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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第8回 「ツンバブ」について

2012年 5月 13日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第8回 「ツンバブ」について

 高評価の状態と関わらないという点で「ツンデレ」と似ているのは、「ツンバブ」とでも言えばいいのか、2人きりになると『幼児』になってバブバブ甘えてくるタイプである。たとえば次の(1)の男たちは、『普通の大人』と『幼児』の間を行ったり来たりしている「ツンバブ」である。

(1)  私を含め私の友人達は,ほぼ彼女または奥様に赤ちゃん言葉を使った経験があります。想像するのもおぞましいですが。。。(中略)ちなみに私も友人達も,女性に「赤ちゃん言葉,使う?」と聞かれたら「使うわけねーじゃん!ばっかじゃねーの」と答えます。笑

[http://q.sugoren.com/13494、最終確認日: 2012年4月22日.]

 つまり『普通の大人』(ツン)としては、「自分は『幼児』(バブ)になることがある」と認めてみせることなど、到底できないというわけだ。だからこそ男たちは、そんなことが気取られぬよう、『普通の大人』(ツン)時には、『幼児』(バブ)らしさは微塵も感じさせない。顔を赤らめつっかえてしまうような「ツンデレ」とは、ここは大きく異なるところである。

 しかしながら、愛しい人の前で『幼児』(バブ)になれば、「あー、おちごと、たいへんだったでちゅ。『ふちゅーのおとな』は、ちゅかれるでちゅ」などと「自分は『普通の大人』(ツン)になることがある」と認めることは何でもない。

 このことからすれば、自身の全て(つまり『普通の大人』(ツン)と『幼児(バブ)』の両方)を受け入れられる『幼児』(バブ)こそ男たちの正体であって、『幼児』(バブ)がソトではよそゆきの『普通の大人』(ツン)を演じ、ごく親しい人の前でだけ正体の『幼児』(バブ)をさらけ出しているのだという、前回述べた「舞台裏」にも似た構図が浮かび上がってくる。

 いやいや、もちろんこれは愛し合う2人の間での、ちょっとした「幼児プレイ」、つまり『幼児』(バブ)ごっこに過ぎないのだ。興醒めを承知で言えば、「『幼児』(バブ)が状況に応じて『普通の大人』(ツン)を演じたり『幼児』(バブ)に戻ったりする」というプレイを冷静に管理実行しているのは実は『普通の大人』(ツン)なのである。だから、男たちの素性に『幼児』(バブ)を認める必要は全くないのだ――と、そう単純に片付けてしまえればいいのだが、どうだろうか。前回取り上げた『宴のあと』のかづ同様、男たちも「本当のところ自分の冷静さについては」「あまり大した自信を持ってはいな」いということが、無いと言えるだろうか。演じているつもりの『幼児』(バブ)が、実はそう「演じている」わけでもなかったりする瞬間が、無いと言えるだろうか。三島由紀夫なら「彼はベビー服のほうが似合うのだった!」と書くかもしれない。あーおそろしい。

 いま「男たち」と書いたが、男もすなる赤ちゃんことばを、女だってしゃべる人はしゃべるのかもしれない。少し似た例に過ぎないが、たとえば次の(2)を見られたい。ここでは新婚夫婦のあま~い会話が描き出されている。

(2) 

 同じ頃、下北沢あたりの南西向き2DKにいそいそと新婚所帯道具を運びこみ、

「ああ、くたびれたん。ちょっとひと休みしょうか、トモコしやわせよ、よしおは?」

「うん、よしおしやわせ。トモコは?」

 なんていっている「約二名」というものがいるわけです。

 そしてこの「約二名」もネスカフェのフタくるくるまわして、

「トモコ、ネスカフェだいすきよ、よしおは?」

「よしお、ネスカフェだいすきよ、トモコは?」

「トモコもネスカフェだいすきよ、よしおは?」

「よしおもネスカフェだいすきよ、トモコは?」

 なんていうこといつまでも言いつつ、窓の外の夕焼け雲みつめてブチュッなんていう態度をとったりしているわけである。

[椎名誠『気分はダボダボソース』1980.]

 ここに取り上げた会話が作家・椎名氏の空想による全くの絵空事ではなく、現実の日本語社会の何がしかを反映しているとしたら、日本の『赤ちゃん』人口は案外多いかもしれない。だが、詳しいことは調べてみないとわからない。「ツンデレ」がコンピュータゲームやマンガに頻出するのに対して、「ツンバブ」が言及されることは極端に少なく、その実態はほとんど謎に包まれているからである。

 親たちが乳幼児に向けてしゃべることばは「IDS (Infant-Directed Speech)」と呼ばれるが、古くは「母親 (mother)」にちなんで「マザリーズ (motherese)」と呼ばれ、今でも一般にはこの名の方が知られているようだ。ここで取り上げた「ツンデレ」や「ツンバブ」の多くは(海原雄山なんかはよくわからないが)、恋人に向けてしゃべる恋人語、つまり「ラバリーズ (loverese)」である。

 世界じゅうで大多数の言語が絶滅の危機に瀕してその保護や保存が急務とされており、しかも日本の財政がおそろしく逼迫しているこのご時世に、「予算を組んで、恋人語(ラバリーズ)の大規模な調査プロジェクトを立ち上げるべき」などと声を張り上げ旗を振る勇気は、私にはとても無い。が、インターネット上で「ツンデレ」の萌え談義にうち興じる世の匿名諸氏には、自らの「ツンバブ」体験が有るのか無いのか、思いあたるフシがあるのならついでに語ってほしいと思う今日この頃である。

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  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり——顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり—顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてからもうすぐ一年。編集部たっての希望がかない、このたび、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
イラストは、書籍版『日本語社会 のぞきキャラくり』でも「キャラくり」世界をステキに彩ってくださったカワチ・レンさんによるものです。
隔週日曜日の公開です。続きもお楽しみに!

日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第7回 「ツンデレ」について

2012年 4月 29日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第7回 「ツンデレ」について

 その人の素性が問われる場合,取り繕おうとする意図の露見は厭われるということを述べてきた。といっても、意図が露見してしまったら即「偽物」の烙印を押されて村八分というわけではない。意図の露見がまかり通る、とまではいかなくても、黙認、あるいは変則的ながら承認される場合がある。

 まず思いつくのは、本編(連載第96回,著書195ページ)でも述べた「舞台裏」というやつである。たとえばママが電話口では声を高めて『上品な奥様』を取り繕うとか、気むずかしい『坊ちゃん』のパパがソトでは『温厚な紳士』で通しているとか、ソトではクールな八頭身だけどウチでは三頭身の『幼児』だとか、ソトでは上品な『お嬢様』がウチでは……とか、素性を取り繕おうとする様子は舞台裏の家族にはまる見えだが、告発もせずお互い黙っているのである。だって家族だもん。

 この舞台裏が家庭のソトにはみ出してしまうと、やはり破綻してしまうのが通例である。『かっこいい男』を演じる意図が皆に露見すれば『かっこいい男』ではなく『キザ』、『お嬢様』を演じる意図が皆にバレてしまえば『お嬢様』ではなく『ブリッ娘(こ)』という具合に、求めたキャラクタとは別の「破綻キャラ」が貼り付けられてしまうということ、これも本編で述べたとおりである(連載第74回第75回,著書162-164ページ)。

 ところが、意図の露見が許されてしまう場合もないわけではない。たとえば三島由紀夫の『宴のあと』では、都知事選に立候補した夫に婦人票を得させるため、妻の「かづ」が主婦たちに取り入ろうとする様子が、次の(1)のように描かれている。

(1)  かづ自身の全くあずかり知らないことだが、ひたすら民衆を利用しようとするかづの単純な偽善的な遣口(やりくち)は、ふしぎなことに彼らに愛される大きな理由になった。かづが打算と考えているものは一種の誠意、とりわけ民衆的な誠意であり、動機がどうあろうとも、献身と熱中は、民衆に愛される特性だった。そして本当のところ自分の冷静さについては、かづはあまり大した自信を持ってはいなかった。彼女のあけっぴろげな謀略、むきになって人をだましてかかろうというやり方、その恥しらずなしつこい繰り返し、こういうものは却(かえ)って単純な人たちの警戒心を解いた。民衆を利用しようとしてかかればかかるほど、民衆に愛された。かづの行くところ、何やかと蔭口(かげぐち)をきかれても、高まった人気があとに残った。江東地区のおかみさん連のところへ、かづが割烹着を着て出かけてゆくとき、かづの気持では、人目をあざむいて相手に融(と)け込むために、貴婦人がわざわざ割烹着を着込んでゆくのである。ところが人々の目は正しく見ていた。かづは割烹着のほうが似合うのだった!

[三島由紀夫『宴のあと』1960.]

 かづが自分を庶民的な『おかみさん』と取り繕おうとする、その意図は皆にとうにバレているのだが、本人は気づかぬものの実はかづの「地」が『おかみさん』でもあり、その魂胆ごと愛されてしまうという、こういうことは現実にはいろいろとあるだろう。

 意図の露見が許されるどころか、好ましいものとされる場合もある。巷でも、そして研究の世界においても最近もてはやされている、いわゆる「ツンデレ」というやつはこれにあたる。

 ひとくちに「ツンデレ」といっても、皆の前ではツンツンして態度が冷たいが2人きりになるとデレデレ甘えてくる、最初はツンツンしていたのが恋心が抑えきれずデレデレに転じる、表面的にはツンツンだが内心はデレデレであるなど、さまざまなタイプがあり、しかも論者によってこのタイプは「ツンデレ」と認めるがあのタイプは認めないといった違いもあって、内実は決して単純ではない。だが、たとえば顔を赤らめ、つっかえながら「べ、べつにあなたのことなんか、何とも思ってないんだから!」などと自身の恋心をムキになって否定する言動に見られるように、ツンツンが意図的な取り繕われたものだと露見して破綻しているところが異性である男性の人気を得ているとは言えそうだ。

 いや、異性である男性、といま書いたように「ツンデレ」は女性に特有とされることが多いのだが、このあたりも言い切ってしまうことは難しい。マンガ『美味しんぼ』に出てくる和服姿で息子やその嫁をいじめるおやじ、海原雄山こそ実は究極のツンデレだという説もあるからである。「キャラクタ」の観察に集中しているいまの私の中では、「ツンデレ」の占める位置はあくまで周辺的なものでしかないが、「ツンデレ」に対する理解を深めたい読者には、西田隆政氏、冨樫純一氏、渋谷倫子氏らの論考が参考になるだろう。

 『上品な奥様』『温厚な紳士』『かっこいい男』『お嬢様』などは、世間の一般通念からすれば高評価のキャラクタと言える。それらを取り繕おうとする上述の場合と比べると、「ツンデレ」は、ツンツン、つまり平静で無関心で恋心無しという、特に高評価と思えない状態を取り繕おうとし、そして破綻するという点で異彩を放っている。

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『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり——顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第6回 ことばについて

2012年 4月 15日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第6回 ことばについて

 前回述べたのは,「意図の露出が厭われるか受け入れられるかは,その人間の素性が問われるかどうか次第」ということである。

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 その人が持っている古そうな焼き物や能面や家屋などが,わざと「古色」を付けられ,古めかしくされたものだったとしても,特に何とも思わない。その一方で,地毛だと思っていたのがカツラだった,素顔だと思っていたら巧妙な化粧や整形だったというのはショックである――そんなことがあるとしたら,それは私たちが人の素性を,その人の持ち物よりも,その人の身体(頭髪や顔つき)と結びつけてイメージするということだ,と述べたのであった。身体のような,人の素性と結びつけられやすいものに関しては,私たちは「身を飾ろうとする意図」に敏感になりがちである。

 そして,ここで思い返してほしいのは,私たちがことばに関して,いかに「身を飾ろうとする意図」に敏感か,ということである。

 たとえば素人が業界語を発するとどうなるか? 仲間うちで,○○ちゃんが今日はちょっと背伸びして業界語を,というのはまだいい。その人間と面識がなく,その人間の言動から素性を推し量ろうとする赤の他人にとって,素人の業界語がどのように映るかといえば,次の(1)~(4)のとおりである。

(1)  ネトゲとかでもやたら略称(単語のイニシャルの羅列とか)無理に使って得意気はうざい

[http://aromablack5310.blog77.fc2.com/blog-entry-4564.html, 最終確認日: 2012年3月25日]

(2)  お客さんの中には雑誌やインターネットで調べた店員も知らない言葉を得意げに語る人がいます。型番や値段表に書いてある名称をあえて使わず開発時のコードネーム(それも滅多に知られていないやつ)を使う人です。そして店員が「?」という顔をするとうれしそうに「○○ですよ」とわかりやすく言い直すんです。こんなお客さんはものを売った後はもう二度ときてほしくないと思います。わざわざ自分の知識(それも単発の役に立たない知識です)で店員を試すようなことはやめましょう。ちなみに雑誌やインターネットで調べた中途半端な知識をひけらかそうとするとほとんどの場合は撃沈されます。普段店頭にいない僕だってHDの型番を聞けば「80GB,7200rpm,流体」とすらっと出てきます。店員の中にはホントに何でも知ってる人もいますしね。

[http://imajun.sakura.ne.jp/digico/digico_009.html, 最終確認日: 2012年3月25日]

(3)  そして,お客として気をつけなきゃいけないのは,シャリ・ガリ・オテモト・ムラサキ・アガリ・オアイソなどの「業界隠語」を,素人客が無闇に使わないことです。ご本人は「通」ぶっているのかも知れませんが,それを聴かされる周りが恥ずかしい気持ちになっちまいますから。

[http://liberty1-hp.hp1.catch-cms.jp/1285899730203/, 最終確認日: 2012年3月25日]

(4)  寿司屋で得意げに「おあいそ!」とか言っちゃう奴にアツアツのカニ味噌汁をぶっかけてやりたい

[http://ninninnsoku.doorblog.jp/archives/1834083.html, 最終確認日: 2012年3月25日]

 (1)はネットゲーム,(2)はコンピュータ関連機器,(3)と(4)は寿司に関するインターネット上の発言で,いずれも「業界語を発する素人は玄人のように格好をつけようとしているのだろうが,その魂胆はバレバレで見ていられないからやめておけ」と言っている。素人の心中は,「通ぶって」「得意げ」などと見切られており,さらに(2)では「雑誌やインターネットで調べた」と業界語の仕入れ先が決めつけられ,(4)ではアツアツのカニ味噌汁によって妄想世界で天誅まで下されている。もしもこれらの素人が下心なく,たとえば玄人がしゃべるのを聞いて「寿司屋ではそう言うのか」などと思って業界語を発していたのだとしたら,もうまったくお気の毒としか言いようがないが,そういう決めつけ,断罪は私たちがお互い,日常よくやっていることだろう。

 アクセントについてもまったく同様である。

(5)  先日,ブランド名の「ヴィトン」を,平板に発音する人がいて,ちょっとのけぞりました。「『ヴィトン』なんて,どうってことないわーふふん」と言いたい気持ちが無意識のうちに発露された結果なのかもしれませんが,「バトン」や,「ふとん」じゃないんだから,ねえ。

[http://blogs.yahoo.co.jp/mizuki4821/41250443.html, 最終確認日: 2012年3月25日]

(6)  テレビのレポーターが,「家業を継ぐ」の家業の発音を「画廊」と同じ発音で言っていました。最近では本当にこのような「平坦読み」や「尻上がり読み」が増え,とても耳障りなんですが,皆さんは気になりませんか? ○○や○○○がでてきた頃から,こんな情緒の無い読み方が増えているように思います。平坦読みを連呼する人はとても頭が悪く軽薄にさえ見えます。それでも得意げに連呼するんです,特に○○○○が。

[http://okwave.jp/qa/q2661085.html, 最終確認日: 2012年3月25日]

 つまり「ヴィトン」(低高高)とか「かぎょう」(低高高)とか言っていると,「こいつは「『ヴィトン』なんて,どうってことないわーふふん」なんだ」「平板型で連呼して,得意げだ」などと心中を見切られ,しまいにはアツアツのカニ味噌汁をぶっかけられたりする。いや,上の歯で下唇を咬んで「ヴィ」と言った時点でカニ味噌汁が飛んでくるかもしれない。とまあ,このようにことばは身体なみに,話し手の素性と結びついている。

 さて,ここで問うてみたい。ことばは道具だろうか?

 見るからに弱々しい者でも,手にピストルをしっかと構えてさえいれば,誰でも言うことを聞かざるを得ない。なるほどピストルは道具である。ところが,見るからに弱々しい者がピストルを手にしたら,皆が「それはおまえに似合っていない。背伸びをするな」と苦笑し,しまいにカニ味噌汁をぶっかけてくるとしたら,そのピストルは道具だろうか? つまり,ことばは道具だろうか?

 まあ,道具でもいいのだが,「ことばは道具である」と言う時,私たちは「人間はことばを使って情報を伝達し,人間関係を円滑にして,所与の目的を遂げる」という面ばかりに目を向け過ぎてはいないだろうか? 「道具は人を選ぶ」という面,つまり或る目的を遂げようと或る道具を選んでも,自分がその道具にフィットしなければうまくいかないということを,ないがしろにしてきたのではないだろうか? 「ことばは人を選ぶ」ということ,つまりことばがまったく自由に選べるようなものではないということを,私たちはもっと認識すべきではないだろうか?

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神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり——顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第5回 古美術について

2012年 4月 1日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第5回 古美術について

 「より美しく身を飾ろうとするすべ」について,化粧とカツラという2つの例を取り上げ述べてきたのは,以下2点である。

 第1点。身を飾ろうとする意図が露見してはいけないものだけでなく,身を飾ろうとする意図が露見していいもの(現に露見しているもの)もある。

 第2点。基本は,身を飾ろうとする意図が露見してはいけないものの方である。

 そしてここで述べたいのは,これら2点が「より美しく身を飾ろうとするすべ」だけでなく,「より格好良く身辺を飾ろうとするすべ」についてもやはり同様に観察できるということである。
 古美術,骨董,古道具,アンティークなど呼び方は何であれ,私たちは古いものが大好きである。

 「なんだかんだ言っても,古いものって,やっぱりいいなあ」

などと思う。すると,どうなるか。

 「いまオレ持ってるやつ,あれ,古くできないかなあ」

なんて考えてしまうのである。

 そんな無茶な。ものを好き勝手に古くすることなど,タイムマシンでも発明されないかぎり無理なこと,と思うのは間違いで,まさにそうした願いをかなえる技法が世の中にはちゃんと開発されている。

 焼き物,能面,根付け,仏像,家具,家屋には「古色付け」という,わざと古びた色合いを出す工夫がしばしば凝らされる。能面など,紐穴周りの塗装をサンドペーパーで落として「何度も能舞台で使われるうちにこうなりました」という紐ズレの跡まで付ける。

 これらの技法は贋作を作る際にこっそりというのではなく,ちゃんとした工程の一つになっている。ものを古く,格好よくしようとする意図が,「古色付け」や「紐ズレ付け」という形で,公然のものになっている。カツラとはえらい違いである。

 古色や紐ズレ跡を付けるかどうかは焼き物や能面の「作り手」の問題であるから,カツラのような「使い手」(装着者)の問題とは別なのだろうか?

 いや,そうではないだろう。そう考えてしまうとカツラと化粧(ともに使い手の問題)の違いは見えてこないし,第一,「作り手」の問題といっても,あからさまな意図の露出はやはり嫌われがちではないか。すでに本編(連載第40回著書104ページ)で取り上げたものだが,作為的な芸術品を酷評する『草枕』の一節を再掲しておこう。

(1)  印度(インド)の更紗(サラサ)とか,ペルシャの壁掛とか号するものが,一寸(ちょっと)間が抜けている所に価値がある如(ごと)く,この花毯もこせつかない所に趣がある。花毯ばかりではない,凡(すべ)て支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに,ぼおっとする所が尊(とう)とい。日本(にほん)は巾着切(きんちゃくき)りの態度で美術品を作る。

[夏目漱石『草枕』1906]

 結局のところ,意図の露出が厭われるか受け入れられるかは,その人間の素性が問われるかどうかの問題とも言える。

 モノの作り手は,単に作るだけなら,綺麗で気が利いたモノを作っていればいいが,モノを通して自分を見てもらおうとするなら,あからさまな小細工は却って余計で,鋭い鑑賞者には逆効果を与えてしまいかねない。

 モノの使い手も同様で,あからさまに身を飾る振る舞いは,旧知の仲間どうしなら「あら○○ちゃん,今日はオメカシして来たの,綺麗ねえ」などと済ませられるが,外見を頼りに素性を値踏みしてくる初対面の者には,「虚飾をまとう」というマイナス要因に映りかねない。次の(2)を見られたい。

(2)  と,そこへ,かざり立てた女がやってきた。

 ここに登場してきた女がすでに「浅はか」なイメージを貼り付けられているとすれば,その原因は女が「かざり立て」ていることを措いて他にない。

 だが,「「かざり立てる」という動詞は浅はかな動作を表すから」といった説明は十分なものではない。たとえば次の(3)の「かざり立てた女」は,「浅はか」なイメージとは無縁だろう。

(3)  村のために献身して亡くなった長老はとにかく派手なことが好きだった。そこで村民たちは今日の葬儀では,男も女もことさらにめかし込んで,長老との別れを賑々しく惜しむことにしたのである。早くも向こうから,美しくかざり立てた女がやってきた。

 ここでは,自身を美しくかざり立てようとする女の意図は,葬儀を華やかなものにして長老を慰めようとする村全体の取り決めによって正当化され,女の素性とは切り離されている。「動詞「かざり立てる」は浅はかな動作を表す」というのは傾向に過ぎない。浅はかかどうかは,人間の素性が問われるかどうか次第である。

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第4回 化粧について(続)

2012年 3月 18日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第4回 化粧について(続)

 「キャラクタ」という概念は、そう捨てたものではない。もちろんキャラクタで日本語社会のすべてを説明することはできないが、基本的なところはおさえることができる。たとえば、キャラクタという概念でとらえられる化粧とは『美人』キャラの「ナチュラルメイク」(第一の理解)であり、これはさまざまな化粧の中で最も基本的なものだ――このような考えをぶち上げたところで前回は紙面が尽きた。今回は、そう考える根拠を述べておきたい。

 たとえば、前回ちらりと触れたカツラについて考えてみよう。もちろん、ひとくちにカツラといっても現実は多様で、イギリスの裁判官が法廷でかぶるカツラは日本語社会のものではないから除外するとしても、演劇のカツラ、対戦型ネットゲームの中で登場人物に装着させる攻撃用・防御用のカツラ、さらにペットのカツラなど、さまざまなものがある。だが、カツラを利用する大多数の人々にとって、カツラとはハゲを隠すための道具である。以下ではこの種のカツラにかぎって話を進める。

 カツラの価値とは、カツラだと見破られないところにある。もしも装着されたカツラが地毛ではなくカツラだと発覚すればどうなるか。それは、ハゲを隠そうとする装着者の意図が露見することに等しい。どうなるか。こうなるのである。

(1) まあまあ……何とさもしい男じゃろう 若くしてはげることなどちっとも恥ではないのに………熊の毛皮で隠すとは……こやつめ! 見損なったわ もみじとて紅葉すればやがて散る……あるがまま自然のままが一番美しいのにこやつは中味より外見をとりつくろう貴族だわい!

[花輪和一「三二九一九六九六(みにくいくろぐろ)」『新今昔物語-鵺-』双葉社, 1982, 181-182.]

 (1)に挙げたのは平安時代を舞台とするマンガの一節で、藤原長道という貴族が恋人の家で酔いつぶれて寝てしまったシーンである。額に貼り付けていた熊の毛皮のカツラがはがれてハゲがばれると、長道はハゲを隠そうとする心根を恋人の母に罵られ、頭を蹴られてしまう。

 もちろん、カツラをかぶる人の事情はさまざまであって一概に「さもしい」などと片付けられるものではないし、カツラは何ら恥ずかしくないという考えも広く行き渡っているのが今日の現状であろう。しかしその一方で、長道のようにハゲを恥ずかしいと思う感性や、恋人の母のようにハゲ自体よりもハゲ隠しを嫌う感性が現代日本語社会にも確実に存在していることを私たちは知っている。たとえばネット上のQ&Aサイトに、次のような投稿を見ることは珍しいことではない。

(2) 質問(栗きんとんさん, 2010年1月9日5時58分):のっけから恐縮ですが、私はかつらをつけています。[中略] 女性の方々にお聞きしたいです。かつらの男性は嫌ですか? かつらを取った男性をどう思いますか?
回答(ねむりこねこさん, 2010年1月9日11時30分):ハゲていても気にしませんが、それをコンプレックスとして、隠そう隠そうとする男性は嫌です。

[http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2010/0109/286667.htm, 最終確認日: 2012年2月12日]

 つまり私が言いたいのは、「より美しく身を飾ろうとするすべ」といっても、化粧とカツラには大きな違いがあるということだ。前回述べたように、化粧には、素顔に見せかけるナチュラルメイク(第一の理解)があるだけでなく、あからさまな化粧もある。これは言い換えれば、「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」だけでなく「身を飾ろうとする意図が露見して構わない(実際に露見している)もの」もあるということである。だがカツラはただひたすらに「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」であって、意図が露見すると、上で見たように台無しになってしまう。化粧とカツラに共有されているのは「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」であるから、これが「より美しく身を飾ろうとするすべ」の基本だと考えていいだろう。

 カツラとの対照に頼らず、化粧だけに視野をかぎってもやはり、「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」が基本だということは見てとれる。

 たとえば「お綺麗ですね」と容姿を褒められたらどう答えるか。「そうでしょ」と答える人はまずいない。「いえいえ」「とんでもない」「何を仰いますやら」と否定する、「えーっ」「そうですかぁ」などとトボけてみせるというあたりが常道のようだが、ミス何とかに輝いて取材を受けるといった場合はそうもできず、過分なおことばをいただき恐縮という目をして「ありがとうございます」と答えたりするようだ。これらの返答はそれぞれに興味深いが、ここで注目したいのは「盛ってますから」という、ちょっとひねった答え方で、念のために説明しておくと、綺麗に見えるのはコッテリと盛るほど厚化粧を施しているからで、素顔は大したものではございませんという意味の返答である。

 この返答が(もちろん言い方にもよるが)謙遜の返答になり得るのは、あからさまな化粧をしていればこそである。カツラではこうはいかない。「いつまでもお若くいらっしゃって、御髪(おぐし)もつやつやと」と言われて「カツラですから」と返したら、相手は思わぬカミングアウトにまずギョッとするだろうし、次に「冗談、ですよね?」とこわばった笑顔を振り向けてくるだろうが、謙遜の発言とはとらないだろう。

 「盛ってますから」が謙遜になるのは、私は化粧していますと告白するからではない。化粧をしているのは相手も知っていることとした上で、私の化粧は厚いというから謙遜になる。「あなたは私の化粧顔を見て、『化粧顔がこれだけ綺麗なんだから、素顔から綺麗なんだろう』と推論したようだが、私の化粧はあなたの想像以上に濃いのだ」ということである。

 そして「化粧顔がこれだけ綺麗なんだから、素顔から綺麗なんだろう」と人に推論させる化粧が、素顔を偽ろうとするものでなくて何であろうか。あからさまな化粧も本質的な部分は、素顔を偽ろうとするナチュラルメイク(第一の理解)と変わらない。ナチュラルメイク(第一の理解)を化粧法の基本と考えるのは、こういうわけである。

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  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり——顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり—顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてからもうすぐ一年。編集部たっての希望がかない、このたび、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
隔週日曜日の公開です。続きもお楽しみに!

日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第3回 化粧について

2012年 3月 4日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第3回 化粧について

 先日、会話途中で相手の女性の顔をよく見ると眉が四本あった。「これはいくらなんでも教えてあげなければ。いや、それはセクハラでは」と思っているうち、話がメチャクチャになってしまった。

 だからというわけではないが、私はいま化粧に凝っている。自分がしようというわけではない。さまざまな化粧法の何たるかを学び、それらを通して世の中の複雑さを少しでも理解したいと思っている。

 前回述べたように『のぞきキャラくり』を書いて人品骨柄を問われることもあったわけだが、私たちの日常の発話を「ことばつき」、つまり顔つきや体つきと似たようなものとする考えをなんとか打ち出せたのはよかったと思っている。

 顔つきや体つきは人それぞれ、といっても大まかなタイプがある。人は自身の顔つきや体つきをコントロールして或るタイプから別のタイプへと変えることはできない。いや、実はカツラをかぶったり脂肪を吸引したり、コントロールすることは結構あるのだが、コントロールできない「ことになっている」。

 私たちの発話にもこれらと似た面がある。「何でも、知(ち)ってるもん」と胸を張る幼児は、その幼い発音によって自分が幼児であることを表そうとはしていない。「冷えますのお」と挨拶する老人も、そのことば遣いによって自分が老人であることをわざわざ相手に伝えようなどとはしていない。ただふつうに素でしゃべるとそういう発話になるだけである。いや、実は密かに計算して、そういうことばをわざと使っていることもあるかもしれないが、そういうことはない「ことになっている」-私たちの日常発話を「目的達成のための道具」と見る伝統的な考えだけでなく、このような「ことばつき」の考えが言語観察には必要だと、曲がりなりにも示せたのはよかった。

 といっても、『のぞきキャラくり』で果たせたことはごくわずかで、できなかったことの方が遥かに多い。化粧というものは、そのことをはっきりわからせてくれるように思う。

 インターネットを見ると、「ナチュラルメイク」という語には少なくとも二通りの異なる理解があることがわかる。一つは、「素顔」に見える化粧、という理解である。例を(1)に挙げる。

(1) a. 成功したナチュラルメイクというのはメイクしてるように見えないのにキレイに見えるということ、自分の魅力を最大限に引き出しつつ、個性を邪魔しないメイクのことなのです。
[http://josei.s353.xrea.com/MOTELU16.htm, 最終確認日: 2012年2月19日]
b. この結果から、女性はすっぴんになったフリをして、実はすっぴんに見えるようなナチュラルメイクをしていることも時と場合によって必要かもしれません。
[http://www.dreamnews.jp/?action_press=1&pid=0000007234, 最終確認日: 2012年1月29日]

 (1a)に「メイクしてるように見えない」とあり、(1b)に「すっぴんになったフリをして」とあるのは、この理解によるものだろう。

 「ナチュラルメイク」のもう一つの理解は、「自然な化粧をしている」ように見える化粧、というものである。例を(2)に挙げる。

(2) a. ナチュラルメイクは手抜きメイクとも違うし、ノーメイクに近いというわけではありません。
 ・きちんとメイクしているのにナチュラルに見える
 ・すっぴんもキレイなんだろうなと思わせる
そんな上級者メイクなのです。
[http://bihada-mania.jp/blog/9406, 最終確認日: 2012年1月29日]
b. ナチュラルメイクって難しい! すっぴんと思われても困るし、自然だけどキレイ・・・ ナチュラルメイクはテクニックが最高にいる技です。
[http://ameblo.jp/misoziko/entry-11054732086.html, 最終確認日: 2012年1月29日]

 (2a)に「すっぴんもキレイなんだろうなと思わせる」とあり、(2b)に「すっぴんと思われても困るし」とあるのは、この理解に基づくものだろう。

 (1)の理解と(2)の理解はつながっているのかもしれないが、ネット上だけでなく現実にも、(1)の理解をする話者、(2)の理解をする話者がともに確認でき(正式な調査はしていないが若年層の女性は(2)の理解に偏るように思える)、やはりこの語に対する人々の理解が一様でないことをうかがわせる。

 「ナチュラルメイク」だけでもむずかしいのに、最近はその上「すっぴん(風)メイク」というのもあるらしい。例を(3)に挙げる。

(3) a. すっぴん風メイク~ナチュラルメイク以上に優しい印象を作る♥~
[http://www.peachdrops.net/full/natural/natural001/, 最終確認日: 2012年1月29日]
b. 26歳、女性です。最近、芸能人がブログにすっぴん画像を公開したり、 CMでもメイクしていないように見える人もいたりします。すっぴんメイクというものが流行っていると聞きましたが、ナチュラルメイクとは何が異なるのでしょうか?
回答26807:ナチュラルメイクもすっぴんメイクもほとんど同じようには思いますが、ナチュラルメイクの方がベースメイクをしっかりしていますよね。すっぴんメイクは、顔のパーツ等を補う程度で済ませるメイクのように思います。
[http://qa.news.mynavi.jp/question/6032/, 最終確認日: 2012年1月29日]

 ここで言われている「すっぴん(風)メイク」は、「ナチュラルメイク」を第一の理解でとらえたものと同じかもしれない。が、違うかもしれない。オジサンにはなかなかむずかしいものがあるな。

 『のぞきキャラくり』で取り上げたキャラクタに『美人』キャラというものがある。『美人』キャラとは何か。美しさを装わず、あくまで自然、素のままでいる「ことになっていて」、それでいて美しいのが『美人』キャラである。したがって、もしも『美人』キャラの美しさが実は化粧で取り繕われたものだとしたら、その化粧とは「素顔を装った化粧」つまり「ナチュラルメイク」(第一の理解)だということになる。『のぞきキャラくり』で「キャラクタ」という考えを持ち出すことによって光を当てたのは、化粧でいえばこの「ナチュラルメイク」(第一の理解)のカラクリである。

 しかし現実の日本語社会には「ナチュラルメイク」(第一の理解)の他にもさまざまな化粧があり、それらの化粧は「キャラクタ」という考えだけですぐ説明できるわけではない。世の中、複雑だよなあ。

 だが、さまざまな化粧の中で一番基本的な化粧といえば、やはり「ナチュラルメイク」(第一の理解)ではないだろうか。「キャラクタ」という考えは、そう捨てたものではなく、複雑な日本語社会の、最も基本的なところをついているのではないだろうか。(続)

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【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり——顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり—顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてからもうすぐ一年。編集部たっての希望がかない、このたび、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
イラストは、書籍版『日本語社会 のぞきキャラくり』でも「キャラくり」世界をステキに彩ってくださったカワチ・レンさんによるものです。
隔週日曜日の公開です。続きもお楽しみに!

日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第2回 アイドルについて(続)

2012年 2月 19日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第2回 アイドルについて(続)

 『アイドル』について、前回は「アイドルはトイレに行かない」神話や「他発的なデビュー」を取り上げましたが、アイドルの整形「疑惑」を述べた文章もネットや週刊誌には多々見られます。次の(5)では「芸能人」と書かれていますが、たとえば中年男性の漫才師が一重まぶたを二重にプチ整形した、といった話はまったく出て来ないので、これも実質的には『アイドル』と考えてよいでしょう。

(5) 芸能人の整形疑惑画像・劣化・激ヤバ画像一挙公開!
  過去に整形疑惑のある芸能人を画像付きで紹介します。

[http://geinoujingiwaku.seesaa.net/, 最終確認日: 2012年1月13日]

 特に『アイドル』の場合、整形が「疑惑」と言われるような悪いことになり得るのはなぜか。これも答は上と同じです。自分の美やかっこよさを演出することが厳しく取り締まられるのは、理想的な『アイドル』というものが「素」で綺麗な人、かっこいい人だからですね。

carakuri_2.jpg

 「『アイドル』はいつでもどこでも「素」で『アイドル』のはず」と、『アイドル』に対して私たちが持っている勝手な期待を、もてあそんじゃった人がいます。

 ザ・ビートルズが初来日した1966年、その武道館公演は日本の社会を揺るがせたと言いますね。この公演には多くの若い娘たちだけでなく、三島由紀夫やら北杜夫やら、いろいろな大人が様子を見に来て、(娘たちの騒ぎように)あきれて帰っていったそうです。そんな中、『ビートルズ・ファンを弁護す』という文章を書いたのが遠藤周作で、その最後の一節「いいじゃないか」は次のようになっています。

(6) 私はビートルズは昔の宗教的祭儀の変型だと思う。 [中略] いいじゃないか。十七歳や十八歳ぐらいなら、これくらい楽しんだって悪くはない。私の妹がたとえこの会場で叫んだり泣いたりしても、やっとるなと思うだけだろう。[中略] 原理は同じだ。いいじゃないか。
 ビートルズが帰国したあと、私は彼等の泊っていたホテルの友人から、彼等が残していったと思われる鼻紙、片一方の靴下、猿股をもらった。私には用がないので机の引出しに放りこんである。

[遠藤周作『ビートルズ・ファンを弁護す』, 『週刊朝日』, 1966年7月15日号, p. 119.]

 うーん、ビートルズ・ファンのきもち、わかってるよなあ。最後の段落はちょっと余計な気がするけど――なんて思ってると、違うんですねえ。それから数年後の文章が次の(7)です。

(7) それから二、三日して、ある新聞に私は『ビートルズを見る』という随筆を書いた。
 その時、一寸、いたずらをしようと思った。
 そして、その文の最後に、
「私はビートルズたちの泊まったホテルのボーイと親しいので彼等からビートルズが部屋に忘れたパンツをもらった。もらったものの、私としては始末に困っている」
 と書いたのである。
 そして、じーっと待っていた。
 果せるかな、それから二日後、電話がかかってきた。女の子である。うしろに二、三人、友だちがいるらしく、彼女たちの囁き声も受話器を通して聞えてくる。
「あの……」
 と蚊のなくような声で彼女は言った。
「そのパンツ、わたしたち欲しいんですけど」
 私は可笑しさを抑えながら、
「そりゃ、差し上げたいけど、ひどく、臭いんですよ」
「よごれているんですか」
「彼等、洗濯しないで捨てるらしいですなあ。臭いサルマタです」
 受話器の奥で、彼女が友だちと相談している声がきこえる、「臭いんだって……」
 私は可笑しくってならない。
「そんなら……いりません」
 と彼女は泣きそうな声で言った。
 私はこんな女の子が大好きだ。自分の娘だったら毎日、からかって遊ぶだろう。

[遠藤周作『ぐうたら人間学』, 1972, 講談社.]

 「新聞」とあるのは、単に記憶がぼやけていたのか、それとも、「週刊誌」と書くとすぐに特定されて問題になってしまうと警戒されたのか、とにかく惜しいじいさんを亡くしたもんです。

 とまあ、アイドルについていろいろ述べましたが、その中には、アイドル以外の人たちについても言える部分がありそうですね。たとえば世界的な評価を受けた運動選手が、24時間、365日、そんな顔で暮らしているはずはないのに、その選手が不祥事に関与していることが発覚すると、「まさかあんな人がそんなことを。信じられない」「ああいう選手がこういうことというのは、あってはならないこと」といった論調での報道が続きますよね。こういう報道を聞くと、「じゃあ、あんな人でなくて、どんな人なら不祥事が信じられるんですか?」「どういう人ならこういうことがあってもいいんでしょう?」なんて、意地悪く問いかけてみたくなるのは私だけでしょうか。ビートルズのパンツが臭いと知った女の子が「まさかあの人たちがそんなことを。信じられない」と泣きながら言っているところを連想してしまうのは私だけでしょうか。うーん私だけかな。でも今日からはあなたもどうぞ。

 

 『のぞきキャラくり』の冒頭部分で、私は「知人どうしが結婚。やがて出産。めでたいことだが、あいつら、どんな顔して子作りを。う~ん考えたくない考えたくない」などと書きつけた。これについては、拙著を読んでくれた実父から「イヤらしい!」と叱られた(「親の顔が見たい」とも言われた)だけでなく、身近な方々から「ちょっと、君のキャラと、違うね」といったコメントを複数頂戴した。

 スタイル万能主義が世にこれだけ広く深く浸透しているのは、スタイル万能主義が私たちの「良き市民」としてのお約束ごと(あなたの前にいる私は「素」の私であって、演技などしていません。あなたもきっとそうでしょう。そういうものとして私はあなたと付き合います)と合うからだろう。スタイル万能主義の誤謬を衝いて、キャラクタという新概念の必要性を誰にでもわかるよう具体的に説くには、「良き市民」としてのお約束ごとをひんむいて、私たちの社会生活の暗部、タブーにも多少は触れなければ――と、私としてはそれなりに覚悟した上で書いた部分なので、いまさら悔いはない。だが、「知人どうし」のような生々しいものに題材を求める代わりに、アイドルという遠い存在を題材とする手もあったとは思っている。

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神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり——顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第1回 アイドルについて

2012年 2月 5日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第1回 アイドルについて

 おかげさまで拙著『日本語社会 のぞきキャラくり』は売れに売れた。私も印税だけで余生を送れる見通しが立ち、勤めはすっぱりやめてしまった。いまは会議もなく雑用もなく、悠々自適の引退生活である。

 しかしながら、同書に書き漏らしたこともないわけではない。また、読者から頂いたご意見に対しても、述べておきたいことがないわけではない。外国語版の連載も終了しないうちではあるが、年も改まったことだし、ここらで若干の付け足しをさせていただく。(あっ、このあたりから現実です。)

carakuri_1.jpg

 まず述べておきたいと思うのは「アイドル」のことである。

 アイドルの情報は常にマスコミを賑わせている。「のぞきキャラくり」の連載中も、アイドルが関与した「事件」が次々と報道され、その中にはキャラクタの観点から興味をそそられるものが少なくなかった。だがこれまでは、熱狂的なファンが何をしてくるかわからないということで、担当の方と相談の上、基本的に「自粛」していたのである。連載が完結し、本が出版されたいま、もう何にもこわくないもんねというわけではないが、一般的な形で少し述べさせていただく。

 アイドルを論じる上で外せないのは、何といっても「アイドルはトイレに行かない」神話だろう。たとえば次のようなインターネット上の書き込みを見ると、日本語社会において、この神話の信奉者が(元であれ現役であれ)決してめずらしくないということがわかる。

(1) その昔,『アイドルはトイレに行かない』と言われた。

[http://wow-spring.jugem.jp/?eid=699, 最終確認日: 2012年1月13日]

(2) ○○はアイドルだからトイレ行かないもん!

[http://hiwihhi.com/takashi_shiina/status/1358814779547648, 最終確認日: 2012年1月13日]

 「アイドルはトイレに行かない」神話が昔(1970年代や1980年代)は存在したがいまは……という書き込みは多く、上の(1)もその一つから採ったものだが、この神話がいま完全に崩壊しているかといえば必ずしもそうではない。書き込みの中には(2)のようなものもあるし(個人名は伏せた)、「自分はアイドルなのでトイレには行きません」と宣言している有名芸能人もいるようだ。(これも個人名は伏せる。ネットで調べればすぐわかるだろうが。)

 これらの書き込みや発言の根底には「アイドルというものは,単なるステージ上の役ではない」という私たちの思いがあるのだろう。たとえば「会議での進行役」のように,かぎられた場所(会議場)と時間(会議中)にだけ成立する「役」というものがあるが,私たちにとってアイドルとは、そうした役とは異なり、24時間,365日、(たとえウソでも)ずっと続いていてもらいたいもの,つまりキャラクタ(人物像)なのだろう。

 このような私たちの思いは、アイドルに「他発的なデビュー」をさせてしまうことにもなる。日本では職業選択の自由が(一応とはいえ)保障されているので、芸能人は皆、芸能人になろうと思って芸能界に入ってきている。アイドルもその例外ではないはずだが、「スカウトされ、最初は興味が無かったが説明を受けているうち何となくやってみようと」「知り合いに勧められて」「家族や友達が勝手に応募して」「応募した友達についていったら」等々、その主体性はなぜか、しばしば取り除かれてしまう。次の(3)(4)は、やはりネット上のQ&Aから採ったもので、(3)は「昔は……」という話だが、(4)のように現在の問題意識として書き込まれたものもある。(ここでも個人名は伏せた。)

(3) 質問(importoffroaderさん):昔のアイドルって,デビューのきっかけが「友達が勝手にオーディションに応募した」とか「友達がオーディションを受けるので付き添いで行ったら友人が落ちて私が受かった」とか言っていた人が結構いたと思うのですが,あれって本当なんでしょうか?

  ベストアンサー(kathmandu_84さん):本当の人もいるとは思いますが,大半はうそではないでしょうか?(○○○○なんか・・)その方が好感度があがるとか話題になるでしょうし。

[http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q107733650, 最終確認日: 2012年1月13日]

(4) 質問(agu1980さん):芸能人やミス××などたいていのオーディション優勝者のコメントが判で押したように「お母さんが応募した」とか「友達が勝手に応募した」ばかりで、一人も「自分で必死に応募しまくって今まで100件くらい落選した」などとは言いません。なぜでしょうか?
本当にみんな親や親戚、友達が応募していて、本人には「あまりその気がなかった」なんでしょうか?私には信じられません。どなたか裏事情知っている方、教えて下さい。

  ベストアンサー(ilsly05さん):本人にその気がなかったらまずオーディション受けに行かないと思いますよ☆ほんとに「親が」とか言う人多いですよね、小さい子どもの親が自分の趣味や夢みたいな感じで応募するってのは実際よくあるみたいですが、タレントオーディションやミスコンみたいなものは既に事務所などに所属していてそこから受けていく人もたくさんいます。知り合いが推薦というもの実際あるとは思いますが、自己アピールから何からいろいろな審査があるわけだしそれだけの気持ちじゃ優勝できないものではないでしょうか。

[http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1195667.html, 最終確認日: 2012年1月13日]

 上では、デビューに関してアイドルの主体性が「なぜか」取り除かれると書いたが、いやいや、このあたり、皆さんホントはよ~く分かっちゃってんですね。(3)の回答欄にある「その方が好感度が上がる」という部分がもうすべてを語っていると思うんですけど、「のぞきキャラくり」で述べてきたように、キャラクタ評(人物評)というのは、意図とはなじまないものだったんですよね。本人は普通にふるまっているだけなのにハタから見るといかにも豪快に見えるのが『豪快な人』であって、「これをやったら『豪快な人』と思われるかな」などとつぶやくのを聞かれてしまったら、どんな勇ましいことをやっても『豪快な人』にはならない。本人は普通にふるまっているのにハタから見ればいかにもいい人なのが『いい人』であって、「これで私のこと、『いい人』って思ってもらえますよね」などと言ったらそれまでの善行はすべて台無しということでしたよね。

 『アイドル』というのも同じことです。「あたしは綺麗」「ボクってかっこいい」と思っている人は、その思いが外部に漏れると、あまり高く評価されません。高く評価されやすい綺麗さ、かっこよさとは,意図され計算されていない(ように見える)綺麗さであり、かっこよさです。こういうことを突き詰めていくと,「オーディションへの応募」という自発的な意図的行動に違いないはずのものも、何とか他発的なものにしたくなるんでしょうね。(続)

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日本語社会 のぞきキャラくり 第100回(最終回) なぜキャラクタを考えるのか?(下)

2010年 7月 25日 日曜日 筆者: 定延 利之

なぜキャラクタを考えるのか?(下)

 なぜキャラクタを考えるのか? 日本語教育と言語研究の観点から、その理由を述べてきた(第98回第99回)。言語研究と重なる部分があるが、最後に、コミュニケーション研究の観点からも付け足しておこう。

 大人と子供の会話。子供が「だから、んーと……」のようにことばに詰まると、大人が「じゃあ、こんどの子供会に出るのはやめとくか」と助け船を出し、子供が得たりとうなずいたとする。

 こういう会話について「子供の発言は言いよどまれており、流ちょうと呼べるものではなかったが、実は子供はこのしゃべり方で、大人からの支援を呼び込むことに見事に成功したのである」などと分析されることがあるかもしれない。(いや実際、あったりする。)こういう分析は、一面の真理をついている場合もあるだろうが、常にそうとはかぎらない。子供は大人の支援を呼び込む意図などなく、ただただ途方に暮れてことばに詰まったのであって、仮にこの会話直後に「コミュニケーションができなくてつらい。ごめんなさい」などと書き置きして死んでしまったとしたら、「大人からの支援を呼び込む」「見事に成功」分析は一体何だったのかということになる。

 赤ん坊がよちよち歩くのが危ないと、見かねた親が抱きかかえたとしても、抱かれた赤ん坊は親の死角でVサインなど(たいてい)しないだろう。意図が必ずしもないところに意図を見立て、何気ない行動を「目的の達成」とみなすということは、コミュニケーションで生じるさまざまな事柄(たとえば、よちよち歩きやたどたどしい話し方)を、常に成功としか見ないことにつながりかねない。現実には、多くの人びとはコミュニケーションの成功とはほど遠いところにあり、コミュニケーションのことで悩んだり引きこもったり、死んでしまったりしている。そこまではいかないにしても、他人とコミュニケーションするほどおそろしく、うっとうしいものはないと感じている人は、少なくはないだろう。

 コミュニケーション参加者たちの絶え間ない「成功」ではなく、現実の「幸」と「不幸」を捉えるには、意図とは必ずしも結びつかない等身大の「話し手」像にこだわる必要があるだろう。たとえば、『白い巨塔』(1969)の佐々木よし江未亡人や、『或る女』(1911-1913)の田川夫人の「不幸」とは、つい昨日まで『格上』だったのに落ちぶれてしまい、『格下』だったはずの者に『格上』として振る舞われ、それを認めることができずに戸惑い憤慨するというものだった。それを冷ややかに眺めやる業者の野村や早月葉子の「幸」とは、新しい『格上』としてのものだった(第49回~第52回)。まあ、あまりさわやかな例ではないけれども、この連載では、キャラクタを考えることで、コミュニケーションの「幸」「不幸」の一端には触れられたかと思う。

 

 コミュニケーションにおける私たちの「幸」と「不幸」を「キャラクタ」的な観点から捉えようとする試みとしては、すでに瀬沼文彰『キャラ論』(STUDIO CELLO, 2007)や相原博之『キャラ化するニッポン』(講談社, 2007)がある。だが、これらは小泉長期政権や登校拒否にも論が及ぶような、最近の日本の世情や若者のコミュニケーションに焦点を当てたものである。たとえば太宰治の戯曲『春の枯葉』(1946)で、若い男女が「あなたの兄さんは、まじめじゃからのう」「あなたの奥さんだって、まじめじゃからのう」と『老人』のように言い合う遊びの場面を取り上げて「私たちは昔から、こういうことをずっとやってきた」とするこの連載は(第10回)、「最近」や「若者」に限らない形で、日本語社会の「コミュニケーション」を、さらに「ことば」を論じようとしたものであって、そもそも論じようとする対象がこれらとは異なっている。

 対象の違いは当然ながら、「キャラクタ」に対する考えの違いを生む。たとえば、相原氏の上掲書で紹介されている伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ―』(NTT出版, 2005)では、マンガ表現が論じられる中で、「キャラクタ」と「キャラ」が別物として区別されている。それは、両者を区別することがマンガ表現論にとって有効だと伊藤氏が判断されたからだろう。また、瀬沼氏が自著の中で「キャラクタ」「アイデンティティ」「役割」いずれとも違ったものとして「キャラ」という用語を考えられるのも、それが最近の若者の人間関係やコミュニケーションを論じる上で有効だと瀬沼氏が考えられたからだろう。同様に、私が「キャラクタ」と「キャラ」を区別しない一方で、これらと「スタイル」「人格」との違いにこだわってきたのも、日本語社会のことばとコミュニケーションを論じる上で、この措置が有効だと考えるからである。それぞれの論者が、論じたいことに応じて独自の「キャラ(クタ)」定義を持つことは、当たり前のことだろう。

 もちろん、統一的な「キャラ(クタ)」論をあれこれ考えてみることは、私にとっても楽しいことではある。マンガ表現を対象としつつも、その論を通して「他の表現行為や学問分野、社会的な事象と接続する回路が開かれる」という伊藤氏の開放的な考えは、伊藤氏一人だけのものだけではない。だが、分野を超えて、それぞれの「キャラ(クタ)」論どうしを結びつけるにはまず、他の「キャラ(クタ)」論と結びつけるべき私自身の「キャラ(クタ)」論をはっきりさせる必要がある。

 相手に応じて自在に変えてよいスタイルと違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、「うわ、こいつ、オレの前では猫かぶってたんだ」「この人、強い相手にはとことん弱いな」「あの人、恋人の前ではこんな3頭身になっちゃうんだ」などと、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、見られた方だけでなく、見た方も気まずいもの。かといって、「人格」ほど根本的ではないもの――このような「キャラ(クタ)」の定義で、日本語社会のことばや、コミュニケーション(の幸・不幸)がどのように論じられるのか。この連載ではこれを、なるだけ具体的に示したつもりである。

 ここで定義された「キャラ(クタ)」は、「スタイル」「人格」と併せて、本来的には「帰属(attribution)」という社会心理学的な観点からまとめ直せると私は考えている。だが、そのような試みに乗り出す余裕は少なくとも今の私にはない。この連載で述べてきたのは結局のところ、日本語社会において、1人の話し手が発することばの多様性や、コミュニケーションの幸・不幸を捉えるには、「スタイル」と「人格」だけでは限界があるということに尽きる。そのことさえ読者に納得いただければ、小論の目的は果たせたかと思う。

 長い間のご愛読ありがとうございました。

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お断り:小論の中で表記の統一をとるため、文献にある「キャラクター」を、今回「キャラクタ」という表記で引用させていただきました。連載中、厳密には「日本語を母語とする者」「日本語を非母語として学習する者」と書くべきところを、わかりやすさを最優先して「日本人」「外国人」とした箇所があることも、併せてお断りしておきます。また、『おかま』『外人』『おやじ』など、差別的ニュアンスを持つこともある語群をキャラクタ名として使っているのは、キャラクタを観察する上で差別意識を明るみに出すことが必要と判断したためで、差別意識を助長する意図はありません。ご理解頂ければと思います。

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お礼:本務校である神戸大学、非常勤先の関西学院大学、京都大学(五十音順)の学生諸君には、さまざまな有益な意見をいただきました。また、原稿のアップや画像については毎回、三省堂辞書出版部の荻野真友子さん、山本康一さんにお世話になりました。ここに記して謝意を表したいと思います。小論は、日本学術振興会の科学研究費補助金による基盤研究(A)「人物像に応じた音声文法」(課題番号:19202013、研究代表者:定延利之)、基盤研究(B)「役割語の理論的基盤に関する総合的研究」(課題番号:19329969、研究代表者:金水敏)の成果の一部です。

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  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

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【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。

日本語社会 のぞきキャラくり 第99回

2010年 7月 18日 日曜日 筆者: 定延 利之

なぜキャラクタを考えるのか?(中)

 なぜキャラクタを考えるのか? キャラクタを考えることに、どんな必然性や利点があるのか?――この問いに対する日本語教育関連の答えは前回述べた。今回は、それに続く第2の答えとして、言語研究において発話キャラクタを考える意義を述べておきたい。意義、というと読者はたとえば「ウソだよぴょーん」の「ぴょーん」のような、キャラ助詞の「発見」を思い浮かべられるかもしれない。つまり、文は終助詞で終わりだと思っていたら実はそうではなかった、なんと終助詞(「よ」)のさらに後ろに、話し手のキャラクタと直結するキャラ助詞(「ぴょーん」)が出現するのであった、これまでの品詞分類はキャラ助詞を想定していないし、これまでの文構造観もキャラ助詞の出現位置を想定していない、いかにも軽薄な表面的印象とは裏腹に、キャラ助詞は品詞分類や文構造観を進めるきっかけになり得る、というものである。わかりやすい話だとは思うが、キャラ助詞についてはあちこちで述べてきたので(第1回・第10回・第20回)、ここでは別の意義について述べておく。まず、「ら」抜きことばに関する次の文章を見られたい。

 ここで「ら」抜きことばについて考えてみよう。「見ることが可能」という意味で「見られる」と言わず「見れる」と言うのは「ら」抜きことばである。「寝ることが可能」という意味で「寝られる」ではなく「寝れる」と言うのも「ら」抜きことばである。「ら」抜きことばはなぜ現在、若者を中心に広まっているのか?

 それは、従来の日本語の文法システムでは、助動詞「られる」の機能が多すぎたからだ、という説明がある。「親に叱られる」の「られる」は受身を表し、「お客様が帰られる」の「られる」は尊敬を表す。「行く末が案じられる」の「られる」は自発を表し、「どうにか見られる」の「られる」は可能を表す。受身・尊敬・自発・可能と、助動詞「られる」は四つもの機能を負担させられ大変である。そのために、新しい世代は「可能」を一つはずして、「られる」の機能負担を四つから三つに軽減したのだ、という説明である。

 いかにももっともらしい話である。だが、そんな「られる」の機能負担の「大変さ」は、本当に私たちの「問題」なのだろうか。「「られる」と言うたびに、他の意味にとられてしまわないかとドキドキする」「この「られる」はどの意味だろうと相手を考え込ませるのは気の毒で見ていられない」などと私たちが悩み苦しみ、日本語コミュニケーションの明日を救うために若者たちが「ら」抜きことばの使用に踏み切ったのだとしたら、なぜ大人たちは「ら」抜きことばを賞賛せず、「教養のない若者の乱れたことば」などと心ない罵声を彼らに浴びせるのか。なぜ若者たちは自らの立派な動機を表明せず、会社訪問の時は「ら」抜きことばを使わないように気を付けないと、などとつぶやくのか。

 「ら」抜きことばにかぎらず、文法の説明に持ち出される「話し手」像は、とかく異常なまでに賢く、理知的な位置に押し上げられていないか。

[定延利之『煩悩の文法』「まえがき」pp. 10-11, 筑摩書房, 2008.]

 この期に及んで、自著から長い引用をすることになるとは思わなかったが、なにしろ私の考えそのものズバリが書かれていて(当たり前か)、便利なもので、お赦し頂きたい。現実とはかけ離れた、おそろしく理知的な「話し手」像を言語学者が持ち出したがるのは、「ら」抜きことばの広まりのような、ことばの変化(change)を説明しようとする場合だけではない。ジャーゴン(特定の職業やグループで使われる専門用語・仲間のことば・隠語)や若者ことばのような、ことばの変異(variety)を説明しようとする場合も同様である。

 ジャーゴンは、「外部者に意味を悟られないようにする」「集団への帰属意識を高める」「内部者どうしの結束を固める」「自分は業界の内部事情に詳しいのだとさりげなく自慢する」「純粋にことば遊びを楽しむ」「迅速に情報をやりとりする」上で効果的だから作られ、使われるのだというような、目的論的な説明がなされることがよくある。

 たしかに、ことさらに作られ使われる、いかにもあからさまなジャーゴンには、このような説明が当てはまることも多いだろう。だが、「普段なにげなく使っているが、考えてみれば、この言い方は他の集団でどの程度通用するのだろう」というような、気づかれにくいジャーゴンもある。

(25) 私は、某自動車メーカーで点火時期や燃料のセッティングをしていて、日々ノッキングと格闘?していますが、うちの会社ではノッキング=高負荷時に起こる異常燃焼でエンジン単体での現象、のことを指して言い、オーリィーさんのような現象の場合はサージとかスナッチと言って、エンジンのノッキングとは分離して考えています。(うちの会社だけの方言かもしれませんが。)(http://www.geocities.co.jp/MotorCity/9055/0403egeobook.html, 2005年4月15日)

 ある電子掲示板に投稿された文(25)の書き手は、自分の使っている「ノッキング」の定義が、自社でしか通用せず、相手と違うかもしれないと述べている。仮にこの懸念が当たっているとしても、この「ノッキング」に上述の目的意識を無理に結びつける必要はないだろう。

[中川(モクタリ)明子・定延利之「専門のことば・仲間のことば」、上野智子・定延利之・佐藤和之・野田春美(編)『日本語のバラエティ』p. 23, おうふう, 2005.]

 や、またやっちまった。しかし、自著は便利なんだから仕方がない。つまり、「ヨソの人間に悟られないように」「身内の自分たちだけで楽しむために」ジャーゴンや若者ことばをわざとしゃべるということももちろんあるだろうが、そうでない場合も上のようにあるのではないかということである。自分は特に何の目的も意図もなくしゃべっているが、そのことばが実はジャーゴンや若者ことばになっているという場合である。その時、「秘密保持や内部の結束のためですよね」などと事情通らしくささやかれ目配せされても、おもはゆいだけだろう。

 私たちがことばを発する際、「何らかの目的を設定し、その目的を果たすために、意図的にことばを使う」ということが、いつも成り立っているわけではない。しかし、いまの言語研究は等身大の「話し手」像を忘れて、そういう「上空飛行的思考」(あらら、言っちゃったよ)で済ませているところが随分ある。

 そして、ことばの変異と言えば、ジャーゴンや若者ことばのような社会的な変異だけでなく、忘れてはならないのが個人内の変異である。

 1人の人間がしゃべることばの多様性には、私たちの想像を超えるものがある(第95回)。この多様性は従来「話し手は場面や状況、話す内容や相手に応じて、最適なスタイルを選び、それに応じてことばを使い分けるのだ」というもっともらしい形で片付けられてきた。この片付け方が「スタイルを選ぶ」「ことばを使い分ける」という点において、目的達成のために意図的にことばを使う理知的な「話し手」像を前提としていることは、特に説明を要しないだろう。では、本当にことばの個人内変異は、そのように片付け尽くせるのか? もしそうではないとしたら、どこがどう片付けられないのか? つまり、目的論的な発話観、道具的な言語観、そして意のままにスタイルを使いこなすひたすら理知的な「話し手」像の限界はどこにあるのか? その不足を補う新しい「話し手」像とは、どのようなものなのか?

 自在に変えられる「スタイル」と違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、(遊びの文脈を別とすれば)見た側も見られた側同様に気まずいもの。つまり私たちが自由に操れないことになっているもの。そういうものが私たちの日常生活には確かにあると、とりあえず「直感で思い当たって頂いて」(第94回)、それを「キャラクタ」と呼び、その観点から日本語社会を観察してきたのがこの連載である。(どうも日本語(現代日本語共通語)というやつは、キャラクタとの関わりがずば抜けて強いような気がしてならない。だからこそ、学習者にとってはなおさら大きな問題になるのかもしれない。)

 そして結局のところ連載の中で試みたのは、上に挙げた問題に対する一つの答を、できるだけ具体的でわかりやすい形で出すということである。この試みの成否はもちろん読者の判断に委ねるしかない。だが一つハッキリしているのは、「1人の話し手がしゃべることばが多様である」という現象をどう説明すればよいのかという考察を通して、言語研究の枠組み(発話観や言語観)を再検討し、飛躍する機会を、私たちが楽しんだということである。これを言語研究におけるキャラクタ考察の意義と言うことには、どなたも異論はないだろう。(つづく)

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【筆者プロフィール】

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

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【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
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