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ネット座談会 ことばとキャラ 第10回

2016年 8月 15日 月曜日 筆者: 定延 利之

ネット座談会「ことばとキャラ」第10回

【発言者】定延利之

 友定さんのお話をうかがって,改めて文の構造について考えています。

 実はこのところ,共通語についてですが,「構造上の大きな区切れの後の付属要素(コピュラや格助詞)は音調が低い」と言えないか,と考えています。

 コピュラ(「だ」「です」など)について例を挙げると,「わ,人がいっぱいだなぁ」と言う場合は,平板型アクセントの語「いっぱい」に続く「だ」は高く発せられますが,「人がだなぁ,いっぱいだなぁ,入ってだなぁ,……」と言う場合の「だ」は,「いっぱい」に続くコピュラ「だ」も全て,低く発せられます。後者の場合,「いっぱい」と「だ」はあまり強く結びついておらず,両者の間には構造上大きな区切れがあるから,低いのではないかということです。たとえば「そことだね,うちでだね,打ち合わせをだね,……」「いや,社長とだ」「それも,高齢の親を置いて,だ」「スマホを見ながら,だ」「ちゃんと行っただなんて,嘘ばっかり」「あっかんべーだ」「いーだ」の「だ」,さらには「この空欄に埋まる動詞は,『行く』だな」の「だ」,「それでもう,ぐにょーってなっちゃったの」と言われて返す「それは確かに,ぐにょーだね」の「だ」も同様です。

 コピュラは動詞には続かない,と言われ,確かに続きにくいと私も思いますが,その「無理」を押してつながることはあります。具体的には『田舎者』キャラの「行くだ」,『幼児』キャラの「行くでちゅ」,『上流マダム』キャラの「行くざます」,『侍』や『忍者』キャラの「行くでござる」,『平安貴族』キャラの「行くでおじゃる」,『薩摩隼人』キャラの「行くでごわす」などで,これらの「だ」「でちゅ」「ざます」「でござる」「でおじゃる」「でごわす」は皆低く発せられます。これも,「無理」を押してつながることが,大きな区切れを踏み越えてつながるということではないかと今考えています。

 格助詞にも似たことが見られます。動詞に格助詞は続かないと言われることがありますが,この大きな区切れを越えて結びつく格助詞は低く発せられます。「行くがよい」「当たるを幸い」「行くに越したことは無い」「言うに事欠いて」,さらに「この国語辞典の第3巻は「乗る」から「巻く」までだ」などと言う時の格助詞「が」「を」「に」「から」「まで」は低く発せられます。

 そこで,「行くぴょーん」「行くぷぅ」「行くきょ」などのキャラ助詞「ぴょーん」「ぷぅ」「きょ」ですが,「行く」との間の区切れはやはり大きそうなのに,コピュラや格助詞の場合と違って,これらの音調は低くはなくて,単独で発せられた場合と同じ音調ですよね。「兵庫県南部」の「南部」みたいな自立語なのかなぁ,そうすると「助詞」ではないから「キャラ助詞」は改名しないといけないのかなぁ,なんて考えています。

 「おしんこ,ねーすかわ」の「わ」など,方言の文末に現れる,1人称代名詞由来のことばは,音調はどうなんでしょうか。

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【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店,2000),『ささやく恋人,りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店,2005),『日本語不思議図鑑』(大修館書店,2006),『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書,2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂,2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

新企画「ことばとキャラ」は,金田純平さん(国立民族学博物館),金水敏さん(大阪大学),宿利由希子さん(神戸大学院生),定延利之さん(神戸大学),瀬沼文彰さん(西武文理大学),友定賢治さん(県立広島大学),西田隆政さん(甲南女子大学),アンドレイ・ベケシュ(Andrej Bekeš)さん(リュブリャナ大学)の8人によるネット座談会。それぞれの「ことばとキャラ」研究の立場から,ざっくばらんにご発言いただきます。

ネット座談会 ことばとキャラ 第9回

2016年 8月 12日 金曜日 筆者: 定延 利之

ネット座談会「ことばとキャラ」第9回

【発言者】定延利之

 瀬沼さんのお話をうかがって,「若者たちが口にする「キャラ」」について,改めて考えてみる必要があると思うようになりました。

 いま日本にはさまざまな分野で,さまざまな論者たちが,さまざまな「キャラ」論を展開していますが,それらは大きく三つに分けることができると私は考えています。

 第1の「キャラ」は,英語の“character”に訳せるような「登場人物」の意味の「キャラ」です。第2の「キャラ」はマンガ論の中で伊藤剛氏が提出した「キャラ」で,これを第1の「キャラ」とはっきり区別するために伊藤氏は“Kyara”という綴りを当てはめています。そして第3の「キャラ」は,日本のことばやコミュニケーションを分析するために私が使っている用語です。第2の「キャラ」つまり伊藤氏のKyaraは,分野を超えてさまざまな論者にインパクトを与えてきましたが,このKyaraを拡大適用して日本語社会を分析しようとする試みは,(その試みの意義自体は別として)どうにも無理があるのではないかということを私は述べてきました(補遺第84回第87回)。これは,日本のことばやコミュニケーションを分析するには,第1・第2の「キャラ」とは別の概念が必要だということです。この認識のもと,私は日本語話者たち,特に若者たちが日常生活の中で口にする「キャラ」に目を付け,専らこれを意味する専門用語として自身の「キャラ」を定義しました。匿名性の高い電子掲示板・2ちゃんねるに,「オレは実は学校とバイト先でキャラが違うんだ」と書き込んだり,「この人たちと一緒にいると,私はいつのまにか姉御キャラになってしまって,若い男の子たちが寄ってこない。悲しい」とブログでぼやいたりするような「キャラ」,これが第3の「キャラ」です。私はこれを「本当は変えられるが,変わらない,変えられないことになっているもの。それが変わっていることが露見すると,見られた方だけでなく見た方も,それが何事であるかわかるものの,気まずいもの」と定義しています。

 第3の「キャラ」の最大の特徴は,これが研究者によって作り出されたものではないということです。これを作ったのは日本語社会に暮らす人々,特に若者であり,私はただそれを専門用語として採用しただけ,と考えていたのですが,しかしながら瀬沼さんのお話をうかがうと,若者たちが語る「キャラ」には広がりがあり,私が定義したのはその一部ということになりそうです。

 瀬沼さんのお話をうかがって私が感じるのは,若者たちの語る「キャラ」には,「主人役」「笑いを誘う道化役」「わざと議論を挑む敵役」のような,山崎正和『社交する人間 ホモ・ソシアビリス』の「役割」(本編第36回)と近いものがあるということです。これは,若者の語る「キャラ」は,「キャラ」という名称はともかく実質だけを考えれば,昔から意識されてきたものとあまり違わない場合もあるということでもあります。私は若者の「キャラ」のうち,新しい部分にかぎって目を向けているけれども,瀬沼さんはとにかく全般をおさえようとされている,そんなことを感じますがどうでしょうか。

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【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店,2000),『ささやく恋人,りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店,2005),『日本語不思議図鑑』(大修館書店,2006),『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書,2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂,2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

新企画「ことばとキャラ」は,金田純平さん(国立民族学博物館),金水敏さん(大阪大学),宿利由希子さん(神戸大学院生),定延利之さん(神戸大学),瀬沼文彰さん(西武文理大学),友定賢治さん(県立広島大学),西田隆政さん(甲南女子大学),アンドレイ・ベケシュ(Andrej Bekeš)さん(リュブリャナ大学)の8人によるネット座談会。それぞれの「ことばとキャラ」研究の立場から,ざっくばらんにご発言いただきます。

ネット座談会 ことばとキャラ 第8回

2016年 8月 10日 水曜日 筆者: 定延 利之

ネット座談会「ことばとキャラ」第8回

【発言者】定延利之

 宿利さんが問題にされていることは,宿利さん一人にかぎった話ではなく,人間社会に広く見られることだと思います。「A子ちゃん」に対する宿利さんの違和感が,宿利さんの思い過ごしによるものであろうとどうであろうと,人間は他人を「偽者だ」と見てしまうことがあるということです。というのは,宿利さんのような「身を削った」告白はさすがにあまりないかもしれませんが,同様の「偽者認定」の例は,身近な文学作品にもよく見つかるからです。

 たとえば,宮尾登美子の『寒椿』では,娼館の新経営者としてやって来た「若い男」が,娼妓たちの前で「小柄な躰を聳(そび)やかして威厳を作った」のですが,娼妓たちの尊敬を勝ち得ず,まもなく消えてゆきます(本編第13回)。ソビヤカシを見せられた娼妓たちの頭には,「偽者」の二文字が浮かんでいたのではないでしょうか。

 またたとえば,山本周五郎の『おたは嫌いだ』には,奪われた恋人を返せと「若旦那がきいきい声で叫んだ」というくだりがあります。恋人の奪還に挑む勇猛果敢なイメージが「きいきい声」の部分でしぼんでしまうとしたら,これも「偽者」らしさの現れでしょう(補遺第35回)。

 いま取り上げた事例では,「若い」「小柄」「きいきい声」といった「偽者認定」の手がかりがあったわけですが,そのような手がかりが描かれない場合もあります。

 谷崎潤一郎の『細雪』(中巻)では,奥畑という,ゆっくりしゃべる大家の若旦那が,たしかに事実として大家の若旦那,つまり坊ちゃんではあるけれども,坊ちゃん特有の余裕ある様子を醸し出そうとして,わざとゆっくりしゃべっているのだと,幸子に決めつけられ,嫌われています(本編第3回)。また,かつて仕えた主人の家が洪水だと,大阪から芦屋に一番に見舞いに駆けつけ,主人の無事に安堵して涙ぐむ,忠義者を絵に描いたような庄吉の姿は,幸子には,芝居好きが忠義者ぶって自己陶酔しているものとして冷たく切り捨てられています(本編第18回)。これら二人の男性を幸子がどのような手がかりで「偽者」と認定したのかは,描かれていません。

 手がかりがないとされつつ,「偽者」と疑われる場合もあります。志賀直哉の『暗夜行路』では,「善良そのもの,正直そのもの,低能そのもの」の植木屋が,出されたお茶を押し頂いて飲む様子を見て,謙作は「然(しか)し見た通りが本統だろうか?」と,「眼(め)に見えない一種の不自然さ」を感じます(本編第38回)。

 以上のような,時には「なんとなく」としか言いようのない,「偽者認定」がしばしばなされること,それは事実であって,直視しなければならないと思います。

 宿利さんの言うとおり,ポライトネスというのは「人間関係がこのようになってしまわず,こうなるように,これこれこのように配慮する」という,意図のレベルの話ですよね。たとえば娼妓たちが新経営者について「いくら体をソビヤカシだって,こいつって偽者じゃん」と感じるような,新経営者の意図的な振る舞いを越えたところにある「人物論」は,ポライトネスではどうしようもないと思います。どうしようもないといっても,ポライトネス論をおとしめるわけではなくて,ポライトネス論をポライトネス論として正しく理解しようとすると,「何でもポライトネス」というわけにはいかない,ということですが。

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【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店,2000),『ささやく恋人,りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店,2005),『日本語不思議図鑑』(大修館書店,2006),『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書,2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂,2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

新企画「ことばとキャラ」は,金田純平さん(国立民族学博物館),金水敏さん(大阪大学),宿利由希子さん(神戸大学院生),定延利之さん(神戸大学),瀬沼文彰さん(西武文理大学),友定賢治さん(県立広島大学),西田隆政さん(甲南女子大学),アンドレイ・ベケシュ(Andrej Bekeš)さん(リュブリャナ大学)の8人によるネット座談会。それぞれの「ことばとキャラ」研究の立場から,ざっくばらんにご発言いただきます。

ネット座談会 ことばとキャラ 第3回

2016年 7月 19日 火曜日 筆者: 定延 利之

ネット座談会「ことばとキャラ」第3回

【発言者】定延利之

 瀬沼さん,さっそくありがとうございます。いただいたお返事はよく考えてみたいと思います。今回は私の方はコミュニケーションというより文法の方面に目を向けてみます。

 私がキャラということを考え始めてようやく目に入ってきたのは,金水さんが「キャラ語尾」と仰っているものの中に,終助詞の後に現れるものがあるということです。たとえば次の(1)(2)(3)の「ぴょーん」「ぷぅ」「にょろ」がそれに当たります。(いずれも最終確認日は2016年7月1日。以下も同様。)

(1) 吊られたら怖いLWは今すぐ出るんだよぴょーん

[http://ruru-jinro.net/log4/log352865.html]

(2) おにぃ頑張ってねぷぅ!

[http://summ0ners.com/archives/39539483.html]

(3) 「オマエ,何者にょろ? 曲者だなにょろ!」
勝手に肩に乗っては首に巻きつく蛇もどきに,フウと大きく溜め息をついた。
「何で黙っているんだにょろ? 言いたい事は何かないのかにょろ?」

[https://sp.estar.jp/series/18832/episode/226947]

終助詞というのは文の終わりに現れる,文字どおり「終」助詞だったはずなのですが,(1)の「ぴょーん」は終助詞「よ」の後に現れています。同じく(2)の「ぷぅ」は終助詞「ね」の後に現れており,(3)の「にょろ」は終助詞「な」や「か」の後に現れています。(3)には「にょろ」が4回現れていますが,最初の「何者にょろ」の「にょろ」はコピュラ(「何者だ」の「だ」など)に近い意味にもなっているようです。この点は金田さんの論文がありましたね。

 アラテの終助詞か,とも考えてみたのですが,結局その考えは断念しました。ふつう終助詞と言えば話し手の態度を表す,ごく限られたことばであるのに対して,上の「ぴょーん」「ぷぅ」「にょろ」は多かれ少なかれ,話し手の(遊びの場でのかりそめのものとはいえ)アイデンティティというか,キャラを表していそうで,それに,いろいろ作れるからです。こんなのないだろうと思いつつ検索すると意外に出てきます。次の(4)は「みょん」の例です。

(4) 「いい加減にするみょん!
このカタナで首切られても良いのかみょん!?」

[http://www.kakiko.cc/novel/novel7/index.cgi?mode=view&no=30145]

 それで,文法研究の中でいままで想定されていなかったことばかもしれないと思うようになり,私はこういうものをとりあえず「キャラ助詞」と呼んでいます。次の(5)の「きょ」のように,キャラ助詞は終助詞と共起せずに単独で現れることもあります。

(5) きょっちゃんは 足がちょっと曲がっているきゃら リハビリしてるんだきょ。

[http://blog.goo.ne.jp/mm_family]

 もちろん,キャラ助詞は「所詮,ネットの中のふざけたことば」として片付けてしまうこともできるでしょう。それでいいのかもしれません。が,現代言語学が「偏見を捨てて事実を直視する」というところから始まっているのだとすれば,「ネットの中のふざけたことば」つまりキャラ助詞が,なぜ文の末端(終助詞があればその後ろ)を狙って繰り出されてくるのか,考えてみてもいいだろうと私は思っています。終助詞の後ろに別のことばが現れ得るということを受け入れられる文法理論は,私の知るかぎり無いようなので,なおさらそう思っています。

 キャラ助詞と似たものが方言に見られるということについては,私も少し触れているのですが(本編第20回),門外漢なだけに,はっきりしたことは何も言えずにいます。友定さん,お助けいただけますでしょうか。

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【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店,2000),『ささやく恋人,りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店,2005),『日本語不思議図鑑』(大修館書店,2006),『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書,2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂,2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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新企画「ことばとキャラ」は,金田純平さん(国立民族学博物館),金水敏さん(大阪大学),宿利由希子さん(神戸大学院生),定延利之さん(神戸大学),瀬沼文彰さん(西武文理大学),友定賢治さん(県立広島大学),西田隆政さん(甲南女子大学),アンドレイ・ベケシュ(Andrej Bekeš)さん(リュブリャナ大学)の8人によるネット座談会。それぞれの「ことばとキャラ」研究の立場から,ざっくばらんにご発言いただきます。

ネット座談会 ことばとキャラ 第1回

2016年 7月 8日 金曜日 筆者: 定延 利之

ネット座談会「ことばとキャラ」第1回

 このたび三省堂さんのご厚意により,ことばとキャラについて毎週金曜日に,この場で座談会を開かせていただけることになりましたこと,これまでこちらで連載させていただいていた私からご案内申し上げます。「ことば」にせよ「キャラ」にせよ,立場によって意味内容は様々ですが,そのあたりも含めてお話しできたらと思っています。

 私と一緒に座談会にご参加くださるのは,次の方々です。(五十音順)

  金田純平さん(国立民族学博物館)
  金水敏さん(大阪大学)
  宿利由希子さん(神戸大学院生)
  瀬沼文彰さん(西武文理大学)
  友定賢治さん(県立広島大学)
  西田隆政さん(甲南女子大学)
  アンドレイ・ベケシュ(Andrej Bekeš)さん(リュブリャナ大学)

 皆さま,どうぞよろしくお願いいたします。

 さっそくですが,私が最近ちょっと気になっていることを書いて口火を切っておきます。

 私たちの日常的なコミュニケーションにおけるキャラが論じられることは,いまではもう珍しくありませんが,その中で私がよく見かけるのが「若者コミュニケーションにおける」という限定です。要は,若者は人から或る特徴づけをされると,その特徴が消えないように自分で保持しようとする,ということのようなんですが,これはそんなに「若者は」,と限定しないといけないことなんでしょうか?

 芸能人なら昔から「シメた! これで客に覚えてもらえる」てな具合だったでしょうし,また,私が連載「日本語社会 のぞきキャラくり」で取り上げた(本編第13回),井伏鱒二の小説「掛持ち」(1940)でも,周囲から『気のきいた粋な番頭さん』と勝手に思われた出稼ぎの番頭が,それなりに手間暇かけて身なりを整えるという話が出てきます。私なんか,「いまの若者は,人から与えられた特徴づけを自分で守ろうとしている」と言われても,「ああ,いまもやっとるなぁ。若者がんばれよ」と思ってしまうのですが,これは私がどんな風にドンカンなんでしょうか?

 「若者のコミュニケーション」論に関して,私がもう一つわからないのは,「キャラかぶり」です。「集団内で各メンバーが特徴づけられる,つまりキャラづけされる時,キャラかぶりは注意深く避けられるのだ」という話が多いようなのですが,その中で,瀬沼さんの『キャラ論』(STUDIO CELLO,2007)やそれを改訂された『なぜ若い世代は「キャラ」化するのか』(春日出版,2009)には,「おそらくそういうことなんだろう。アンケート調査の結果自体は必ずしもそうではないけれど」という,ちょっと慎重な姿勢を感じました。そこでは「グループがボケキャラばっかりだから,自分でツッコミキャラになった」という或る高校生の発言も紹介されていて,瀬沼さんはこの高校生がグループの「穴」を埋めたことに注目されているのですが,「ボケキャラばっかり」つまり『ボケ』キャラが並び立っているという部分は,キャラかぶりが必ずしも忌避されないことを示しているようにも思えます。そもそも,これまで言われている「キャラかぶり」の「キャラ」って,具体的にどんなものなんでしょうか?

 なんだか後半から瀬沼さん目当て,という感じになってしまいましたが,瀬沼さんいかがでしょう?

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『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店,2000),『ささやく恋人,りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店,2005),『日本語不思議図鑑』(大修館書店,2006),『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書,2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂,2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第101回 帰属について

2015年 12月 20日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第101回 帰属について

 ここで「帰属」と言うのは社会心理学の用語で,簡単に言ってしまえば事態を「何かのせいにする」ということである。何かのせいにするということは,因果を認めるということである。

 因果は予め与えられているようなものではない。この災害は天災か,それとも人災か。原因を天候の不良に求めるか,それを見逃した人間に求めるか,あるいは天候不良をカバーする技量を持たなかった人間に求めるかは,人間が判断しなければならない。桶屋の繁盛を単に桶の需要増の結果として満足するか,「風が吹けば桶屋が儲かる」の諺よろしく,風にまで原因を追い求めていくかも,同様である。

 因果をどう認めるかという問題は,デキゴトの輪郭をどう認めるか,どこからどこまでを一つのデキゴトとして認めるかという問題でもある。そしてそこには人間の心理が関わる。たとえば,或る人物の一連の行動(デキゴト)をビデオに収め,そのビデオを被験者に呈示して,そのビデオに映し出された行動を口頭で報告するよう求めた場合,その人物が被験者にとって上位者と設定されている場合は,下位者と設定されている場合よりも,報告の節の数が多いという実験がある(Darren Newtson 1976“Foundations of attribution”)。つまり同じ行動でも,下位者の行動として観察されれば「1つの行動」と粗くまとめられるものが,上位者の行動として観察されれば細かく分割され,「たくさんの行動の連鎖」になりやすい。

 英語なら“This experience taught John how to behave.”と1つの節で表すデキゴトが,日本語では「この経験はジョンに作法を教えた」と言っても何のことやらわからない。日本語では「こういうことがあって」「ジョンは作法が身についた」と2つの節で,2つの小さなデキゴトの因果として表すとよくわかる。よく「英語はどうこうスルの言語。日本語はどうこうナルの言語」と言われるが(寺村秀夫1976「『ナル』表現と『スル』表現」・池上嘉彦1981『「する」と「なる」の言語学』),こういう言語差は,帰属の言語差でもある。

 帰属にはまた別の面もある。或るデキゴトを「戦時下だったから」「何しろ突然のことで」のように状況に帰因させるか,それとも人物に帰因させるか。たとえば悪事に関わった或る人間については「不幸な境遇のあまり」と考える一方で,同じ悪事に関わった別の人間については「外国人がまたやった」と考えるとしたら,そこには我々の偏見が隠されていまいか,というのはこういう帰属の問題である。

 そして,帰属のこうした面に,新しく登場したのが「キャラ(クタ)」だと考えることもできるだろう。或るデキゴトを状況に帰因させず,人間に帰因させる場合,これまでは「〇〇人だから」「上流階級の人間だから」のような社会的な解答,「女だから」「幼いから」のような生物的な解答の他には,「こういう人格だから」「こういうスタイルをとっているから」という答え方しかなかった。そこに「こういうキャラ(クタ)だから」という新しい答え方が付け加わったということである。

 本編の最終回である第100回で,私は「帰属」について次のように述べた。

(1) ここで定義された「キャラ(クタ)」は,「スタイル」「人格」と併せて,本来的には「帰属(attribution)」という社会心理学的な観点からまとめ直せると私は考えている。だが,そのような試みに乗り出す余裕は少なくとも今の私にはない。

本編でまったく述べられなかった帰属について,きちんと述べるだけの余裕は相変わらずないが,今回これをごく僅かながら述べたのは,「キャラ(クタ)」研究の今後を私なりに思ってのことである。

 おまえの「キャラ(クタ)」研究は結局何の研究なのかと訊ねてくるような,物わかりの悪い,しかしエライ大先生は,「人物像の研究です」「人間の同一性の研究です」などと答えてもおそらくわかってはくださらないだろう。それで若い研究世代がメゲてしまって,キャラ(クタ)の研究を諦めてしまわないよう,一つの答え方を示しておきたいと思うのだ。大先生に「つまるところ,キミの「キャラ(クタ)」研究は,一体何の研究なのかね」と問われたら,たとえば「そうですね,帰属の研究と言うこともできると思います」と答え,大先生がなお不審げなら「帰属とは社会心理学の,Fritz Heiderのですね……」なんて,ケムに巻いてしまうのはどうかということである。

 一般の読者の皆さんには関係のない研究の話が,ついに前面に出てきてしまった。ここらがいい引き上げ時だろう。三省堂の荻野真友子様,木宮志野様,山本康一様,長い間ありがとうございました。市原佳子様,短い間でしたがありがとうございました。皆さん,ありがとうございました。良いお年をお迎えください。

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◇この連載の正編は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」目次へ

◇この連載正編の中国語版と英語版
  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり―顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてから一年後のこと、編集部たっての希望がかない、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
このたび続編としての補遺の連載は終了となります。しばらくおきまして、新企画をと検討しておりますので、どうぞご期待くださいませ。

日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第100回 弥勒について

2015年 12月 6日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第100回 弥勒について

 紙媒体であれ電子媒体であれ、源義経や織田信長といった歴史上の人物が、少女マンガから抜け出たような美男子に描かれるということは、今では珍しくない。こうした「改ざん」はどのようにして生じるものなのかと、私は想像をたくましくしてしまう。どこかの画伯が「いかん、この顔のままでは萌えん!」と、敢えて史実に目をつぶり、確信犯的に腕をふるわれたものなのか。あるいは今風のイラストレータが「資料とかわかんねーし、こんな感じでイーンジャネ」的に、テキトーにでっち上げたものなのか。いずれにせよ、そこには「こういう言動をなした人物は、こういう風であってほしい~こういう風に違いない」という、我々の倫理観や美意識を組み込んだ人物イメージが反映されていると言えるだろう。

 話は変わるが、弥勒(みろく)とは、釈迦(現在の仏陀)が入滅した56億7千万年後の世に現れ、釈迦の次の仏陀になることが約束されている菩薩であるという。日本の広隆寺にある、ほっそりした気品のある弥勒像を見ると、そんなに待たなくても、今すぐ仏陀になっていただいてもいいのではないかと思えてしまうが、中国ではこうした弥勒像は見当たらない。中国にある弥勒像は、でっぷりと肥えたおっさんが膝を崩してニタラーと半裸で笑っている像ばかりである。弥勒の驚くべきキャラ変わりである。

 もちろん、これにはちゃんとした説明があるのである。つまり、日本では七福神の一人として知られる布袋(ほてい)が中国では弥勒の化身とされており、でっぷり太ったおっさんの像は、この化身の姿が弥勒として描かれたものらしいのである。

 だが、そういう説明は果たして十全な説明になっているのかと、私などは思ってしまう。日中の弥勒像がそれぞれ現在の形に至った歴史的な経緯は、何によるものなのか。「布袋=弥勒の化身」という中国の図式は日本の仏教界でも知られていないはずはないのに、そうした弥勒像が日本でちぃとも広まらなかったのはどういうわけだろうか。日本の弥勒像の、あのほっそりとした顔かたちは、どこの仏師がどのように、布袋様から確信犯的に目を背けて、あるいは単にテキトーに彫り上げられたものなのか。そこには「こういう尊いお方は、こういう風にであってほしい~こういう風に違いない」という我々の人物イメージが反映されていないだろうか。

 という風に、まったくの門外漢のくせに、キャラを切り口に、ついには宗教の世界にまで口を出し、仏像のありようを、最近の戦国武将ゲームなどのイラストと一緒くたに扱うという、バチ当たりなことをしているのである。それで仏罰テキメンというやつで、本編にそろえて補遺も連載100回目で終わろうと思っていたのが、終われなくなってしまっているのである。

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【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり―顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてから一年後のこと、編集部たっての希望がかない、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
隔週日曜日の公開です。まもなく結びに向かいます。

日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第99回 「役割語」について

2015年 11月 22日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第99回 「役割語」について

 用語「キャラ(クタ)」のさまざまな意味合いを整理してきたが,実は「役割語」についても,同様の整理作業が必要になりつつある。

 今さらではあるが,おさらいをしておくと,もともと「役割語」とは金水敏氏によって作り出された用語で,次の(1)のように定義されていた。

(1) ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢,性別,職業,階層,時代,容姿・風貌,性格等)を思い浮かべることができるとき,あるいはある特定の人物像を提示されると,その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき,その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。

[金水敏2003『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店, p.205]

この人物像は像つまりイメージであって,実際の人物ではない。金水(2003)のタイトルにある「ヴァーチャル」とは,ただこのことを指したものである。現代日本語(共通語)社会の住人でない「異人たち」(本編第76回第77回)を指したものではないということ,たとえば「チキュウジンニ告グ」のように抑揚のない平坦口調でしゃべる宇宙人や,「拙者~でござる」などとしゃべる侍を指して「ヴァーチャル」と言われたものではないということ,ご本人に確認済みである。

 そして,実際の人物は状況に応じて,実はしばしば,(ひそかに)人物像が変わっている。だからこそ私は,役割語を発する話し手像を「発話キャラクタ」として,キャラクタの観点から追求してきたのだった。

 だが,最近の金水氏のご講演(たとえば「キャラクター言語から役割語へ」2015年2月17日,於大阪大学)では,金水氏は「役割語」の定義を変更され,これまで「役割語」であったものの一部を,「役割語」ではなく西田隆政氏の「属性表現」(人物の全体像ではなく部分的な側面の表現。西田隆政2010「「ボク少女」の言語表現:常用性のある「属性表現」と役割語との接点」『甲南女子大学 研究紀要』第48号,文学・文化編,pp. 13-22)とされている。

 さあ,どうしよう? これまで「役割語」と呼んできたものを,今後は私も「役割語+属性表現」と呼び改めようか?

 うーん,まだお話を聞いただけの段階だし,結論を出すのは難しいなあ。「役割語(旧定義による)」と表記しても,読者は「へぇ,役割語には旧定義と新定義があるんだ。で,定延は新定義が気に入らないの? どこが? なぜ?」と疑問を抱くだろうし,結局あまりわかりやすくはならないだろうなあ。

 いっそ,「役割語」をやめてしまって,「キャラクタ発話」あるいは「キャラ発話」としようかなあ。

 ということで,「キャラ(クタ)」だけでなく,「役割語」についても,えらいこっちゃなのである。

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神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第98回 3種の「キャラ(クタ)」について

2015年 11月 8日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第98回 3種の「キャラ(クタ)」について

 ということで,ここしばらく,「キャラクタ」もしくは「キャラ」をめぐるさまざまな言説を概観してきたわけだが(補遺第78回以降),まとめてみると,これまでに少なくとも3種の異なる「キャラ(クタ)」があったということになる。

 第1種は英語”character”そのままの「登場人物」という意味の「キャラ(クタ)」である。ここでは,キャラ(クタ)が登場するはずの「物語」を作り手が用意しているか否かは問わないものとした(補遺第78回第80回)。ハローキティやポケモンのような商品化されたキャラ(クタ)や,いわゆる地方起こしのゆるキャラもこれに含まれる(補遺第94回第97回)。

 第2種は伊藤剛氏によるマンガ論での「キャラ」(Kyara)であり(補遺第81回第83回),これはマンガ世界内の人物のアイデンティティに関わる意味を持っている。この「キャラ」は多方面にわたって共感者・追随者を生み出したが,伊藤氏の「キャラ」観を真に厳密に継承した論考は意外に多くない(補遺第84回第87回)。(但し,伊藤氏自身が認められる,岩下朋世『少女マンガの表現機構:ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』(NTT出版,2013)のようなものは存在する。)

 そして第3種は私がずっと述べてきたもので,これは現実世界内の人物のアイデンティティに関わる意味,ひとことで言えば,状況に応じて変わる自己という意味を持っている。この「キャラ(クタ)」の大きな特徴は,(1)伝統的な人間観からすればタブー視される考え「人間は状況に応じて変わり得る」に基づいていること,そして,(2)研究者(私)の創作によるものではなく,日本語話者たちが日々の生活の中で,カミングアウトにより作り上げたものだということである。私はこれをそのまま専門用語として採用したに過ぎない(補遺第88回第93回)。

 但し,これまでに現れた「キャラ(クタ)」という概念が以上3種に限られるというわけではない。たとえば岡本裕一朗氏は「アイデンティティの確立よりも「キャラ」の使い分けが大事な時代なのではないか」という発言をされるにあたって(岡本裕一朗『12歳からの現代思想』筑摩書房,2010),「キャラ」を「フィクションとして演じられる役柄」とされている。瀬沼文彰氏の「キャラ」も(補遺第92回),これと近いように私には思われる。こういうものを「キャラ(クタ)」の第4種とすることも可能かもしれない。

 しかしながら,そうした「演じられる」そして「使い分けられる」意図的な概念を「キャラ」の1種として認め,必ずしも意図的ではない第3種と並置すれば,「キャラ(クタ)」をめぐる言説はますます錯綜してくるだろう。それに何より,岡本氏や瀬沼氏の「キャラ」論は,その「キャラ」を「第3種のもの。但し,特に意図的な場合」として読んでも,理解に支障をきたすようには思えない。そこでこれらは独立種とはせず,第3種の下位類と位置づけておく。詳しくは11月15日(日)の日本語文法学会大会パネルセッション「日本語とキャラ」で話したい(http://www.nihongo-bunpo.org/conference/conference/#2ndam)。

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第97回 「ゆるキャラ」について(終)

2015年 10月 25日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第97回 「ゆるキャラ」について(終)

 「ゆるキャラ」について最後に述べておきたいのは,商標登録されていない語「ゆるキャラ」の存在である。

 犬山(2012: 16)によれば,「ゆるキャラ」という語は2004年11月26日に,みうらじゅん氏と扶桑社の連名で商標登録されたという。このことが意味するのは,「ゆるキャラ」という語を商売に利用する場合は,しかるべき商標管理会社に申請し,語の使用料を払わねばならないということである。(但しみうら氏の意向により,地域振興を目的とする場合は使用料は免除されるという。)

 「ゆるキャラ」を語るに際して,私が真っ先にみうら氏の定義を挙げ,これを尊重しようとするのは,この商標登録のせいではない。それは,みうら氏が,この語(そして世の中の新しい楽しみ方)を作られ広められたからである。前回も述べたように,地方ゆえのゆるさは蔑まれ疎んじられるのが普通であり,それを「ゆるキャラ」として楽しむという道は,みうら氏によって切り開かれたと言える。私はみうら流の定義を尊重し,「ゆるキャラ」という語に「地方ゆえのゆるさを持ったキャラクタ(人物)」という意味があることを積極的に認めたい。

 だが,こうした尊重は絶対的なものではない。なぜならば,語は創造者1人だけのものではないからである。ちょうど「古い新聞」から「古新聞」を作り,「長いズボン」から「長ズボン」を作ったのと同じように「ゆるいキャラ」から「ゆるキャラ」を作る,という無数の日本語母語話者たちの自然な語形成を押しとどめることは誰にもできない。この語「ゆるキャラ」は商標登録されておらず,誰でも自由に発することができる。みうら氏自身,犬山秋彦・杉元政光によるインタビューの中で,この意味の「ゆるキャラ」という語を次の(1)のように発している。

(1) 「将来,ゆるキャラになりたいなあ」なんて誰も思わんでしょ。でも,「しょうがないなあ,こいつは」っていうとこにホッとすんだよね。

[みうらじゅん特別インタビュー,犬山秋彦・杉元政光『ゆるキャラ論:ゆるくない「ゆるキャラ」の実態』p. 392,ボイジャー,2012]

ここでみうら氏が発している「ゆるキャラ」は,地方性とは無縁であり(そう考えなければ「将来,ゆるキャラになる」という語句は意味不明になってしまう),「ゆるいキャラクタ」の意味と考えられる。

 90年代後半に一世を風靡したキャラクタ「たれぱんだ」を「ゆるキャラ」と呼ぶことを,犬山氏は「明らかな誤用」「間違い」と断じられている(犬山秋彦・杉元政光『ゆるキャラ論:ゆるくない「ゆるキャラ」の実態』, pp.11-12, ボイジャー, 2012)。この判断は,みうら氏の定義(地方ゆえのゆるさを持ったキャラクタ(人物))にしたがうなら,「たれぱんだ」には地方性がないので正しいということになる。だが,「ゆるいキャラクタ」を表す一般の合成語と考えるなら,結果はまた違ってくるだろう。

 もちろん,語「ゆるキャラ」が商売に利用される際には,みうら氏の定義だけが通用するということになるのだろう。だが,一般の言論においては,語「ゆるキャラ」には以上に記した2つの意味を認めるべきではないだろうか。

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神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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