常用平易か(最終回)
(第5回からつづく)
常用漢字表と固有名詞
人名用漢字追加表の内閣告示により、法務省は、人名用漢字の拡大を自由におこなえるようになりました。これに対し、国語審議会は、昭和53年6月30日の総会で、「子の名に用いる漢字及びその扱いについて」の審議を実質的にあきらめ、人名用漢字については法務省にゆだねることを決定しました。さらに国語審議会は、常用漢字表案(昭和54年3月30日中間答申)に、以下の一文を含めることを決めました。
固有名詞に用いる漢字のうち、子の名に用いる漢字については、当用漢字表に関連するところもあり、広く国語の問題にかかわるものとして従来国語審議会も関与してきたが、この問題は、戸籍法等の民事行政との結び付きが強いものであるから、今後は、人名用漢字別表の処置などを含めてその扱いを法務省にゆだねることとする。
昭和56年3月23日に国語審議会が答申した常用漢字表でも、多少、表現が簡潔になっているものの、前書きの3番目は以下のとおりでした。
3 この表は、固有名詞を対象とするものではない。
現在、文化審議会国語分科会がおこなっている常用漢字表の改定においても、もちろん、この考え方が踏襲されています。したがって、配下の漢字小委員会も、「固有名詞は常用漢字表にそぐわない」という態度を取るのが当然なのです。
人名用漢字の今後
改定中の新しい常用漢字表は、今年の秋に内閣告示が予定されています。その日に合わせて、法務省も戸籍法施行規則を改正し、人名用漢字を変更する予定です。では、その時、「玻」は人名用漢字に追加されるのでしょうか?
実は、「玻」の人名用漢字追加に関しては、法務省には決定権がない、というのが現実だったりします。「玻」が常用平易かどうかは、現在、最高裁判所において係争中(平成21年(ク)第1105号・平成21年(許)第42号)であり、法務省もその結論にしたがうしかないのです。すなわち、最高裁判所が「玻」を常用平易と認めたなら、当然、法務省も人名用漢字に「玻」を追加しなければいけません。逆に、最高裁判所が「玻」を常用平易と認めなかったなら、法務省としては人名用漢字に「玻」を追加するわけにはいかないだろう、ということなのです。
もちろん、人名用漢字を答申するのは法制審議会ですし、実際に人名用漢字の選定をおこなうのは、その配下の人名用漢字部会です。これらが、法務省とは異なる立場を取ることも、あるいは可能かもしれません。しかし、いくら法制審議会といえども、最高裁判所に係争中の事件に関して、それとは別の判断を勝手に示してしまうというのは、まずありえないことだと考えられます。
したがって、「玻」が人名用漢字に追加されるかどうかは、最高裁判所の決定次第ということになります。最高裁判所が「玻」を常用平易と認めるかどうか。今後のゆくえを見守ることにいたしましょう。
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安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(第5回)
2010年 2月 12日 金曜日 筆者: 安岡 孝一第55回 「玻」は常用平易か(第5回)
(第4回からつづく)
国語審議会と人名用漢字
しかしなぜ、常用漢字表は固有名詞を対象としないのでしょう。それを理解するためには、文化審議会国語分科会の前身である国語審議会の歴史を、遡って紐解く必要があります。
人名用漢字は、もともとは国語審議会のナワバリでした。昭和26年5月25日に内閣告示された人名用漢字別表92字も、国語審議会の建議にもとづくものでした。しかし、昭和47年4月5日に開催された衆議院法務委員会において、ナワバリの一角が微妙に崩れはじめました。質問に立った理事の中谷鉄也が、文化庁文化部と法務省民事局に対して、人名用漢字を拡大すべく国語審議会で審議を始めろ、と詰め寄ったのです。これに対し法務省民事局は、国語審議会との調整が必要だが、人名用漢字拡大の要望は多い、と答えました。一方、文化庁文化部は、まもなく開始される当用漢字の見直しの審議において、人名用漢字も見直されることになるだろう、と答えました。
ところが国語審議会は、当用漢字の見直しは始めたものの、人名用漢字に関しては一向に手をつけようとしませんでした。その間にも、昭和48年11月30日に東京家庭裁判所が、「悠」を子供の名づけに認める審判を下します。この時点では、当用漢字にも人名用漢字にも「悠」は含まれていなかったのですが、戸籍法第50条にいう常用平易な文字には「悠」が含まれる、というのが東京家裁の判断でした。法務省は、「悠」を人名用漢字に追加する必要に迫られたのです。しかし、それでも国語審議会は動きませんでした。
業を煮やした法務省は、昭和49年3月13日の民事行政審議会で、戸籍制度における改善事項として人名用漢字の拡大を取り上げ、その審議を開始します。ところが民事行政審議会の答申(昭和50年2月28日)は、人名用漢字については国語審議会における今後の結論を待って対処する、という消極的なものでした。そこで法務省民事局は、昭和50年7月、全国の市区町村に対して、人名用漢字に追加すべき漢字を調査しました。さらに、法務大臣の私的諮問機関として人名用漢字問題懇談会を発足させ、昭和51年5月25日、人名用漢字の追加候補28字を選定しました。この28字には、「悠」や「瑠」が含まれていました。
人名用漢字問題懇談会の追加候補28字に対し、国語審議会は昭和51年7月2日の総会で、国語審議会としての態度をどうすべきか議論しました。しかし、国語審議会の態度は煮え切らないものでした。追加案28字に対して、国語審議会として特に反対はしないが、さりとて積極的に決議をおこなったりするわけでもない、という態度を取ったのです。そこで法務省は、法務大臣と文部大臣の共同請議という形で、7月27日の定例閣議に追加案28字を持ち込みました。そして昭和51年7月30日、この28字は、人名用漢字追加表として内閣告示されました。人名用漢字別表を変更することなく、全く別の表として人名用漢字追加表28字は告示されたのです。
(最終回「常用漢字表と固有名詞」につづく)
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安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(第4回)
2010年 2月 9日 火曜日 筆者: 安岡 孝一第54回 「玻」は常用平易か(第4回)
(第3回からつづく)
常用漢字表への追加提案
「玻南」ちゃんが誕生する3年前の平成17年9月13日、文化審議会国語分科会の配下で、漢字小委員会が発足しました。常用漢字表1945字の見直しをおこなうためです。漢字小委員会は3年にわたる審議ののち、平成21年1月27日の国語分科会に、2131字からなる「新常用漢字表(仮称)」に関する試案を報告しました。2131字の中には、「浄瑠璃」を書くために「瑠」と「璃」が追加されていましたが、「玻」は含まれていませんでした。国語分科会は、この試案に対して広く一般国民からの意見を募るべく、3月16日から4月16日まで意見募集をおこないました。
ここで集まった意見をもとに、漢字小委員会はさらなる審議をおこない、平成21年11月10日の国語分科会に、2136字からなる「改定常用漢字表」に関する試案を報告しました。国語審議会は、新しい試案に対しても同じように、11月25日から12月24日まで意見募集をおこないました。そうしたところ、「玻」を常用漢字に追加してほしい、と提案する意見が、95通も集まったのです。
意見: 瑠や璃が常用漢字表に入るなら、瑠璃と対で用いられることの多い玻璃の「玻」もぜひとも常用漢字表に加えるべきだと思う。
4月の意見募集では「玻」の追加提案は全くなかったのに、12月には95通も送られてきたのです。しかも不思議なことに、「玻」の追加提案95通のうち、90通が愛知県・岐阜県在住者からの提案であり、地域分布がかなり偏っていました。それもそのはず、これらの追加提案の大半は、「玻南」ちゃんの両親とそのシンパが送ったいわば組織票だったのです。常用漢字に「玻」が追加されれば、子供の名づけにも使うことができるはずだ、という非常にあざとい提案だったわけです。
平成22年1月19日、漢字小委員会は、「玻」の常用漢字表への追加を審議しました。漢字小委員会の態度は、しかし、「玻」の追加に対して冷淡なものでした。「固有名詞は常用漢字表にそぐわない」というのが、委員の大勢でした。というのも、新しい試案には、常用漢字表の基本的な性格が5つ挙げられていて、その3番目が以下のとおりだったからです。
3 固有名詞を対象とするものではない。ただし、固有名詞の中でも特に公共性の高い都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字は例外として扱う。
「玻」を追加提案した95通は、大半が、試案のこの部分を読まずに提案されたものだったのです。
(第5回「国語審議会と人名用漢字」につづく)
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人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(第3回)
2010年 2月 5日 金曜日 筆者: 安岡 孝一第53回 「玻」は常用平易か(第3回)
(第2回からつづく)
最高裁への許可抗告
一方、最高裁判所への許可抗告は、過去の最高裁判例に対する違反を理由としてのみ、申立が可能です(民事訴訟法第337条)。ただし、過去の最高裁判例がない場合は、他の高裁判例との矛盾を指摘する、という形でも申立が可能です。そこで、「玻南」ちゃんの両親は、「曽」の最高裁判例(最高裁判所第三小法廷平成15年(許)第37号、平成15年12月25日決定)の解釈において、高裁判例の間で矛盾がある、という点を、許可抗告の申立理由としました。そして、「玻」の高裁決定(名古屋高等裁判所平成21年(ラ)第86号、平成21年10月27日決定)と明らかに矛盾する高裁判例として、「穹」を子供の名づけに認めた高裁決定(大阪高等裁判所平成19年(ラ)第486号、平成20年3月18日決定)を見つけました。
「穹」を認めた高裁決定では、おおむね以下の4つの理由から、「穹」が常用平易な文字だと判断しています。「穹」の画数が8画であり、比較的画数が少ないこと。「穹」が、「穴かんむりに弓」という単純かつ一般的な構成要素からなること。「蒼穹」「天穹」など、比較的使用されることの多い熟語に含まれていること。「穹」が、JIS X 0213の第2水準漢字であること。これら4つの理由から、「穹」はその筆記に格別困難が伴うものでもなく、他者に対する説明や他者による理解も容易であり、さらに、コンピュータによる戸籍事務にも何ら支障をきたすことはないので、「穹」を子供の名づけに使ってよい、と大阪高等裁判所は決定したのです。しかも、この高裁決定を受けて、法務省は平成21年4月30日に戸籍法施行規則を改正し、「穹」を人名用漢字に追加していました。
「玻南」ちゃんの両親は、大阪高裁決定の基準にしたがえば「玻」も常用平易だと判断されるはずだ、と考えました。「玻」の画数は9画で、「王へんに皮」で、「玻璃」という熟語に使われていて、JIS第2水準漢字なのですから。しかも、法制審議会人名用漢字部会の平成16年5月28日会議資料によれば、「穹」は漢字出現頻度数調査の結果が38回で要望法務局数3なのに対し、「玻」は出現頻度51回で要望法務局数4でした。つまり、名古屋高等裁判所で「玻」の即時抗告審が争われている間に、「玻」より頻度も要望も少ない「穹」を、法務省は人名用漢字に追加していたわけです。「穹」が常用平易だと判断されて人名用漢字に追加されたのなら、「玻」が常用平易でないという判断は間違っている、と両親は考え、それをもとに最高裁判所への許可抗告を申し立てたのです。
名古屋高裁の抗告許可
「玻南」ちゃんの両親の許可抗告申立に対し、名古屋高等裁判所は平成21年11月25日、抗告を許可しました。特別抗告は、憲法違反の申立があれば、ほぼ自動的に最高裁判所に送られるのに対して、許可抗告は、決定を下した高等裁判所の許可がなければ、最高裁判所には行けないのです。これで、「玻南ちゃん事件」の特別抗告と許可抗告は、最高裁判所での審理に付されることになりました。そして、現時点では審理が続いています。
(第4回「常用漢字表への追加提案」につづく)
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人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(第2回)
2010年 2月 2日 火曜日 筆者: 安岡 孝一第52回 「玻」は常用平易か(第2回)
(第1回からつづく)
玻南ちゃん事件の即時抗告審
名古屋家庭裁判所の審判に対して、「玻南」ちゃんの両親は、名古屋高等裁判所に即時抗告しました。「玻」は常用平易とは認められない、とする名古屋家庭裁判所の審判は、両親には全く納得のいかないものだったのです。両親は、「玻」を含む児童書や高校教科書を探し出し、ダンボール1箱分の資料を名古屋高等裁判所に提出しました。さらに、複数の携帯電話で「玻」が現れる順序を調べて、人名用漢字のうち旧字にあたる漢字は、そのほとんどが「玻」より変換しにくいことを示しました。「玻」が常用平易であることを、様々な視点から主張したのです。
平成21年10月27日、名古屋高等裁判所は、両親の即時抗告を棄却しました。「玻」を常用平易とは認めなかったのです。常用性を認めなかった理由の一つは、以下のようなものでした。
抗告人らは、「玻」の文字のあらゆる用例を自ら及び周囲の者らの協力によって探し当て、証拠等として提出しているものであり、その努力には並々ならぬものが認められるが、逆に、このような非常な努力なしに「玻」の用例を収集し得ないこと自体が、その常用性の乏しさを示しているともいえる。
この棄却決定に対し、両親は、最高裁判所への特別抗告と許可抗告の両方をおこなうことを決めました。家事審判においては、高等裁判所の決定に不服がある場合、最高裁判所への特別抗告をおこなう方法と、最高裁判所への許可抗告をおこなう方法の2つがあります。「玻南」ちゃんの両親は、その両方をおこなうことにしたのです。
最高裁への特別抗告
実は、高裁決定に不服があるだけでは、最高裁判所への特別抗告はおこなえません。特別抗告は、高裁決定における憲法違反を理由としてのみ、申立が可能なのです(民事訴訟法第336条)。そこで、「玻南」ちゃんの両親は、憲法第14条(法の下の平等)違反および憲法第13条(個人としての尊重)違反を理由として、特別抗告を申し立てました。
これに加え両親は、「児童の権利に関する条約」第7条に対する違反にも言及しています。
| 第7条 1 | 児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。 |
|---|---|
| 2 | 締約国は、特に児童が無国籍となる場合を含めて、国内法及びこの分野における関連する国際文書に基づく自国の義務に従い、1の権利の実現を確保する。 |
すなわち、戸籍法第50条は常用平易を判断する枠組をきっちりと決め切れておらず、それが結果として「出生の時から氏名を有する権利」を阻害している、というのが、両親の主張なのです。
(第3回「最高裁への許可抗告」につづく)
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人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(第1回)
2010年 1月 28日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第51回 「玻」は常用平易か(第1回)
平成22年1月19日、常用漢字表の改定を審議していた文化審議会国語分科会漢字小委員会は、「玻」を新しい常用漢字表に追加するかどうかを議論しました。しかし、複数の委員から「固有名詞は常用漢字表にそぐわない」という意見が出ており、「玻」が常用漢字表に収録される可能性は、かなり低いようです。どうして漢字小委員会では、そのような意見が多数派なのでしょう。その背後に、いったいどういう事件が隠れているのでしょう。
実は、この背後には、現在、最高裁判所で争われている「玻」に関する家事審判があるのです。その家事審判の概要と、背景となる常用漢字と人名用漢字のねじれた関係を、全6回連載で書き記すことにいたします。
玻南ちゃん事件の発端
平成20年11月23日、名古屋市東区のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「玻南」と名づけ、東区役所に出生届を提出しました。ところが、「玻」が常用漢字でも人名用漢字でもなかったため、出生届は受理されず、「玻南」ちゃんは無戸籍となりました。「玻南」ちゃんの両親は、「名未定」で出生届を提出するという方法を知らなかったため、「玻南」ちゃんを無戸籍のままにしてしまったのです。
家庭裁判所への不服申立という方法がある、と聞かされた両親は、平成20年12月10日、名古屋家庭裁判所に不服申立をおこないました。「玻」は、戸籍法第50条でいうところの常用平易な文字なので、「玻南」と名づけた出生届を受理するよう名古屋市東区長に命令してほしい、と申し立てたのです。
この不服申立に対し東区長は、「玻」は常用平易ではない、とする意見書を名古屋家庭裁判所に提出しました。真っ向から争う姿勢を見せたのです。常用平易かどうかの判断は、「曽」を子供の名づけに認めた最高裁判例(最高裁判所第三小法廷平成15年(許)第37号、平成15年12月25日決定)にもとづいておこなわれるべきだ、というのが東区長の主張でした。すなわち、古くから用いられている字で、ひらがなやカタカナの字源となっていて、当該漢字を構成要素とする常用漢字があって、地名などで広く使われている、という4条件が「曽」の判例で示されたのだから、この4条件にしたがって常用平易かどうか判断すべきだ、という主張でした。この主張にしたがえば、「玻」は常用平易ではない、という結論になるわけです。
平成21年1月26日、名古屋家庭裁判所は、不服申立を却下しました。名古屋家庭裁判所は、「玻」を常用平易とは認めなかったのです。認めなかった理由の一つが、ワープロ等で簡単に変換できないことでした。確かに「はな」をカナ漢字変換しても、通常「玻南」は候補に現れません。また、「は」一文字を変換して「玻」が候補に現れるようになるには、かなり手間がかかる、というのです。熟語としての用例も「玻璃」くらいしかなく、とても常用平易とは言いがたい、と判断したのです。
(第2回「玻南ちゃん事件の即時抗告審」につづく)
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人名用漢字の新字旧字:「沢」と「澤」
2010年 1月 14日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第50回 「沢」と「澤」
昭和15年6月25日に開かれた国語審議会懇談会には、大日本帝国陸軍から8人の出席者が招かれていました。この懇談会は、陸軍の兵器名称用制限漢字表について、ぜひ話を聞かせてほしい、と国語審議会側がもちかけて実現したものでした。
大日本帝国陸軍が昭和15年2月29日に通牒した兵器名称用制限漢字表は、兵器の名に使える漢字を1235字に制限したものでした。日中戦争の拡大にともない、陸軍では新兵が次々に入営していたのですが、兵器の名に難しい漢字が使われていると、それらの漢字を兵士が読み書きできないという問題が起こっていました。そこで陸軍では、おおむね尋常小学校4年生までに習う漢字959字を一級漢字とし、これに兵器用の二級漢字276字を加えて、合計1235字を兵器の名に使える漢字として定めたのです。この一級漢字の中に、新字の「沢」が含まれていました。旧字の「澤」では書くのに時間がかかることから、新字の「沢」を兵器の名に使い、旧字の「澤」は使わないこととされたのです。
陸軍における漢字制限の成功に鼓舞された国語審議会は、2年後の昭和17年6月17日、標準漢字表を文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字、の合計2528字を収録していました。この常用漢字の中に、新字の「沢」が含まれていました。「沢」の直後には、カッコ書きで「澤」が添えられていて、「沢(澤)」となっていました。国語審議会も、旧字の「澤」ではなく新字の「沢」を使うべきだ、と答申したのです。しかし、太平洋戦争のまっさなか、標準漢字表は一般社会には浸透しませんでした。
終戦後も国語審議会は、漢字制限に関する審議を続けました。そして、昭和21年11月5日に当用漢字表を答申します。当用漢字表1850字は、手書きのガリ版刷りでしたが、新字の「沢」が収録されていて、直後にカッコ書きで旧字の「澤」が添えられていました。やはり「沢(澤)」となっていたわけです。もちろん当用漢字表でも、新字の「沢」が正式なものでした。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「沢」は当用漢字になりました。
昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、新字の「沢」が収録されていましたので、「沢」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。しかし旧字の「澤」は、あくまで参考として当用漢字表に添えられたものでしたから、子供の名づけに使ってはいけない、ということになりました。それが現在も続いていて、戦中に兵器の名に使えた「沢」は子供の名づけに使ってOKで、兵器の名に使えなかった「澤」は子供の名づけにも使えないのです。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
人名用漢字の新字旧字:「叱」と「𠮟」
2009年 12月 17日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第49回 「叱」と「𠮟」
新字の「叱」(口へんに匕) は、人名用漢字でも常用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「𠮟」(口へんに七)も、人名用漢字でも常用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。つまり、「叱」も「𠮟」も出生届に書くのはダメ。実は、「叱」の音はカ、「𠮟」の音はシツなので、「叱」と「𠮟」は全く異なる別の字なのですが、ここではあえて、「叱」を新字、「𠮟」を旧字と呼ぶことにしましょう。
平成12年12月8日、国語審議会は表外漢字字体表を答申しました。表外漢字字体表は、常用漢字(および当時の人名用漢字)以外の漢字に対して、印刷に用いる字体のよりどころを示したもので、1022字の印刷標準字体が収録されていました。この中に、旧字の「𠮟」が含まれていて、その備考欄には新字の「叱」が書かれていました。印刷物には、基本的には旧字の「𠮟」を用いるべきだが、デザイン差として新字の「叱」を用いてもかまわない、と、国語審議会は文部大臣に答申したのです。これを受けて、経済産業省は平成16年2月20日、漢字コード規格JIS X 0213を改正しました。元々JIS X 0213には、新字の「叱」しか掲載されていなかったのですが、この改正で第3水準漢字に、旧字の「𠮟」を含む10字が追加されました。
平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、1ヶ月前に改正されたばかりのJIS X 0213、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。新字の「叱」は、出生届窓口で不受理となったケースは全くなかったものの、JIS X 0213の第1水準漢字で、出現頻度数調査の結果が794回でしたから、文句なしに人名用漢字の追加候補となりました。一方、旧字の「𠮟」は、JIS X 0213の第3水準漢字で頻度が313回でしたから、本来は追加候補となるはずでした。しかし、新字の「叱」の方が頻度が高かったせいか、旧字の「𠮟」は追加候補には入りませんでした。そして平成16年6月11日、人名用漢字部会は、新字の「叱」を含む578字の追加案を公開しました。
この追加案に関して、「糞」や「叱」などに対する反対意見が、国民から寄せられました。人名用漢字部会は7月23日と8月13日の会議で、これらの反対意見を審議し、結局、追加候補を488字に絞りました。新字の「叱」は、人名用漢字の追加候補から外されてしまったのです。法制審議会は追加候補488字を、そのまま法務大臣への答申(平成16年9月8日)とし、9月27日の戸籍法施行規則改正で、これら488字は全て人名用漢字に追加されました。しかし、新字の「叱」も旧字の「𠮟」も人名用漢字に追加されず、それが現在に至っているのです。
ちなみに、文化審議会国語分科会が先月11月10日に承認した「改定常用漢字表」に関する試案では、旧字の「𠮟」が新たに常用漢字に追加される予定となっています。その時、新字の「叱」はどうなるんでしょうね。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
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2007年









