日本語社会 のぞきキャラくり 第80回 『関西人』たち(2)
2010年 3月 7日 日曜日 筆者: 定延 利之『関西人』たち(2)
『関西人』キャラに関して忘れがたいのは、高橋和巳の『悲の器』に出てくる横井検事だと前回書いた。横井検事って、どんな人? こんな人である。
「わしゃ、昔、アカでなあ」同室にいた関西出身の横井検事は、なぜか一向に昇進もせず、窃盗犯(せっとうはん)やスリの相手ばかりをさせられながら、やけくそに冗談を飛ばし、ろくに訊問もせずに、初犯者はみな不起訴にしていた。
「お前、なんでこんな阿呆(あほ)なことをやったんや。子供が中学へはいるのに、肩掛けカバンもゲートルもない。それで百貨店で盗んだんやと。阿呆か! 百貨店までゆくのに電車にのっていったんやろ。歩いて行ったんか? 電車で行ったと書いたある、ここに。電車賃をつこうてやな、ちょっと倹約したらやな、買えるもんを盗んで、なにが母親の愛情か。ゲートルぐらいなら、毛布の端っちょか、あんたの腰巻きをつぶしてでもできるやないか。そやろ、まあ、今度だけは勘弁したる。二度とこんなことをしたら刑務所ゆきやで。ええな。わかったな」
検事局内でも、横井検事の不起訴処分は一時、問題になったことがある。しかし、彼は会議の席でも、まるだしの大阪弁で滔々(とうとう)と初犯不起訴論をぶっておしとおしてしまった。
[高橋和巳『悲の器』1962]
ところが、である。「確信犯問題研究会が、公安課の鷲尾(わしお)検事を報告担当者として、一左翼青年の転向ないしは偽装転向を、その書簡および、訊問記録、保護観察記録によって分析していた時」だそうだが、こうなるのである。
「論議をもとにもどそうじゃないですか」私の隣の波戸田検事が、胃潰瘍(いかいよう)患者特有の臭い息をはきながら言った。「むしろ、A君が再逮捕ののち、予審判事にその法律論を語ったとすれば、彼が昭和六年になした転向声明は偽装だったということになるはずであり、いまはA君の行状に即して偽装転向の問題が論じられるべきだろう。その方が実りが多いんじゃないかね」
「なんの実り?」無作法にテーブルに片肘(かたひじ)をついていた横井検事が言った。珍しくその口調は関西弁ではなかった。「もともと、わたしは正木検事にさそわれて、この研究会に加わった。毎週の研究会に参加して、真鍋(まなべ)、佐野、三田村をはじめ、さまざまの判例や行状、そして性格分析などをも研究してきた。しかし、わたしは、ひそかに、われわれがいったい何を究(きわ)めようとしているのかを、いつか考えねばならぬときがくるだろうと思っていた。誰かがきりだすだろうと思っていたが、誰も言いださぬ。今日はいい機会だ。わたしが言おう。それはこうだ。われわれは取調べの側にあることによって、逆に問われているのだ。われわれの一人一人が、思想とははたして思惟(しい)する動物である人間にとって何であるのかと。思想とはその存在にとっていったい何であるのかと問われているとはお思いにならないか? われわれは人間が猿であることを証明しようとしているのか。人間が苦悩する人間的存在であることを知りたいのか? それとも、日本の民族の〈血と土〉の特質か」
すでに会場は、むかいあった相手の表情もよみとれぬほどに暗かった。闇(やみ)には外と内の区別はなく、黒板も、黒板のわきになお棒立ちしている鷲尾検事も、いまは一塊の影にすぎなかった。しかし、だれも立ちあがって戸口わきのスイッチをひねろうとはしなかった。横井検事の声はつづく。
「学問と研究の崇高性はいったいどこにあるのか。学問もまた人間が人間であることの誇りと明証の一部門であろうが、にもかかわらず、われわれの研究に崇高性の片鱗(へんりん)でもあっただろうか? ある一個の存在が、膨大(ぼうだい)な、圧倒的な権威の前にさらされ、裸の、二本の足と二本の手と、破れやすい皮膚と体をまもりきれぬ髪だけの存在に還元させられ、最低の、生きてゆく権利をまもるために絶叫する。それは絶叫であって、その声の悲しさだけが真実であり、その内容が A であろうと B であろうと、それは、〈生は生を欲する〉という一つの基本的原理を証明しているだけだ。当然のことだ。それを予審訊問(じんもん)の調書や裁判記録や、感想録や手紙から、この転向は家庭愛によっておこり、あれは拘禁中の反省、あれは性格、これは民族的自覚などと分類し、その確信犯の確信内容はかくかく、この国事犯の動機はかくかくと、そんなことを統計してみていったい何の意味があろうか。死者の血にたかる青蠅(あおばえ)のように、こんなことを分析し論じあって何の意味があろうか。正木検事、あなたはこの研究班の理論家だ。あなたは、もっともこの問題に熱心だ。答えてもらいたい。あなたをして、積極的にこの研究会に参加せしめている、あなたの情熱とはいったい何なのだ。いったい何を知りたいとあなたは思っておられるのか」
[高橋和巳『悲の器』1962]
えと、あの、横井検事のご発言があったところで、えと、まだまだ議論は尽きないみたいですけど、あの、そろそろ晩になりましたし、原稿の字数も、もう既定の倍ぐらい、いっちゃってるんで、続きはまた次回ということで、今回はあのこれで、ひとまず閉じさせていただけます、でしょうか、閉じさせてください。ありがとうございました。(つづく)
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第79回 『関西人』たち(1)
2010年 2月 28日 日曜日 筆者: 定延 利之『関西人』たち(1)
発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べてきたことに対して(第57回~第72回)、「観点が4つでは足りないのでは?」という、読者がまず感じそうな疑問を取り上げ、詳しく答えている(第73回~)。その過程で、ここしばらく触れているのが『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』その他の『異人』キャラである(第76回・第77回・第78回)。本筋から離れることを承知で、もう少しだけ『異人』キャラ、特に『関西人』キャラを取り上げておこう。
『関西人』がなんで『異人』やねん!というツッコミ、ごもっともである。谷崎潤一郎の『細雪』を例に挙げたこともあるにはあったが(第15回・第16回・第17回)、この連載で私たちが観察しているのは「日本語社会」とはいいながら、「日本語社会」のごく一部をなしている「共通語社会」に過ぎないということを遅まきながらお断りしてご寛恕を乞うしかない。あの、『江戸っ子』さんも『異人』扱いですから(第78回)、ここはどうかお納め下さい、すんません。
てなわけで、『関西人』がふつうなのは関西社会での話であって、「共通語社会」では違う。そこでは『関西人』は、強烈な『異人』臭を発しているのである。だからこそ、その『異人』臭を利用したニセ『関西人』も出てくる。たとえば山本周五郎の『眼の中の砂』に出てくる、或る画家である。
私の知人でT……という洋画家がいます。秋日会の会員で相当知られてもいるし、画はうす汚い妙なものですがよく売れるので有名でした。彼は湘南(しょうなん)地方の生まれにも拘(かかわ)らず巧みに関西弁をつかうのですが、それが「商売上のこつだ」というのでした。「標準語でやると絵なんか売りにくいが、関西弁でやればすらすらとゆくし、必要となれば相当ぼろいこともできる」こう云っていました。
[山本周五郎『眼の中の砂』(『寝ぼけ署長』(1948)より)]
うわー、この画家やだなー、この画家のしゃべる関西弁もやだなーという思いをとりあえず措いてみると(措いてみなくても)、この洋画家が商談をする局面で発動させている発話キャラクタ『関西人』は、商談を得意とする商人(あきんど)のキャラにほかならないということに気づく。「コミュニケーション行動に臨む際に、そのコミュニケーション行動を得意とするキャラクタが発動される」という「キャラ変わりの原則」は(第11回)、実は遊びの文脈にかぎらず、もっと一般的に観察できる原則である。
商談が難航してくると「そんな冷たいこと、言わんといて」と突然『関西人』キャラを発動させてくる、私が中近東の某国で遭遇した絨毯売りも(第5回)、これと似たケースと言える。だが、この絨毯売りの場合、商談の中でそこだけ急に関西弁という点もおかしいし、そもそもいかにも中近東なその風貌からして、関西人(というか日本人)になりおおせるはずもなく、『関西人』キャラは破綻(第74回)している。いや、逆にその破綻を狙ったギャグとして客の笑いを誘い、商談を有利に進めようとしたのかもしれない。計画倒産のような、というべきだろうか、あるいは偽装離婚のような、というべきか、キャラクタの破綻狙いというのもなかなか深いものがある。
しかしながら『関西人』キャラに関する忘れがたい事例といえば、やはり、高橋和巳の『悲の器』に出てくる横井検事だろう。(つづく)
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神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第78回 異人たち(下)
2010年 2月 21日 日曜日 筆者: 定延 利之異人たち(下)
「品」「格」「性」「年」という4つの尺度は、「私たち」の発話キャラクタをとらえる上では重要だが、「『異人』たち」(広義)の発話キャラクタをとらえる上ではそうではない。そもそも「私たち」の発話キャラクタと「『異人』たち」の発話キャラクタは性質が違う。「私たち」の発話キャラクタは、発動が「臨時的」とはかぎらず「本来」的にも発動され得るものであり、「品」「格」「性」「年」の尺度に沿ってびっしり隙間なく並んでいる。他方、「『異人』たち」の発話キャラクタはもっぱら「臨時」的に発動され、ポツンポツンと散発的なあり方をしている、と述べてきた(第76回・第77回)。このように発話キャラクタを「私たち」のタイプと「『異人』たち」のタイプに二分することは、ことばの実態ともよく合っている。
たとえば、『男』と違って『女』が体言の文を好むという現象を振り返ってみよう。そこで観察されたのは、『男』なら「雨だよ」と言うところで、『女』は助動詞「だ」なしで、むきだしの体言「雨」に「よ」を付けて「雨よ」と言う、といったことだった(第66回)。
だが、実はこの観察を乱す、やっかいな『男』ども、『女』どもがいるのである。
「あたりまえだよ」と言わず、体言「あたりまえ」に「よ」を直接付けて「あたりめぇよ」と見得を切る『男』。体言「俺」に「よ」を直接付けて「何を隠そう、それがこの俺よ」とうそぶく『男』。体言「こと」「わけ」に「よ」を直接付けて「知れたことよ」「俺のことよ」「いいってことよ」「てなわけよ」などと言う『男』。いったい何者か、だとぉ?
何言ってやんでぇ。決まってらい。こちとら『江戸っ子』よ。「あたりまえだよ」なんて言うかってんだ。そいつぁ、俺じゃあねぇ。俺の嬶(かか)ぁよ。
そうだよおまぃさん。そいつぁあたしのことばだよ。ちょっとあんた、文法屋かい? あたしゃこれでも女だよ。寝言言ってると承知しないよ。
と、このように観察を乱すやっかい者は、『江戸っ子』の男女だけではない。また例を挙げれば、「うれしいわ」と言う『女』のように、文末で「わ」を発する『男』たちもいる。といっても、「いま頃になって根拠書類を出せって言われても、そりゃあ無茶だな。そりゃあ誰だって困るわ」と理屈を語るような、あまり『男』っぽくない『男』たちのことではない。そいつらはいいのだ。あまり『男』っぽくない『男』が時として『女』のような口をきくことは別段不思議ではないのだから。
問題なのは、「おのれ、目にもの見せてくれるわ」などと憤怒に燃えて「わ」の文を吼える『侍』である。『侍』が怒るとこのように、「文末の「わ」は『女』っぽい。少なくとも『男』っぽくない」という、せっかくの観察が台無しになるのである。困った奴、とはなにごと。おぬしの方こそ、真っ二つにしてくれるわ。
以上で見てきたように、「発動のされ方」(第76回)、「あり方」(第77回)、「しゃべることば」(今回)という3つの点において、「『異人』たち」の発話キャラクタは、私たちの発話キャラクタと違っている。これらの点からすれば、「『異人』たち」のタイプと「私たち」のタイプという発話キャラクタの2タイプを分けて考えることは、それなりにもっともなことだと言えるだろう。
私がここしばらく述べようとしてきたのは(第57回~)、「それぞれの発話キャラクタの大体の特徴は、「品」「格」「性」「年」という4つの尺度に基づいて記述することができる」ということである。これは「『異人』たち」のタイプはとりあえず陳列棚にしまって、『私たち』の発話キャラクタに目を凝らした場合の話だという但し書きを、少し詳しく入れさせてもらった。
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定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第77回 異人たち(中)
2010年 2月 14日 日曜日 筆者: 定延 利之異人たち(中)
発話キャラクタについて「品」「格」「性」「年」という4つの観点を持ち出したが(第57回~第72回)、実はこれらの観点は『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』などの発話キャラクタの観察には有効ではない。そもそも発話キャラクタは2つのタイプに分けられるのであって、4つの観点でうまく観察できるのはそのうち1つのタイプだけだ、として前回(第76回)は、発話キャラクタの2タイプの違いを、まず「発動のされ方」に関して述べたのだった。今回は「あり方」に関してである。
発話キャラクタには、ポツンポツンと散発的にしか存在しないものと、びっしり稠密(ちゅうみつ)にひしめき合っているものがある。『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』などは前者、つまりポツンポツンと散発的である。
たとえば、『平安貴族』という発話キャラクタはあるが『平安庶民』という発話キャラクタはない。『奈良貴族』も『室町貴族』も発話キャラクタとしてはない。もちろん、現実には平安庶民や奈良貴族、室町貴族はいたわけだが、彼らのしゃべり方は特定のキャラクタの話し方(つまり役割語)として現代日本語社会に定着してはいない。発話キャラクタとしてはただ『平安貴族』がポツンとあるだけで、その周囲はない。「ポツンポツンと散発的」とは、こうした事情を指す。
同じことだが、発話キャラクタは外国人のうち、ごく一部の人たちのものしかない。たとえば、『欧米人』という発話キャラクタはあるが、『アフリカ人』という発話キャラクタはない。「ワタシ、ワカリマセーン」など、いかにも欧米人らしいしゃべり方というものは日本語社会において広く知られ定着しているが、同じことはアフリカ人には言えない。
『欧米人』という発話キャラクタは、その中身も散発的である。たとえば、『アメリカ人』キャラや『フランス人』キャラはありそうだが『リヒテンシュタイン公国人』キャラや『アンドラ公国人』キャラはなさそうである。
地方人についても同じことが言える。発話キャラクタは『東北人』キャラなど、ごく一部の地方人のものしかなく散発的で、それらを寄せ集めた『田舎者』という発話キャラクタはスカスカである。
「動物」もまた同様である。『ネコ』という発話キャラクタはあるがすぐ近くにいそうな『トラ』『ライオン』『ヒョウ』『チータ』といった発話キャラクタはない。「動物」の中では、『ネコ』や『イヌ』『ウサギ』などの発話キャラクタがポツンポツンと散発的にあるだけである。
やはり同様に、「ウソだよぴょーん」と言う『ぴょーん人』のような――ええっと、『ぴょーん人』みたいなのを何と言えばいいのだろう。宇宙人なのか何なのか。うーん、とりあえず「狭い意味での『異人』」と呼んでおくか。これに「古代人」「外国人」「地方人」「動物」なども含めたものを、広い意味での『異人』と呼ぶことにしておこう。
で、狭い意味での『異人』も、発話キャラクタは散発的である。文末で「ぴょっ」と言う『ぴょっ人』キャラ、文末で「ぴょぴょーん」と言う『ぴょぴょーん人』キャラ、文末で「ぴょきょーん」と言う『ぴょきょーん人』キャラのように、作ろうと思えばいくらでも作れるが、作ろうと思わなければ作られず、存在しない。これを可能なかぎり作ってやろうなどとは誰も思わない。結果的には散発的である。
このように、発話キャラクタが散発的にしか存在せず、隣近所が空いている発話キャラクタとは違って、発話キャラクタの中には、隙間無くびっしりと稠密(ちゅうみつ)に分布しているものもある。これは2次元の紙にたとえて言うなら、紙の上のどの点を指しても、その点の位置(縦の値、横の値)に応じた発話キャラクタが必ず見つかるということである。
この紙のたとえでは、「縦」「横」という2つの尺度が重要であることがわかってもらえたかと思うが、実はそれが「品」「格」「性」「年」という4つの尺度である。稠密でない、広い意味での『異人』の発話キャラクタはひとまず措いて、稠密な発話キャラクタの特徴をとらえようとすると、この4つの尺度が重要になるというのが私の言いたいことである。(つづく)
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定延利之(さだのぶ・としゆき)
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第76回 異人たち(上)
2010年 2月 7日 日曜日 筆者: 定延 利之異人たち(上)
「発話キャラクタを論じるのに、「品」「格」「性」「年」という4つの観点だけでは足りないのでは?」という疑問は、これまで(第73回・第74回・第75回)とはまた違った意味合いで発せられることがあるかもしれない。
それは、「まろは~でおじゃる」としゃべる『平安貴族』キャラや「ワカリマセーン」としゃべる『欧米人』キャラ、「おら、わがんね」としゃべる『田舎者』キャラ、「弁護士がニャ、財産をニャ、…」としゃべる『ネコ』キャラ、「ウソだぴょーん」などとしゃべる『ぴょーん人』キャラなどは、「品」「格」「性」「年」のどれの値をどう指定したところで、出てこないのではないかという疑問である。たとえば、『平安貴族』と『ネコ』の違いが「品」「格」「性」「年」の違いとは思えない、両者の違いを語るには「品」「格」「性」「年」以前に、そもそも「生物としての種」のような観点が必要ではないのかという疑問である。
まったくその通りである。いままで断るひまがなかったが、これを機会に言わせてもらおう。「品」「格」「性」「年」という4つの観点では、発話キャラクタのうち、これまで述べてきた以上にかぎられた発話キャラクタしかとらえられない。『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』などはすべてとらえられませんごめんなさい。
それなら「品」「格」「性」「年」という観点を持ち出したのはなぜかというと、「発話キャラクタ」は2つのタイプに区別することが可能であり、またその区別は必要だと思うからである。『平安貴族』『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』などは、このうち1つのタイプに属する。そして「品」「格」「性」「年」という4つの観点は、もう1つのタイプをとらえるためのものである。
これら2つの発話キャラクタのタイプを分けることが可能であり、必要だというのは、これらは「発動のされ方」「あり方」「しゃべることば」が違っているからである。まず「発動のされ方」について、具体例から述べよう。
たとえば、電話で友人に「やれやれ、これから長い会議の司会でおじゃるよ」と、ふざけて『平安貴族』キャラでこぼしていた人が、そのまま会議場でも「では皆さん、会議を始めるでおじゃる」などと『平安貴族』キャラで通すとはふつう考えられない。ふつうは「えー、ではそろそろ会議を、おー始めさせていただきます、スー」のように、「本来」の発話キャラクタ(とここでは便宜上言っておく)を発動させてしゃべるだろう。
つまり私たちが発話キャラクタを発動させる実態を考えてみると、そこには「本来」的な発動と、そうでない「臨時」的な発動がある。
たとえば、或る若者は、「本来」の『若者』っぽい発話キャラクタを発動させてしゃべりながら、時に遊びの文脈などで「臨時」的に、「まじめじゃからのぅ」のように『老人』っぽくしゃべったり、「明日も会議でおじゃるよ」のように『平安貴族』っぽくしゃべったりするかもしれない。このうち、『老人』っぽいしゃべり方とは、別人(たとえば或る老人)にとっては「本来」的なものかもしれない。ところが、『平安貴族』っぽい発話キャラクタの発動を「本来」的な発動とする人はいない。『平安貴族』だけでなく、『欧米人』『田舎者』『ネコ』『ぴょーん人』といった発話キャラクタは、「臨時」的に発動されることしかなく、ずっとそれで通されはしない。(つづく)
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日本語社会 のぞきキャラくり 第75回 破綻キャラ(後)
2010年 1月 31日 日曜日 筆者: 定延 利之破綻キャラ(後)
いくら豪快に飲み歌っても、それが『豪傑』と思われようとしてのことだとわかれば、もはやその人は『豪傑』ではない。何を言い、何を行うにしても、「自分はこういう者(たとえば『豪傑』)だ」と表現しようとする意図がそこに読み取られてしまえば、もはやその人の言動(豪快な振る舞い)は、そういう者(『豪傑』)の言動としては破綻しており通用しない。ところが時として、その破綻含みで、複合的なキャラクタが成立することがある。これが破綻キャラだ、というところまで話は進んだ(第74回)。
たとえば、『二枚目』を演じようとする表現意図が露わになってしまい、『二枚目』として破綻をきたした人物には、『キザ』という別のキャラクタが割り当てられる。『キザ』キャラとは、『二枚目』キャラを演じようと意図し、その意図ゆえに『二枚目』キャラとして破綻することによってできた破綻キャラである。
またたとえば、『お嬢様』を演じよう、カワイコぶろうとして意図が見抜かれ破綻した場合、その人物は『ブリッ娘(こ)』という別のキャラで語られることになる。『ブリッ娘』とは『お嬢様』キャラが破綻してできた破綻キャラである。
『ブリッ娘』といえば現代っぽいが、伝統的に『カマトト』と呼ばれてきたのも同じものである。この名前は「カマボコって、トト(魚)からできてるの?」とあどけなさを装うところから来ている。私たちは昔っから、こういうしらばっくれ合い、見抜き合いをやってきたのである。
そして、前回から問題になっている『オカマ』もまた、『女』を演出する意図が露呈している点で一種の破綻キャラと言える。
ここからは、別の疑問に対してすでに述べた回答(第73回)と変わらない。つまり、「発話キャラクタの「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。観点が4つでは足りないのでは?」といった疑問は、「発話キャラクタ」を「キャラクタ」と同一視してしまっている。
なるほど、「キャラクタ」を考える際には、『オカマ』は重要なキャラクタの一つ、破綻キャラの雄、いや雌とされるものだろう。だが、『オカマ』が『女』と大して変わらないしゃべり方をするのであれば、発話キャラクタの「性」としては『女』を認めておけばいい。
もちろん、『オカマ』と『女』でしゃべり方が違っている部分はあるだろう。たとえば「あたしたちオカマは」という語の連なりは、『オカマ』が発することはしばしばあるかもしれないが、『女』はまず口にしない。しかし、こうした違いは「『オカマ』は『オカマ』だが、『女』は『オカマ』ではないから」という当たり前の常識で説明できることであって、特にことばの問題として重視すべきものとは思えない(第27回参照)。
前回も述べたように、「品」「格」「性」「年」の4つの観点だけで発話キャラクタの全面がくまなく、十分にとらえられるとは、実は考えていない。主なところは見られるだろう、ぐらいの考えである。たとえば「あたしたちオカマは」としゃべる可能性に関する『オカマ』と『女』の違いといったものは、その「主なところ」には含まれず、見過ごされる。とりあえずはそれでいいのではないかというのが「4つの観点」を持ち出す真意である。
なお付言すれば、日本語社会において、どのようなキャラクタの破綻に対しても破綻キャラが用意されているわけではない。たとえば、日本語が下手な『外人』のはずだったのが、実はそれを演じていただけで日本語や日本文化に通じているということがバレてきた外国人タレントの場合、この破綻を何々キャラと言い当てることはできない。そろそろそういう言葉ができてもいいかもしれない。
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第74回 破綻キャラ(前)
2010年 1月 24日 日曜日 筆者: 定延 利之破綻キャラ(前)
発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べ(第57回~第72回)、さらに「観点が4つでは足りないのでは?」という、予想される疑問に答えた(前回)。だが、「観点が4つでは足りないのでは?」という疑問は、前回とは違った意味合いで発せられることもあるだろう。つまり、たとえば「「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。これでいいのか?」といった疑問である。ここではまず、私が「破綻キャラ」と呼ぶものから説明していこう。
そもそもキャラクタというものが、遊びの文脈を別とすれば表現意図とはなじまないということは、いくら強調してもしすぎることはない。たとえば、人から『豪傑』キャラと思われたいなら、山本周五郎の『豪傑ばやり』(1940)に出てくる「ニセ夏目図書」のように、やることなすことは周到に豪快を極めながら、それを演出する意図はみじんも気取られてはならない。(周五郎先生、ネタばれすみません。)
事実、図書がこの屋敷へ来てからの挙措言動は豪快を極めていた。朝起きるとからの酒で、言葉通りでん(「でん」に傍点)と腰を据えたまま浴びるように飲む。酔えば調子も節も度外れな声で放歌する、よく聞いていると、
――ああ やんれさの やんれさの ああやんれさの やんれさの やんれさの。
何処(どこ)まで行っても同じ言の羅列(られつ)なのだが、文句などに拘(こだ)わらぬところが実に壮絶で、なるほど豪傑というものは末節に関(かか)わらぬものだという気がする。
――ああやんれさの やんれさの なんだおまえたち、なにをきょろきょろしちょる。腹だ、腹だ、腹を据えて飲め。豪傑たる者が小さなことにくよくよするなッち、おまえらの事はこの夏目図書が引き受けたぞ、さあ歌え、やんれさの ああやんれさの やんれさの。
ざっとこういう次第である。[山本周五郎『豪傑ばやり』(1940)]
「これだけ飲んで歌ったから、私のことを『豪傑』だと思ってくれるよね」などと表現意図をひとこと漏らすだけで、『豪傑』キャラのイメージは木っ端みじんになってしまう。このことはこの連載の開始直後から(第3回)、ずっと述べてきたことである。
さて、或る人物が或るキャラクタを密かに演じている際に、その意図が他人に探知されてしまったとする。あ~あ、である。この場合、その人物は、もはやそのキャラクタとしては破綻しており通用しない。
だが時として、その破綻によって、その目標キャラではない、別の複合的なキャラクタが成立することがある。これが私の言う破綻キャラである。(つづく)
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第73回 キャラクタと発話キャラクタ
2010年 1月 17日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタと発話キャラクタ
発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べてきたことに対して(第57回~第72回)、読者がまず感じそうな疑問は、「観点が4つでは足りないのでは?」というものではないかと思う。なにしろキャラクタというものは万物に宿るのであって(第42回)、私たちはたとえば「B型」や「サソリ座」のように、血液型や星座からさえキャラクタを論じることができる。だから、4つでは到底足りないではないかというのがこの疑問である。
この疑問は、一見もっともに思えるが、実は「キャラクタ」と「発話キャラクタ」を同一視しているという誤りを犯してしまっている。「発話キャラクタ」は「キャラクタ」の一種であって、両者は同じではない。たしかに、キャラクタを論じるにあたっては実にさまざまな観点が必要である。しかし発話キャラクタについては、そのうち一部の観点だけで済むというのが私の考えである。
たとえば「美醜」という観点は、世に「美人論」や「ブス論」が絶えないように、キャラクタを考える上では重要なものだろう。だが、『美人』の話し手と『ブス』の話し手で、ことばが違うわけではない。なるほど、『美人』は「わたくしが存じておりますわ」、『ブス』は「あたいが知ってるってんだよ」など、読者はそれらしいことばの違いに思い当たられるかもしれないが、それはキャラクタの「美醜」の違いではなく「品」の違いである。美しくても下品な話し手は「あたいが…」としゃべり、醜くても上品な話し手は「わたくしが…」としゃべる。
またたとえば、「善悪」という観点は、キャラクタ一般を考える際には必要であり、さらに、ことばと関わるキャラクタにとっても必要なことがある。「ニタリとほくそ笑む」というのは『悪者』限定の動作であり、正義の味方の微笑は「笑みがこぼれる」と表現されることはあっても「ニタリとほくそ笑む」と表現されることはない(第43回)。だが、このように「善悪」の観点が必要なのは「表現キャラクタ」、つまりことばによって表現される、動作の行い手などのキャラクタ(第43回・第48回)である。ここしばらくの間(第57回~)、ずっと問題にしてきた「発話キャラクタ」、つまりことばを発する話し手のキャラクタには「善悪」の観点は必要ではない。次の2つのセリフは、このことをよく示している。
「げっへへ、これでよぉ、罪もない市民をよぉ、救えるってぇ寸法だぜ」
「げっへへ、これでよぉ、罪もない市民をよぉ、殺せるってぇ寸法だぜ」
セリフの内容は前の文が善、後の文が悪で大きく異なるが、しゃべり方としては「げっへへ」にしろ「よぉ」にしろ「ってぇ寸法だぜ」にしろ、『下品で格の低い年輩の男』あたりを思わせるという点で2つのセリフは違わない。もちろん、「内容」と「しゃべり方」の線引きは微妙な場合も少なくないし、『悪者』っぽいしゃべり方、『いい者』らしいしゃべり方は傾向としてはあるだろうが(詳細は勅使河原三保子(2004)「日本のアニメの音声に表された感情とステレオタイプ―良い人物と比較した悪い人物の声質―」『音声研究』第8巻第1号)、上のセリフで示したように、善悪が「しゃべり方」に直接関与するとは考えにくい。
B型人間のしゃべり方がA型やO型、AB型の人間のしゃべり方と違っているなら、発話キャラクタを「血液型」の観点から論じることに異存はない。サソリ座人間のしゃべり方が他の星座の人間のしゃべり方と違っているなら、発話キャラクタを「星座」の観点から喜んで論じる。だが、そうした違いが明らかでない現状では、「血液型」や「星座」の観点は取り上げない。「善悪」も同様である。発話キャラクタを観察するための観点としては、「品」「格」「性」「年」の4つで十分、ではないかもしれないが、まぁ、主なところは見られるだろう。
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定延利之(さだのぶ・としゆき)
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第72回 キャラクタの「年」(5)
2010年 1月 10日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタの「年」(5)
キャラクタの「年」を4類に分け、そのうち『老人』(第69回)と『幼児』(第70回・第71回)を紹介した。残る2つの類は『若者』と『年輩』である。これらは『老人』と『幼児』の間に位置する。
『若者』は、たとえば「気持ち悪いがかわいい」という意味で「キモカワ」、「半端でなく(すごい)」という意味で「パねえ」といった、いわゆる「若者言葉」をしゃべる。現実の若者は、「『キモカワ』『パねえ』って何それもう古いよ。今は――」という若者から「若者言葉など知らない。しゃべらない」という若者までさまざまだが、イメージとしての『若者』はいわゆる若者言葉をしゃべることになっている。
但し、助動詞がどう、間投助詞がどうといった、より文法的な面に目を転じると、『若者』特有のしゃべり方と呼べるものは案外少ない。たとえば「弁護士がよぉ、財産をよぉ、…」という、「戻し付きの末尾上げ」イントネーションで発せられる間投助詞「よぉ」(第67回)は、一見したところでは『若者』のしゃべり方と思えるが、よく考えてみると『若者』のしゃべり方とは言えない。これは『下品』なしゃべり方でしかない。年配でも品が悪ければ言うし、若くても上品なら言わない。
だが、『若者』に特徴的なものがまったく見られないわけではない。その一つは、形容詞否定形を上昇調イントネーションで発することである。たとえば、或る食べ物の味について、からいと思っている話し手が、「これ、からくない?」などと形容詞(「からい」)の否定形(「からくない」)で仲間に同意を求める場合を考えてみよう。この場合、「からくない」全体を上昇調でしゃべる、つまり最も低い声で「か」と言った後、少し高く「ら」、もっと高く「く」、さらに高く「な」、そして最も高く「い」と言うのは『若者』である。
とはいっても、このイントネーションは実はそれほど「若者」的なものではない。たとえば「行かない?」あるいは「行きません?」などと動詞否定形で相手を誘って同意を求める際に、動詞否定形を上昇調イントネーションで発するというしゃべり方が昔からある。『若者』の「からくない?」は、若年層の耳障りなしゃべり方として世の大人たちから叩かれているが、大人たちが動詞否定形で同意を求める時のしゃべり方をそっくり踏襲し、それを形容詞否定形で同意を求める時にも当てはめただけのものである。
『若者』のうち『女』、つまり『娘』に話を限定すると、特徴的な発音がさらに観察できる。小動物や子供を見て「いゅーん、くゎゅぃぃ」(いやーん、かわいいー)などと鼻を鳴らして身もだえするのは『娘』だけである。いったいこれは何だろう。かわいくしゃべろうとして『幼児』をまねるというのならよくわかるが、『幼児』はこんなしゃべり方はしない。『幼児』のかわいさを突き詰めていくと最終的にこうなるのか、あるいは『幼児』とはまったく別のものなのか、とにかくそういう言い方である。
『老人』と『若者』の間には『年輩』がある。『年輩』は「ドロンする」(消える)他のいわゆる「オヤジ言葉」を発するが、文法や発音の面で『年輩』特有のしゃべり方と呼べるものはなかなか見つからない。偉そうな言い方や媚びへつらった言い方とは、結局のところ『目上』や『目下』のしゃべり方、つまり「格」に応じたしゃべり方であり、「年」に応じたしゃべり方ではない。『老人』と『幼児』の間の年代は、「年」よりも「品」「格」「性」が大きな意味を持つと言えるかもしれない。
ここしばらく(第57回~)、発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」の観点から述べてきた。わかりやすさを心がけたつもりだが、おそらく読者の中にはさまざまな疑問が生じているだろう。予想される疑問に答える形で、発話キャラクタのあり方について、さらに説明を補いたい。
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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第71回 キャラクタの「年」(4)
2009年 12月 27日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタの「年」(4)
ことばを発するキャラクタの「年」の最下域、『幼児』を紹介するうち、話題が「動詞+です」に移ってしまった。ま、よいではないか。前回に引き続き、動詞に「です」が付いている実例を見てみよう。
さとなお氏の『人生ピロピロ』(2005, 角川文庫)第1章では、「大阪と違って東京本社では、同僚が昼食に時間をかけない。誰も昼食に誘ってくれない」という氏のやるかたない思いが述べられている。ひとしきり憤懣が綴られた後に続くのは、読者から、という形をとった架空のツッコミの導入「え? だったらボクが誘えばいいじゃんって?」であり、そのツッコミに応えて、いや誘ったがダメだったと話は展開していく。「ある日、勇気をふるってお誘いしたですよ、若い部員を」という形で「動詞+です」が現れるのは、そのツッコミに対する抗弁というか報告の箇所である。心の古傷に触れるこの抗弁~報告は、「お誘いしましたよ」ではなく「お誘いしたですよ」で、ぎこちなく余裕なく行われる方がしっくりくると感じるのは私だけだろうか。
同書第4章にはさらに、氏が朝から6食か7食食べたところで先輩に洋食屋へ連れて行かれてビフカツを薦められ、「泣きながら喰ったです。イマイチのビフカツを」というくだりもある。余裕のない報告の形としては、やはり「喰いました」ではなく「喰ったです」でなければと思うのは私だけだろうか。
このような「動詞+です」を、最近になって生じたことばの乱れとして片付けてよいかどうかは、慎重な検討を要する。というのは、「動詞+です」は、実はかなり昔から見られるからである。
たとえば夏目漱石の『坑夫』(1908)では、東京の裕福な家を飛び出してきた世間知らずの若者が「働くです」「やるです」などと言っている。周旋屋にそそのかされて銅山の坑夫になろうとする際に、「坑夫になれば儲かる」と周旋屋があまりに強調するもので、儲かるということがなんだか恐ろしくなり、「僕はそんなに儲けなくっても、いいです。然し働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」と青臭い理屈を言う場面である。若者は、周旋屋に連れられてきた銅山でも、「金は儲からないしあなたには無理だ」と忠告してくれる飯場の頭に向かって、だまされてきたのではなく承知の上での坑夫志願だと虚勢を張って「そりゃ知ってるです、僕だって知ってるです」などと言っている。
また、北杜夫の『楡家の人びと』(1964)では、佐久間熊五郎という楡家の書生が楡家の子供たちに「欧州さんは相当の人物であるデスぞ」「この八八艦隊を作ろうとして、われわれがどんな苦労をしたですか」、さらに宴席で酒に酔って「ぼくは生まれながらに楡病院にいる気がするですぞ」「ところで諸君、今日から僕は楡姓になるですぞ」「なかなかやるですぞ、敵さんも」などと言っている。映画監督・山本晋也氏の「動詞+です」発話だって、広く知られているところだろう。
これらの「動詞+です」(少なくとも最近のもの)は、「格」や「年」の低い、つまり『幼児』にやや近い発話キャラクタの言い方として認められるかもしれない。が、「食べるでちゅ」「わかったでしゅ」ほど広く一般に認知されてはいない。「「でちゅ」「でしゅ」が「です」と比べて汎用性が高い」というのは、こうしたことを指している。
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2007年









