日本語社会 のぞきキャラくり 第100回(最終回) なぜキャラクタを考えるのか?(下)
2010年 7月 25日 日曜日 筆者: 定延 利之なぜキャラクタを考えるのか?(下)
なぜキャラクタを考えるのか? 日本語教育と言語研究の観点から、その理由を述べてきた(第98回・第99回)。言語研究と重なる部分があるが、最後に、コミュニケーション研究の観点からも付け足しておこう。
大人と子供の会話。子供が「だから、んーと……」のようにことばに詰まると、大人が「じゃあ、こんどの子供会に出るのはやめとくか」と助け船を出し、子供が得たりとうなずいたとする。
こういう会話について「子供の発言は言いよどまれており、流ちょうと呼べるものではなかったが、実は子供はこのしゃべり方で、大人からの支援を呼び込むことに見事に成功したのである」などと分析されることがあるかもしれない。(いや実際、あったりする。)こういう分析は、一面の真理をついている場合もあるだろうが、常にそうとはかぎらない。子供は大人の支援を呼び込む意図などなく、ただただ途方に暮れてことばに詰まったのであって、仮にこの会話直後に「コミュニケーションができなくてつらい。ごめんなさい」などと書き置きして死んでしまったとしたら、「大人からの支援を呼び込む」「見事に成功」分析は一体何だったのかということになる。
赤ん坊がよちよち歩くのが危ないと、見かねた親が抱きかかえたとしても、抱かれた赤ん坊は親の死角でVサインなど(たいてい)しないだろう。意図が必ずしもないところに意図を見立て、何気ない行動を「目的の達成」とみなすということは、コミュニケーションで生じるさまざまな事柄(たとえば、よちよち歩きやたどたどしい話し方)を、常に成功としか見ないことにつながりかねない。現実には、多くの人びとはコミュニケーションの成功とはほど遠いところにあり、コミュニケーションのことで悩んだり引きこもったり、死んでしまったりしている。そこまではいかないにしても、他人とコミュニケーションするほどおそろしく、うっとうしいものはないと感じている人は、少なくはないだろう。
コミュニケーション参加者たちの絶え間ない「成功」ではなく、現実の「幸」と「不幸」を捉えるには、意図とは必ずしも結びつかない等身大の「話し手」像にこだわる必要があるだろう。たとえば、『白い巨塔』(1969)の佐々木よし江未亡人や、『或る女』(1911-1913)の田川夫人の「不幸」とは、つい昨日まで『格上』だったのに落ちぶれてしまい、『格下』だったはずの者に『格上』として振る舞われ、それを認めることができずに戸惑い憤慨するというものだった。それを冷ややかに眺めやる業者の野村や早月葉子の「幸」とは、新しい『格上』としてのものだった(第49回~第52回)。まあ、あまりさわやかな例ではないけれども、この連載では、キャラクタを考えることで、コミュニケーションの「幸」「不幸」の一端には触れられたかと思う。
コミュニケーションにおける私たちの「幸」と「不幸」を「キャラクタ」的な観点から捉えようとする試みとしては、すでに瀬沼文彰『キャラ論』(STUDIO CELLO, 2007)や相原博之『キャラ化するニッポン』(講談社, 2007)がある。だが、これらは小泉長期政権や登校拒否にも論が及ぶような、最近の日本の世情や若者のコミュニケーションに焦点を当てたものである。たとえば太宰治の戯曲『春の枯葉』(1946)で、若い男女が「あなたの兄さんは、まじめじゃからのう」「あなたの奥さんだって、まじめじゃからのう」と『老人』のように言い合う遊びの場面を取り上げて「私たちは昔から、こういうことをずっとやってきた」とするこの連載は(第10回)、「最近」や「若者」に限らない形で、日本語社会の「コミュニケーション」を、さらに「ことば」を論じようとしたものであって、そもそも論じようとする対象がこれらとは異なっている。
対象の違いは当然ながら、「キャラクタ」に対する考えの違いを生む。たとえば、相原氏の上掲書で紹介されている伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ―』(NTT出版, 2005)では、マンガ表現が論じられる中で、「キャラクタ」と「キャラ」が別物として区別されている。それは、両者を区別することがマンガ表現論にとって有効だと伊藤氏が判断されたからだろう。また、瀬沼氏が自著の中で「キャラクタ」「アイデンティティ」「役割」いずれとも違ったものとして「キャラ」という用語を考えられるのも、それが最近の若者の人間関係やコミュニケーションを論じる上で有効だと瀬沼氏が考えられたからだろう。同様に、私が「キャラクタ」と「キャラ」を区別しない一方で、これらと「スタイル」「人格」との違いにこだわってきたのも、日本語社会のことばとコミュニケーションを論じる上で、この措置が有効だと考えるからである。それぞれの論者が、論じたいことに応じて独自の「キャラ(クタ)」定義を持つことは、当たり前のことだろう。
もちろん、統一的な「キャラ(クタ)」論をあれこれ考えてみることは、私にとっても楽しいことではある。マンガ表現を対象としつつも、その論を通して「他の表現行為や学問分野、社会的な事象と接続する回路が開かれる」という伊藤氏の開放的な考えは、伊藤氏一人だけのものだけではない。だが、分野を超えて、それぞれの「キャラ(クタ)」論どうしを結びつけるにはまず、他の「キャラ(クタ)」論と結びつけるべき私自身の「キャラ(クタ)」論をはっきりさせる必要がある。
相手に応じて自在に変えてよいスタイルと違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、「うわ、こいつ、オレの前では猫かぶってたんだ」「この人、強い相手にはとことん弱いな」「あの人、恋人の前ではこんな3頭身になっちゃうんだ」などと、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、見られた方だけでなく、見た方も気まずいもの。かといって、「人格」ほど根本的ではないもの――このような「キャラ(クタ)」の定義で、日本語社会のことばや、コミュニケーション(の幸・不幸)がどのように論じられるのか。この連載ではこれを、なるだけ具体的に示したつもりである。
ここで定義された「キャラ(クタ)」は、「スタイル」「人格」と併せて、本来的には「帰属(attribution)」という社会心理学的な観点からまとめ直せると私は考えている。だが、そのような試みに乗り出す余裕は少なくとも今の私にはない。この連載で述べてきたのは結局のところ、日本語社会において、1人の話し手が発することばの多様性や、コミュニケーションの幸・不幸を捉えるには、「スタイル」と「人格」だけでは限界があるということに尽きる。そのことさえ読者に納得いただければ、小論の目的は果たせたかと思う。
長い間のご愛読ありがとうございました。
* * *
お断り:小論の中で表記の統一をとるため、文献にある「キャラクター」を、今回「キャラクタ」という表記で引用させていただきました。連載中、厳密には「日本語を母語とする者」「日本語を非母語として学習する者」と書くべきところを、わかりやすさを最優先して「日本人」「外国人」とした箇所があることも、併せてお断りしておきます。また、『おかま』『外人』『おやじ』など、差別的ニュアンスを持つこともある語群をキャラクタ名として使っているのは、キャラクタを観察する上で差別意識を明るみに出すことが必要と判断したためで、差別意識を助長する意図はありません。ご理解頂ければと思います。
* * *
お礼:本務校である神戸大学、非常勤先の関西学院大学、京都大学(五十音順)の学生諸君には、さまざまな有益な意見をいただきました。また、原稿のアップや画像については毎回、三省堂辞書出版部の荻野真友子さん、山本康一さんにお世話になりました。ここに記して謝意を表したいと思います。小論は、日本学術振興会の科学研究費補助金による基盤研究(A)「人物像に応じた音声文法」(課題番号:19202013、研究代表者:定延利之)、基盤研究(B)「役割語の理論的基盤に関する総合的研究」(課題番号:19329969、研究代表者:金水敏)の成果の一部です。
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第99回
2010年 7月 18日 日曜日 筆者: 定延 利之なぜキャラクタを考えるのか?(中)
なぜキャラクタを考えるのか? キャラクタを考えることに、どんな必然性や利点があるのか?――この問いに対する日本語教育関連の答えは前回述べた。今回は、それに続く第2の答えとして、言語研究において発話キャラクタを考える意義を述べておきたい。意義、というと読者はたとえば「ウソだよぴょーん」の「ぴょーん」のような、キャラ助詞の「発見」を思い浮かべられるかもしれない。つまり、文は終助詞で終わりだと思っていたら実はそうではなかった、なんと終助詞(「よ」)のさらに後ろに、話し手のキャラクタと直結するキャラ助詞(「ぴょーん」)が出現するのであった、これまでの品詞分類はキャラ助詞を想定していないし、これまでの文構造観もキャラ助詞の出現位置を想定していない、いかにも軽薄な表面的印象とは裏腹に、キャラ助詞は品詞分類や文構造観を進めるきっかけになり得る、というものである。わかりやすい話だとは思うが、キャラ助詞についてはあちこちで述べてきたので(第1回・第10回・第20回)、ここでは別の意義について述べておく。まず、「ら」抜きことばに関する次の文章を見られたい。
ここで「ら」抜きことばについて考えてみよう。「見ることが可能」という意味で「見られる」と言わず「見れる」と言うのは「ら」抜きことばである。「寝ることが可能」という意味で「寝られる」ではなく「寝れる」と言うのも「ら」抜きことばである。「ら」抜きことばはなぜ現在、若者を中心に広まっているのか?
それは、従来の日本語の文法システムでは、助動詞「られる」の機能が多すぎたからだ、という説明がある。「親に叱られる」の「られる」は受身を表し、「お客様が帰られる」の「られる」は尊敬を表す。「行く末が案じられる」の「られる」は自発を表し、「どうにか見られる」の「られる」は可能を表す。受身・尊敬・自発・可能と、助動詞「られる」は四つもの機能を負担させられ大変である。そのために、新しい世代は「可能」を一つはずして、「られる」の機能負担を四つから三つに軽減したのだ、という説明である。
いかにももっともらしい話である。だが、そんな「られる」の機能負担の「大変さ」は、本当に私たちの「問題」なのだろうか。「「られる」と言うたびに、他の意味にとられてしまわないかとドキドキする」「この「られる」はどの意味だろうと相手を考え込ませるのは気の毒で見ていられない」などと私たちが悩み苦しみ、日本語コミュニケーションの明日を救うために若者たちが「ら」抜きことばの使用に踏み切ったのだとしたら、なぜ大人たちは「ら」抜きことばを賞賛せず、「教養のない若者の乱れたことば」などと心ない罵声を彼らに浴びせるのか。なぜ若者たちは自らの立派な動機を表明せず、会社訪問の時は「ら」抜きことばを使わないように気を付けないと、などとつぶやくのか。
「ら」抜きことばにかぎらず、文法の説明に持ち出される「話し手」像は、とかく異常なまでに賢く、理知的な位置に押し上げられていないか。
[定延利之『煩悩の文法』「まえがき」pp. 10-11, 筑摩書房, 2008.]
この期に及んで、自著から長い引用をすることになるとは思わなかったが、なにしろ私の考えそのものズバリが書かれていて(当たり前か)、便利なもので、お赦し頂きたい。現実とはかけ離れた、おそろしく理知的な「話し手」像を言語学者が持ち出したがるのは、「ら」抜きことばの広まりのような、ことばの変化(change)を説明しようとする場合だけではない。ジャーゴン(特定の職業やグループで使われる専門用語・仲間のことば・隠語)や若者ことばのような、ことばの変異(variety)を説明しようとする場合も同様である。
ジャーゴンは、「外部者に意味を悟られないようにする」「集団への帰属意識を高める」「内部者どうしの結束を固める」「自分は業界の内部事情に詳しいのだとさりげなく自慢する」「純粋にことば遊びを楽しむ」「迅速に情報をやりとりする」上で効果的だから作られ、使われるのだというような、目的論的な説明がなされることがよくある。
たしかに、ことさらに作られ使われる、いかにもあからさまなジャーゴンには、このような説明が当てはまることも多いだろう。だが、「普段なにげなく使っているが、考えてみれば、この言い方は他の集団でどの程度通用するのだろう」というような、気づかれにくいジャーゴンもある。
(25) 私は、某自動車メーカーで点火時期や燃料のセッティングをしていて、日々ノッキングと格闘?していますが、うちの会社ではノッキング=高負荷時に起こる異常燃焼でエンジン単体での現象、のことを指して言い、オーリィーさんのような現象の場合はサージとかスナッチと言って、エンジンのノッキングとは分離して考えています。(うちの会社だけの方言かもしれませんが。)(http://www.geocities.co.jp/MotorCity/9055/0403egeobook.html, 2005年4月15日)
ある電子掲示板に投稿された文(25)の書き手は、自分の使っている「ノッキング」の定義が、自社でしか通用せず、相手と違うかもしれないと述べている。仮にこの懸念が当たっているとしても、この「ノッキング」に上述の目的意識を無理に結びつける必要はないだろう。
[中川(モクタリ)明子・定延利之「専門のことば・仲間のことば」、上野智子・定延利之・佐藤和之・野田春美(編)『日本語のバラエティ』p. 23, おうふう, 2005.]
や、またやっちまった。しかし、自著は便利なんだから仕方がない。つまり、「ヨソの人間に悟られないように」「身内の自分たちだけで楽しむために」ジャーゴンや若者ことばをわざとしゃべるということももちろんあるだろうが、そうでない場合も上のようにあるのではないかということである。自分は特に何の目的も意図もなくしゃべっているが、そのことばが実はジャーゴンや若者ことばになっているという場合である。その時、「秘密保持や内部の結束のためですよね」などと事情通らしくささやかれ目配せされても、おもはゆいだけだろう。
私たちがことばを発する際、「何らかの目的を設定し、その目的を果たすために、意図的にことばを使う」ということが、いつも成り立っているわけではない。しかし、いまの言語研究は等身大の「話し手」像を忘れて、そういう「上空飛行的思考」(あらら、言っちゃったよ)で済ませているところが随分ある。
そして、ことばの変異と言えば、ジャーゴンや若者ことばのような社会的な変異だけでなく、忘れてはならないのが個人内の変異である。
1人の人間がしゃべることばの多様性には、私たちの想像を超えるものがある(第95回)。この多様性は従来「話し手は場面や状況、話す内容や相手に応じて、最適なスタイルを選び、それに応じてことばを使い分けるのだ」というもっともらしい形で片付けられてきた。この片付け方が「スタイルを選ぶ」「ことばを使い分ける」という点において、目的達成のために意図的にことばを使う理知的な「話し手」像を前提としていることは、特に説明を要しないだろう。では、本当にことばの個人内変異は、そのように片付け尽くせるのか? もしそうではないとしたら、どこがどう片付けられないのか? つまり、目的論的な発話観、道具的な言語観、そして意のままにスタイルを使いこなすひたすら理知的な「話し手」像の限界はどこにあるのか? その不足を補う新しい「話し手」像とは、どのようなものなのか?
自在に変えられる「スタイル」と違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、(遊びの文脈を別とすれば)見た側も見られた側同様に気まずいもの。つまり私たちが自由に操れないことになっているもの。そういうものが私たちの日常生活には確かにあると、とりあえず「直感で思い当たって頂いて」(第94回)、それを「キャラクタ」と呼び、その観点から日本語社会を観察してきたのがこの連載である。(どうも日本語(現代日本語共通語)というやつは、キャラクタとの関わりがずば抜けて強いような気がしてならない。だからこそ、学習者にとってはなおさら大きな問題になるのかもしれない。)
そして結局のところ連載の中で試みたのは、上に挙げた問題に対する一つの答を、できるだけ具体的でわかりやすい形で出すということである。この試みの成否はもちろん読者の判断に委ねるしかない。だが一つハッキリしているのは、「1人の話し手がしゃべることばが多様である」という現象をどう説明すればよいのかという考察を通して、言語研究の枠組み(発話観や言語観)を再検討し、飛躍する機会を、私たちが楽しんだということである。これを言語研究におけるキャラクタ考察の意義と言うことには、どなたも異論はないだろう。(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第98回
2010年 7月 11日 日曜日 筆者: 定延 利之なぜキャラクタを考えるのか?(上)
「行き当たりばったり」をモットーとする私でも、時にはハッと我に返ってしまうことがある。なんと、連載が100回に達しようとしているではないか。ひゃ、ひゃっかい。おそろしい。いったい私はここで何をしているのだろう?
発端は2年前、日本語教育学会のシンポジウムでキャラクタについて講演したことである。聞いて下さっていた三省堂のOさんから連載のお話を頂いて、これを軽~いきもちでお引き受けし、毎週毎週行き当たりばったりに、ちょろちょろと書きつけてきたのだ、私というやつは。それが100回になろうとしているのだ。おそろしい。
では、なぜ私は日本語教育学会でキャラクタについて講演したのか?
それは、外国人が日本語を学ぶ際に、キャラクタが大きな問題になるからである。これは、「なぜおまえはキャラクタを考えるのか?」と人から問われたら、私自身がおそらく真っ先に答えることでもある。
日本語能力1級試験を突破して日本に留学してきた、若い優秀な女子学生、Lさん。「明日は晴れますかな」と真顔で言われた時の脱力感は未だに忘れられない。Lさん、『老人』になるのはまだ早いよ。
「ダメネェ」「暑イワァ」などと『女』のことばを連発されていた、故・T先生。ご自分が日本人の奥様から何を学ばれたのか、最期までよくわかっていらっしゃらなかったのではないだろうか。
これまた若い優秀な女子留学生、Hさん。日本の大学院に来て、たまたま見かけた日本人の男子学生I君に、こう話しかけたという。
「ボク、ボク」
かわいそうに、I君は『幼児』扱いである。この2人がやがて夫婦になっちゃうんだから、世の中わかんないんだけどね。
キムタクがドラマで「オレ」と言っているからといって、教室でもどこでも「オレ」で通そうとしていたキミ。お疲れさま。日本語社会の壁は厚かったでしょ。
相手のことを「おまえ」って呼ぶのは、ふだん自分が『男』たちに「おまえ」って呼ばれてるからですよね。お姉さんの仕事、なんとなくわかっちゃったヨ。
いやいや、発話キャラクタだけではない。表現キャラクタの例も挙げておこう。たとえば小説の一節に「Aは目をむいてそう言った」とあるとする。これだけで、私たちは、Aは「品」があまり高くないと見当をつけることができる。しかし日本語学習者は、相当勉強している人でもこれがわからない。もちろん、「目をむく」とは驚きや怒りのために目を大きく開くことだ、ぐらいは知っている。しかし、『奥様』が驚愕のあまり「目を見開いてそう仰る」ことはあっても「目をむいてそう仰る」ことはふつうないということは知らない。
こういうことは、日本語を学ぶ者にとっては重要な問題のはずだが、日本語の先生はなかなか教えて下さらない。つまり、現在の日本語教育はこういうことに対応できていない。
なぜ日本語教育が対応できていないのか? もちろん、その一因は日本語教育界の事情に帰されるべきである。いまの日本語教育界には、「外国人が日本語を学ぶ際にキャラクタが大きな問題になる。だから何とかしなければならない」という認識がまだまだ欠けている。私の講演も、実は行き当たりばったりなもので、よく覚えていないが、きっとそのあたりに焦点があったのだろう。そうに違いない。
しかし、現在の日本語教育がキャラクタ教育に対応できていないことには、別の原因もある。日本語の先生がキャラクタについて教えられないのは、そもそもキャラクタというものがまだよく解明されていないから、つまりそのあたり研究が進んでいないからでもある。問題の根は日本語教育だけでなく、日本語研究にもあるということである。
キャラクタというものを私がことさらに取り上げているのは、一つにはこういう日本語教育上の必要性や利点を考えてのことである。
だが、日本語教育との関連を抜きにしても、キャラクタ、特に発話キャラクタを考えることは、言語研究にとって有益である。(つづく)
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日本語社会 のぞきキャラくり 第97回
2010年 7月 4日 日曜日 筆者: 定延 利之「あなた」と呼ばれたい?
話し手自身を指すことば(自称詞)を前回取り上げたついでに、相手を指すことば(対称詞)にも触れておこう。
留学生にたどたどしい発音で「アナタワ、センセイデスカ?」なんて言われても、私はそんなに腹も立たない。が、日本人学生に「あなたは先生ですか?」と言われたらむかついてしまう。それを言うなら「あのぅ、、、先生でしょうか?」あたりだろうが失礼な。いや、むかつくよりも警戒するかな。学生が先生らしい人間を「あなた」呼ばわりするということは、もはや状況は訴訟寸前のところまで来ているのかもしれない。あなたはそれでも先生ですか、いい加減にしなさい、何なら出るところへ出ましょうか、みたいな、ね。
「あなた」ということばは「わたし」とペアになって、日本語の教科書の最初に出てくる。外国人は誰に対しても「あなた」でオーケーである。が、それはあくまで『外人』キャラのことばでしかない。
たしかにテレビでコマーシャルを観ても、街角でアンケートを受けても、「あなたの肌年齢を若返らせる!」「あなたはどんな国に行ってみたいですか?」のように、「あなた」はよく現れる。だが、だからといって「あなた」がいつでも問題なしということにはならない。そもそもコマーシャルやアンケートというものは、見ず知らずの不特定多数の人々に向けられたもので、発信者側は受信者側と人間関係を築いていない。だからこそ「あなた」でよいのだろう。
知り合いに囲まれて暮らしているかぎり、相手を「あなた」と言う状況はなかなか出て来ない。私なんか、人を「あなた」と呼んだことは、少なくとも年が明けてからまだ一度もないもんね。不遜だもん。「あなた」は丁寧なことばだけど、基本的に『格上』が発する丁寧なことばだから。大学の法学部を卒業して、どこへ行く当てもなく、文学部に学士入学する試験を受けた時、面接で教授に「なぜあなたはこんな就職のないところにわざわざ来るんですか」と叱られたけど、あれぐらいの先生でないと「あなた」とは言えない。あっしなんざ、まだまだでさぁ。
もちろん、冒頭でも述べたように、法廷やその一歩手前といった公的な状況では、「1人の人間として誰もが平等に有する尊厳」とやらのせいだろうか、幾らかは人を「あなた」呼ばわりしやすくなるようではある。だが、容疑者は「あなた」と呼びやすい一方で、裁判長は「裁判長」であって「あなた」とは呼びにくいとしたら、「あなた」は結局そういう状況でも『格上』のことばらしさを保っているということになる。
え? マンガ『サザエさん』なら、サザエさんが「あなた、お弁当忘れてるわよ」なんて夫のマスオさんに言いそうだって? その時、サザエさんはマスオさんを見下しているのかって? もちろんそんなことはないだろう。この「あなた」は、婚姻関係あるいは恋愛関係にある者(多くは女性)が、その相手に対して発する「あなた」である。いまどきの若い女性にはあまりなじみのないものかもしれないが、たとえば山本周五郎は江戸時代の男女に次のような会話をさせているし、
「[前部省略] おらあ弥六ってえ者だ、これからあ、そう呼んで貰えてえ」
「あらいやだ、女房が亭主の名を呼ぶ者があるかしら、御夫婦と定(きま)ればあなたアって呼ぶわ、そう呼ばせてくれるウ」[山本周五郎『ゆうれい貸家』1950.]
ちょっと前の流行歌にもこれが実によく出ていた。「親しい関係にあるということは、お互いに『格上』として振る舞えるということである」と考え、さらに「男性が『格上』でぞんざいに「おまえ」と呼んだりするのに対して、女性は『格上』でも丁寧に「あなた」と呼ぶ」と考えれば、この「あなた」も上で述べた『格上』の丁寧な「あなた」とつながるのかもしれない。詳しいことはさらに調べてみなければわからない。
だが、この恋人宛ての「あなた」の扱いがどうであれ、今の段階ではっきりしているのは、「あなた」が、丁寧なことばのはずなのに、人によっては失礼と感じられてしまう状況がいろいろとあるということである。相手のことをぞんざいに「おまえ」「きさま」「てめえ」などとは呼ばず、丁寧に「あなた」と呼んでいるのに感じられる失礼さとは、そもそも話し手が本来の分を超え高位者として振る舞っているという、話し手のキャラ(『格上』)に由来するものではないだろうか。私が言いたいのはそういうことである。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第96回
2010年 6月 27日 日曜日 筆者: 定延 利之家庭で起きること
前回触れたように、日本の相当数の女性は電話を受ける際、それまでとは別人のように声を高めて(あるいは低めて)しゃべることがある。たしかに、電話の相手はそれでいいかもしれない。だが、傍らの人間にしてみれば、それまでとは打って変わった電話用の声を聞かされ、キャラクタを取り繕う舞台裏を見せつけられるのは妙な気分である。
こういうはずかしいことをして平気でいられる場といえば、もちろん代表格はウチ(家)だろう。だって、家族って多かれ少なかれ運命共同体だもん。たとえ取り繕われたウソでも、ママは世間的には『上品な奥様』でいてくれた方が、パパもボクもワタシも体裁いいから、ママが電話口で声を高めてもみんな黙認だもんね。ソトヅラはとことん『紳士』だけどウチでは気むずかしい『坊ちゃん』だとか(第92回)、ソトではクールな八頭身だけどウチでは三頭身の『幼児』だとか、コンパでは上品な『お嬢様』だったのがウチに帰ったら靴も服も脱ぎ散らかして、それこそ飲み過ぎてゲロはいてるとか(第93回)、パパやボク、ワタシにしても、叩けばホコリが出たりするけど、ま、お互い目をつぶるところは目をつぶりましょう。
いや、ウチがキャラ取り繕いの舞台裏として認知されやすい原因は、いま述べた「運命共同体」に尽きるものではないだろう。「人物Aの父親は人物Bの夫でもある」「人物Cにとっての娘は人物Dにとって姉である」というように、ウチには、職場のようなソトにひけをとらない、多様な人間関係の重なり合いがある。しかもそれらの関係は、家族(A~D)が一堂に会することによって、しばしば同時に顕在化する。その「一堂」がウチである。誰に対しても一つのキャラクタで通そうとすることの限界が、ウチではあまりに明らかなのかもしれない。
前回取り上げたニック・キャンベル氏は、或る日本人女性の数年間にわたる膨大な日常会話データの調査もおこなっている。それによれば、話し手の声の調子は、たとえば娘相手には高い声でしゃべり、夫相手だと硬い声でしゃべるという具合に、相手が家族の中でも誰であるかによって大きく違っていたという。(Campbell, Nick, and Mokhtari, Parham. 2003. Voice quality: the 4th prosodic dimension, ICPhS2003, 2417-2420, http://www.speech-data.jp/nick/feast/pubs/vqpd.pdf)。
そういえば川端康成の『舞姫』(1950-51)では、21歳独身の主人公・矢木品子が自分のことを「品子」「私」と2通りに呼んでいる。父親の元男(3回中3回)、母親の波子(55回中49回)、母親の助手で品子より3歳年上の、幼なじみの日立友子(7回中7回)に対しては基本的に「品子」である。他方、弟の高男(1回中1回)や、気乗りしない結婚を迫ってくる先輩の野津(5回中5回)、それから母の恋人の竹原(1回中1回)に対しては「私」と言っている。「私」の例が少なく、はっきりしたことはわからないが、この「品子」と「私」の違いは、「相手が目上か目下か」「相手が身内か否か」といったありきたりの観点では説明できそうにない。むしろ、『子供』キャラの自分を出して甘えられるなら「品子」、甘えられない、あるいは甘えたくなければ「私」と考える方がすっきりする。キャンベル氏のような科学的な手法とは比べものにもならないが、たとえば家の中で、親相手にしゃべる場合と弟相手にしゃべる場合で、品子のキャラクタが微妙に変わっているということは、ありそうな話ではないだろうか。
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第95回
2010年 6月 20日 日曜日 筆者: 定延 利之電話口で起こること
「コミュニケーションやことばの研究に、キャラクタという考えを取り入れる必要がある」という新しい考えを、皆(一般の人たちだけでなく、学問的背景を異にするさまざまな研究者や同業者も含む)に理解してもらうには、どうすればよいだろうか?
私自身は前回述べたように、手を変え品を変え、さまざまな実例を示して、キャラクタという考えの必要性を皆に直感的に「思い当たってもらう」ことこそが現時点の私にできる最善のやり方だと考え、この連載ではまさにこれを実践している。
だがもちろん、私の考えは私の考えに過ぎない。キャラクタという考えの必要性を「科学的」に示そうとする試みも実は始まっている。たとえば、モクタリ・明子&キャンベル・ニックの共著論文「人物像に応じた個人内音声バリエーション」(岡田浩樹・定延利之(2010編)『可能性としての文化情報リテラシー』(ひつじ書房)所収)は、或る1人の話し手がさまざまな相手と電話で対話した際に発した30個の音声を収録し、この音声を使って行った実験を報告している。その報告を私のことばでわかりやすく言えば、次のようになる。
実験の被験者として選ばれたのは、この話し手やその対話相手とは何の面識のない人たちである。この被験者たちに「ここに30個の音声があります。これらを一つ一つよく聞いて、音声を話し手別にグループ分けしてください」と指示したところ、もちろん本当はこれら30個の音声はたった1人の話し手の声なので分けようがないはずだが、被験者たちは見事に全員、その30個の音声を複数のグループに分けてみせたという。さらに、「それぞれのグループの音声を発した話し手は、どんな人だと思いますか?」と被験者たちにアンケートでたずねると、被験者たちは、グループごとに年齢層・外見などが異なる話し手像をちゃーんと答えたのだそうだ。最後に「実はこれ、全部1人の人の声です」と告げたところ、被験者たちは皆、大変驚いた様子だったという。
これらの結果が示しているのは、「1人の話し手が相手に応じて発するしゃべり方のバリエーションが、被験者たちの想像をはるかに超えていた」ということである。逆の言い方をすれば、被験者たちは、「話し手は相手に応じてしゃべり方をさまざまに変える」ということぐらいはおそらく承知していたとしても、そのバラエティを現実よりも遙かに低く見積もってしまっていたということになる。被験者たち、いや私たちは、なぜ、こんなにも現実と合わない、低い見積もりを持つのだろうか?
それは、私たちがふつう、「良き市民」としてお約束の世界に生き、或る種の考えを受け入れることに慣らされているからではないか。「いま私の目の前でしゃべり、行動しているあなたは、まさにそのような人物なのだ、したがっていつでも、どこでも、あなたはそのような人物なのだと私は信じる。「いま私の前ではこんな感じだけど、私がいないところではどうだか」などとは私は思わない。私のことも、まさにこのような人物なのだと信じてほしい。あなたや私だけではない。人は皆(少なくとも私たちのお知り合いは皆)、それぞれの人格のままに、「素」で行動し、「素」でしゃべっているのだ」という考えを受け入れることにして、「変わらないことになっているだけで、本当は変えられるし、実際しばしば変わる」などといういかがわしいキャラクタの存在はきっぱり否定する、どころか思い至りもしないようにして生きている(社会的に生きるとはそういうことだろう)から、現実と合わない見積もりを平気で保持できているのではないか。
電話での対話といえば、かかってきた電話を受ける際に、日本の女性(その中心は主婦と言えるだろうか)は、それまでの声とは全く別人のような、ことさらに高い明るいヨソユキの声で「はいもしもし、○○でございます」などと始めることがあるようだ。私ならこの声の変化を持ち出して、キャラクタという考えの必要性を読者に「思い当たってもらう」のをねらうところだが、これは実は「ことさらに低い(落ち着いた)声で話し始める」という逆の女性も少数ながらおり、そう一概には言えないようだ。というわけで今回は、キャラクタに関する「科学的」アプローチの例を紹介するついでもあったことだし、親しい研究仲間のフンドシで相撲をとらせていただいた。
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第94回
2010年 6月 13日 日曜日 筆者: 定延 利之権威のある有名どころの不自然な文章(下)
前々回・前回と見てきたように、夏目漱石の『行人』では弟が兄に「~ですぜ」「~でさあ」と言う。坂口安吾の『不連続殺人事件』では名探偵がやはり「~でさあ」「~ませんぜ」と言い、女中が「奥様、お嬢様はゲロはいて、~」と言うのであった。壺井栄の『二十四の瞳』では、ヒロインが「~ますな」と言い、にやりと笑ったりするのであった。いくら権威ある有名どころの文章とはいえ、このような不自然な表現を含んだものを取り上げていくことは、日本語とキャラクタの関わりを見る目をかえって曇らせ、両者の関係を歪ませることになりはしないか?
たしかに、そういうことはあるかもしれない。だが、そんなことはあまり心配しなくていい。なにしろここで私たちが問題にしているのは、現代日本語という、私たちがそれなりに直感を利かせることのできることばの世界なのだから。
『行人』の弟や『不連続殺人事件』の名探偵が「~ですぜ」「~ませんぜ」「~でさあ」と言うこと、『二十四の瞳』のヒロインが「~ますな」と言うことは、たしかに現在のことばとしては不自然である。だが、それは私たちが直感でわかることである。これらは現在の日本語の例としては認めなければいい。それだけの話である。
他方、『不連続殺人事件』における女中の発言「奥様、お嬢様はゲロはいて、苦しみなすっていますが」は、「奥様」「お嬢様」ということばの上品さや「ゲロはいて」ということばの下品さに対して鈍感な、或る種の『田舎者』キャラの言動として、現在でもそれなりに理解できる。
また、『二十四の瞳』のヒロインが「にやり」と笑うのは、これが直前の章から八年後の場面冒頭であって、このヒロインがヒロインとしてではなく、正体不明の女として登場しているということからすれば、現在の感覚からしても、もっともなことだろう。
だから、「お嬢様はゲロはいて」や「にやり」は、現在ではもう古すぎて通用しないとして片付けるわけにはいかない。現在でも通用する日本語、但し話し手や場面に一ひねりある例として認めればいい。
こういうことは、私たちは直感的にわかるから、話はかんたんである。直感を使うべきところで、使わない手はない。
言語コミュニケーションの根本問題、つまり私たちが集まってことばで何をしているのかという問題に対する私たちの理解は、残念ながらごく部分的なものにとどまっている。或る特定の言動が、言語コミュニケーションの世界全体の中でどのような位置を占めているのか、それを知ることさえ、私たちにはまだまだ難しい。位置を知りたくても、そもそも言語コミュニケーションの世界の極点や赤道がまだ発見されておらず、経度や緯度が割り出せない。それぐらい、私たちは言語コミュニケーションの世界をわかっていない。
このように言語コミュニケーションに対する私たちの理解が限られているのは、そもそも言語コミュニケーションにおける「意味」というものが、その世界に生きる者が直感によって生み出すものであって、世界の「外側」から客観的に計測し尽くせるものではないということによるのではないか。何かを正面きって考察しようとする際には、直感は、とかく排除されてしまいがちだが、私たち自身の言語コミュニケーションを考察する場合にかぎって言えば、直感は客観的計測とは別に、重要な一つの手段たり得るのではないか。
「日本語社会の考察には、キャラクタという概念が必要」ということを主張するのに、私がややこしい数式やグラフを持ち出さず、名だたるものとはいえ、文学作品の断片ばかりを取り上げているのは、読者に、キャラクタというものに直感で思い当たってもらうことがベストだと考えているからである。
ま、これって結局、「そういう作品が好きだから」ってことかもしんないけどね。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第93回
2010年 6月 6日 日曜日 筆者: 定延 利之権威のある有名どころの不自然な文章(中)
前回取り上げた坂口安吾の『不連続殺人事件』は、数件の殺人事件とは別に、もう一つの衝撃的な「事件」が女中の口から語られる点でも忘れがたい作品である。それは「お嬢様ゲロはき」事件である。
泣き出した珠緒さんを抱くようにして、あやかさんが連れ去る。十分ほどして戻ってくると、追っかけて女中がやってきて、
「奥様、お嬢様はゲロはいて、苦しみなすっていますが、海老塚さまに」海老塚はムッと顔をあげて、
「バカな。ヨッパライの介抱に医学者が往診するなんて、女王様だってありゃせん。さがれ」凄い見幕だった。[坂口安吾(1947-48)『不連続殺人事件』]
うーむ。果たして「お嬢様」が「ゲロはいて」よいものであろうか。発話キャラクタと同様(第56回)、表現キャラクタに関しても、一貫した形で現れるのが通例だとすると、「お嬢様は」と来れば、それに続くのは「ご体調を崩されて」ではないだろうか。うんとリアルに述べたところで「召し上がったものをお戻しになって」あたりであって、「ゲロはく」はないだろう。逆に、どうしても「ゲロはいて」と言いたいのなら、その主体は「お嬢様」ではなくて、特に取り立てて「品」が感じられない「珠緒さんは」、あるいは「あの人は」ぐらいで表現されるのがふつうではないか。
権威ある有名どころの文章が不自然だという例はまだまだある。たとえば壺井栄(1952)『二十四の瞳』では、三児の母とはいえ、まだ若いヒロインが「こまりますな」としゃべっている。「~ますな」だって。おまけにこのヒロインったら、「にやり」と笑っているぞ。正義の味方が「にやり」と笑っていいのか。
おたがいの品物をなげくようにいうと、そうだというようにおじいさんは首をふり、
「やみなら、なんぼでもあるといな。」
そして、はっはっとわらった。おく歯のないらしい口の中がまっ暗に見えた。女は目をそらしながら、
「きょう日(び)のように、なんでもかでもやみやみと、学校のかばんまでやみじゃあ、こまりますな。」
「銭(ぜに)さえありゃあなんでもかでもあるそうな。あまいぜんざいでも、ようかんでも、あるとこにゃ山のようにあるそうな。」
そういって歯のない口もとから、ほんとによだれをこぼしかけたところは、あま党らしい。口もとを手のひらでなでながら、てれかくしのように、むこうがわをあごでしゃくり、
「ねえさん、あっちでまとうじゃないか。日なただけはただじゃ。」
そういってさっさと反対がわ乗り場の方へ道をよこぎった。ねえさんとよばれて思わずにやりとしながら、女客もあとを追った。[壺井栄(1952)『二十四の瞳』]
再び言おう。権威ある有名どころの文章を取り上げていけば、こういう不自然なものをデータとして認めなければならないハメに陥るのではないか。それは、日本語とキャラクタの関わりをかえって分からないものにしてしまわないだろうか?(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第92回
2010年 5月 30日 日曜日 筆者: 定延 利之権威ある有名どころの不自然な文章(上)
夏目漱石の『行人』には、書き手(「自分」)である弟が、兄について語るくだりがある。
自分ばかりではない、母親や嫂に対しても、機嫌(きげん)の好い時は馬鹿に好いが、一旦(いったん)旋毛(つむじ)が曲がり出すと、幾(いくか)日でも苦い顔をして、わざと口を利(き)かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変わった様に、大抵な事があっても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴(こうりょはん)であった。だから彼の朋友(ほうゆう)は悉(ごとごと)く彼を穏やかな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれど矢っ張り自分の子だと見えて、何処(どこ)か嬉(うれ)しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入(い)ろうものなら、自分は無暗に腹が立った。一々その人の宅(うち)まで出掛けて行って、彼等の誤解を訂正して遣りたいような気さえ起った。
[夏目漱石(1912-13)『行人』]
人前で、兄がいかにも「素」で通しているようでいて、実は密かに取り繕っているもの。その舞台裏を見ている自分が、時折ぶち壊してやりたくなるもの。それはもちろん、兄の『紳士(円満な好侶伴)』キャラである―よしよし、いい調子いい調子。前回も述べたように、この連載で中心に取り上げたいのは、こういうちょっと古い、でも一応「現代日本語」と言えそうな、権威ある有名どころの文章なのだ。
いや、ちょっと待った。『行人』の弟は、兄に対してこんな風な口をきいている。神経を病む兄に「妻の節操を試してほしい。妻と和歌山へ行って一晩泊まってくれ」と言われた場面である。
「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、殊に現在の嫂(あによめ)ですぜ」
「人から頼まれて他(ひと)を試験するなんて、―外の事だって厭(いや)でさあ。況(ま)してそんな……探偵(たんてい)じゃあるまいし」
いくら『目下』としてしゃべるにしても、弟が兄に「~ですぜ」「~でさあ」などと言うのは、現代の感覚としておかしくはないか。
探偵が出てきたついでに言えば、坂口安吾の『不連続殺人事件』の中でも、巨勢(こせ)という若い名探偵が、私淑する作家(私)に対して、次のように「~でさあ」「~ませんぜ」としゃべっている。これも現代の感覚ではちょっと変だろう。
「それが分れば、犯人は分りまさアね。だが、恐ろしく計画的な犯罪ですよ。すべてがメンミツに計算されているのでさ。日本に於(お)ける、最も知的な、最も雄大な犯罪なんでしょうな。この犯人は天才でさアね。インテリ型のケチな小細工がてんで黙殺されいるところなど、アッパレ千万というものでさ。扉を糸に結んで自然にしまる装置をするとか、密室の殺人を装うとか、そういう小細工は小細工自身がすでに足跡というものでさア。すでに一つの心理を語っているではありませんか。この犯人は、常に心理を語ることを最も怖れつつしんでいまさアね。[中略] 目的の殺人はとっくに終っているのかもしれませんぜ」
「この犯人は、八月九日の予告を出したから、必ず八月九日に決行するというバカみたいに義理堅いトンマじゃありませんぜ」
[坂口安吾(1947-48)『不連続殺人事件』]
いかに権威ある有名どころの文章とはいえ、このような不自然なものを取り上げていくことは、日本語とキャラクタの関わりを見る目をかえって曇らせ、両者の関係を歪ませることになりはしないだろうか?(つづく)
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日本語社会 のぞきキャラくり 第91回
2010年 5月 23日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタ考察の方法論(下)
「キャラクタ」という考えを受け入れなければ説明できないと思える事例は、ごく最近の動画や文字資料にも豊富に見つかる。前回はその一例として「嵐」の櫻井翔氏の発言や、浅井尚子氏の『お魚菜時季』を示したわけだが、そういうものは、おじさん、この連載ではあんまり取り上げないの。
いやいや。そういうのが嫌いってわけじゃないよ。「嵐」なんか、ファンクラブに入ってるぐらいだもん。うん、ウソだけど。でも『お魚菜時季』なんか、連載68が欠番だとか、浅井水産はあのビルの1階だとか、好きでよく知ってるもん。これはホント。(マニアかな。。。)
じゃあ、なんで最近のものを取り上げないのかっていうと、そういうのをいっぱい出したら、誤解されて、「現代若者論」ってやつに絡め取られちゃうから。「なるほど。櫻井という若者のように、いまどきの連中は「自分」というものがしっかりできていないということですな」「いまの若者は、浅田という人のようにことばが乱れて、「自分」らしい一貫した文章が書けなくなっているわけね」みたいに。いくら「違います。これは最近の若者にかぎった話じゃないんです。私たちは昔からこうだったんです」って言っても、きいてくれないの。おじさん、知ってるもん。
かといって、こういう例も、おじさんはあんまり取り上げたくないの。
また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひひなびたるはにくし。
おなじことなれどもきき耳ことなるもの。法師の言葉。をとこのことば。女の詞。下衆の詞には、かならず文字あまりたり。
[清少納言『枕草子』池田亀鑑校訂, 岩波文庫]
「そう年寄りでもない人や男なんかが、わざと田舎くさく取り繕っているのは気にくわない」「同じ内容でも、僧侶の言い方と男の言い方、女の言い方で印象が違う。ゲスな人の言い方は必ずくどい」みたいな、2つともやっぱりキャラクタに関わってる話だけど、古いもん。こういうのを取り上げると「なるほど。平安時代はねー」とか「そうそう、清少納言はさー」って、その時代論とか筆者論の方に持って行かれかねないし、だいたいみんな「古くせェー!」って逃げてっちゃうじゃん。おじさん、知ってるもん。
だからこの連載では、「キャラクタは私たちの日本語社会に深く関わっている」ということをみんなに思い当たってもらうために、たとえば谷崎の小説がどうとか、太宰の脚本がこうとか、「現代」だけどやや古い、権威ある有名どころの人たちの文章を中心に取り上げてんの。わかる? おじさんの趣味はあくまで「嵐」なんだけどね。くどいか。
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2007年









