漢字の現在:東の「や」は西の「たに」―「谷」の訓読み

2012年 2月 10日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第160回 東の「や」は西の「たに」-「谷」の訓読み

 漢字の字体は容易に目に入り、面白味に満ちているが、やはり文字研究の醍醐味は表層にとどまらぬ、ことばとの関わり方にある。

 高知空港行きのバスの車内には「次停止釦」と表示されている。「釦」はここにもあった。外来語への漢字表記は、当用漢字時代の抑圧を経ても、なお絶滅しそうにない。洋服のボタンだけでなく、機器のボタンにも用いられているが、前者はポルトガル語からで、後者は英語から、ときれいに分けることができるだろうか。

 「梼原(ゆすはら)」は竜馬が脱藩を決意した地として有名になったそうだ。字源により近い字体を用いた「檮原」は、一般に字に愛着を感じにくそうだ。世田谷の松濤や中国の胡錦濤もしばしば略して記されているように、総じて字画が難しすぎるのだ。「ゆす」は漢字の字義とは合わないが、「ゆず」からか。「いす」という読ませ方も江戸時代の文献で見ており、気になるが、そこまでは足を伸ばせない。

 語と語に挟まれた「ヶ」や「が」が駅名には見当たらなかった。この辺りでは、そうした助詞がすべて「の」になるのかと思うと、バス停にはあった。

  安ヶ谷 やすがたに

 「ヶ谷」が「がたに」は西日本らしい。東日本では「谷」を意味する俚言「や」を用いて「がや」となるのが伝統的な形だ。「渋谷」も西日本では、シブヤではなく、シブタニが地名や姓で優勢だ(大阪府立の渋谷高校、関ジャニ∞の渋谷すばるなど)。「や」は、学校で習わないが、音読みと思い込んでいる人も少なくない。各地の「やち」「やつ」「やと」も同源とされる。人の移動、引っ越しなどは絶えずあるのだが、「たにむら産婦人科」という看板も、いかにも西方の姓という感じがする。谷崎潤一郎を「やざき」と読んだのは、群馬出身の男子の旧友だった。プロ野球選手の姓からの影響もあったのかもしれない。



「県庁」は漢語(いわゆる同形語のようなもの)だが、
中国語では繁体字と簡体字、韓国語では日本語式の発
音と韓国語の発音がハングルで並んだ。バス車内で。

 バス停の名は、車内では順次、電光掲示されていたが、縦書きで、「ヶ」が左下方に位置していて、違和感が残る。これに、さらに「ぁ」、もしかしたら「っ」「ゃ」などにもそうした政策による明確で厳格な規範はないはずなのだが。「衣ヶ島」も看板にある。

 「横浜」もバス停にあった。なるほど、浜辺だ。

 バス車内の電光掲示に「塩谷」と出た。ここは高知なので「しおたに」だろうと予測して、耳を澄ませば、「しおや」とテープで放送された。これは例外中の例外、新しい地名なのだろうか。通過するバス停で、表示を確かめないといけない。「谷」で「や」とは、四国なので、「祖谷(いや)」あたりからの類推か、などと頭を巡る。

 バス停では、「塩屋」という表記であった(往路で確認)。何のことはない、バス車内の表示の誤入力だった。東日本など、よその地で入力して作っているのだろうか。隣の「東塩谷」についても同様であった。

 「小村神社前」は「おむら」と発音している。東北では「小」は「お」と読むという話を聞いたこともあったが、これはどうも実証できない。終点は「ミマセ」との表示、何だろう。着くと「みませ」、そして「御畳瀬」とあった。これは仮名でないと読めない。

 その終点で降り、海に出て、階段を上ると塀の上に登ってしまった。2メートルはあり、おそるおそる猫のように渡っていくと、行き止まりだ。降りるために作られたはずの階段は閉鎖されている。道路に飛び降りると脚をやられそうだ。あやうく折り返すバスに乗り遅れるところだった。乗れなかったら1時間半以上は、そこで待ちぼうけとなり、文字を訪ねる遊覧が途絶える危機だった。このバスに乗ることを運転士さんに伝えておいて良かった。

 「すこやかな杜(もり)」と看板にあった。これも早稲田はともかく仙台を連想するのは、宮城県で例を見すぎたためだろうか。でも仙台生まれ子には「杜」があやかって付けられていることが少なくない。実は「奈」の字も、神奈川や奈良でとくに新生児によく付けられているようなのだ。国がやらないならば、きちんと統計をとってみたいものだと思っている。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「枡」か「桝」かでした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。


漢字の現在:「枡」か「桝」か

2012年 2月 3日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第159回 「枡」か「桝」か

 高知大学で開催された日本語学会の受付で、名札をもらったところ、「笠原」と書かれていた。日本語の学会でもこうなるほどだから、あちこちで間違われるのは当然かもしれない。人口比が大きく影響しているのだろう。

 高知市内で、回転寿司に入ってみた。「くせ」と胸元の名札にある。濁らないのか、漢字はと、気にはなったがそのままにして食べて出た。東京に帰ってから、道中で得られた品々を整理しているとき、領収書を眺めたら、「久笹」という名字がプリントされていた。「くせ」の「せ」が「笹」だったのか、そしてこの字を音読みしたのか。そのお会計の場で、間違いがないのか、本名なのか(芸名とは思えない)など聞けば良かったと後悔する。私の「笹原」は、江戸時代以来の富山での屋号に由来するが、中世に現れ、近世に広まった国字である「笹」を含む。このササは、中国では「竹葉」(zhu2ye4 ジューイエ)と呼ぶ。パンダが食べているのもそれなのだ。中国では「笹」の字をよく「世」(shi4 シー)の発音で読む。韓国でも、現在においても書誌情報では便宜的に同様に「世」(se セ)で発音させている。

 土地鑑が0のところは、面白い。「とでん」が走っている。「都電」ではなく「土電」で、かなり長い距離を走っているようだ。電車、いやディーゼル列車と併走区間もあるが、よく耐えて営業していた。車体は古そうだが、味がある。ポイントでは線路がつぎはぎになっているためにガタガタするのもいい。

 電光掲示板が車内で停留所を知らせる。

  蓮池

 ドット文字で、2点の「辶」だ。しかし駅名標(駅標)では1点だけの字体だった。


(クリックで周辺も拡大表示)

(クリックで周辺も拡大表示)

 次は「ますがた」と車内放送が流れる。行きの車両では電光掲示板で「升形」と出たように思うが、写真では撮れていなかった。帰りの車両では「枡形」であり、違っていたとしたらなぜだろうか。

 往々にして、このような揺れは見られた。「ますがた」は軽井沢などあちこちで見受けられる土地の形状であり、地名のようになっている。「□」の中に「/」を入れたマスは、上から見た枡を図案化したもので、江戸時代から使用されてきたものだ。

 写真館だろうか、看板の「○○写場」という店名も気になる。その表札に「桝形」と地名が達筆な筆字で書かれている。「枡形」が土電の駅名であるのは、古い表記が駅名として残りつづけているという例だろうか。「升形」は施設名にも用いられていた。木偏がないのが地名表示のようで、バス停もそうなっている。これが今は正式の地名となっているようだ。当用漢字時代に、書きかえや統一がなされたものだろうか。ひらがな表記や、「ますがた」とふりがなが付いた表示もある。

 各地にある「ますがた」にも「升形・枡形・桝形」という、ここと同じ揺れが観察される。元は「升」でよかったはずだ。それに木偏を付した国字ができる。単位と容器とを区別するためだったのだろう。結果として形声のように旁が訓読みを表す。会意性も兼ねて、定着した。「升」は「舛」のようにも書かれた。崩し字からの回帰形がセンと読む誤りという意味の字と衝突し、吸収されたものだ。「舛添」姓も近年よく目にする。

 「桝形」という表札で見た住所の字体は、かって国語審議会からの答申によれば簡易慣用字体と位置づけられていた。この用語は、簡易or慣用という構成で、この字体が入っているのは、簡易ではなく慣用という位置づけによるものなのだろう。学術用語集でも、この何かもっともらしいたたずまいの字画を持った字体が使われている。大半の大学生も、「枡」よりも「桝」のほうが本来のものだと感じている。現代の金石文の一つといえるマンホールでも、しばしばこの「桝」が鋳込まれているのは、そうした意識と関連することであろう。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回はここでも揺れる「葛」の字体でした。

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『当て字・当て読み漢字表現辞典』の笹原先生ラジオ出演のお知らせ

2012年 1月 30日 月曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部

『当て字・当て読み漢字表現辞典』『漢字の現在』の編著者 笹原宏之先生がラジオ出演されます。
1月31日(火) 朝7:02~ Tokyo FM 『クロノス』にて、『当て字・当て読み漢字表現辞典』に掲載されている、当て字・当て読みの世界を堪能しながら、当て字の面白さを紹介します、とのことです。

⇒笹原宏之先生の連載「漢字の現在」

『当て字・当て読み 漢字表現辞典』紹介ページ


漢字の現在:ここでも揺れる「葛」の字体

2012年 1月 27日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第158回 ここでも揺れる「葛」の字体

 高知での一場面。田舎の駅の跨線橋の階段を、女子中学生同士が手を繋いで降りてくる。また腕を組んで駆け登っていく。大学近くの線路を渡ったところにある神社では、学生たちかデートをする光景もあり、のどかだ。地域文字はないか、と探すのは卑しい感じがしないでもない、自然に眼に入ってくるのを待つのだ。

 「葛島」だ。歩き回っているうちに自然に着いた。空港からのバスの中からも見ていた所まで来てしまった。この「葛」は、ときどき字体に問題ありとして扱われる字で、教え子もこの字を丹念に観察して修士論文を仕上げた。皆さんのパソコン画面では、この字は、どういう字体で見えているだろうか。高知のその地名では、

  かづら

  かずら

と、仮名遣いも揺れているが、字体が気に掛かる。

 「葛(ヒ)島」と、明朝かゴシック体で看板にあった。ほかに、

 「葛(L人)島」と明朝体。

 「葛(匕出ない)島」と筆字とゴシック体。この手書き用とデザイン用の両方の書体が、互いに似てくるとは皮肉なことだ。はねない「ヒ」のほうが伝統的な筆字に近い。


(クリックで周辺も拡大表示)

 「葛(Lメ)」と、かえっておかしくなっているものが、この地にもあった。大学生も「○葛飾郡」・「葛飾区」という住所で、この字をよく書いているが、引っ越して来て間もない者は、この字体で書きがちだ。新参者であることが字面からある程度分かる。生粋の者、生え抜きはどこかの段階で習ったり自覚したりするのだろうか、「葛(L人)」と書く者がほとんどだ。


(クリックで周辺も拡大表示)

 「葛(メ×一)」も、高知の電柱の手書きに見られた。

 さて、この字については、飛行機で東京に戻ってからも気付いたことがあった。羽田空港からリムジンバスを待つ。これに乗れれば、モノレールよりもさらに楽に帰宅できる。停留所で、待っている行き先とは異なる「葛西」行きという表示が出る。

 そのバスが来た。先頭の電光掲示では「葛(ヒはねる)」。

 同じバスの側面の電光掲示では「葛(L人)」。

 字種として、文字列として、表記として、気にする必要のない差だという事実を体現してくれていた。指摘されれば、ドット文字のフォントを揃えなければ、と思うかもしれない。JISの規格の見出し字体や常用漢字表の改定に翻弄されたような市も生じた。

 道中の疲れの中、やっと来たバスに対して、そんなことを気にする人もそうはいないだろう。バスの先頭座席が好きだ。小学校の頃は酔うことがあったが、進行方向を見ている人は絶対に酔わないと聞き、それを知ってから見晴らしのよい席をできれば選ぶようになった。臨場感やドキドキ感もあり、ゲームのようだとはしゃぐ子供のようだが、風景の中に溶け込んだ字も、よく見えるのだ。

 路上の白い字には、独特の癖がある。車内の運転席から読みやすいようにと細長く記されている。テレビで、親方がまっすぐに線を引き、カーブも巧みに仕上げているのを弟子が真似をするという場面への取材があったのを思い出す。100キロを超す速度の中、動体視力で読みやすい字体は、実際にあの公団フォントだったのだろうか。

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 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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漢字の現在:高知の地名の文字

2012年 1月 20日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第157回 高知の地名の文字

 せっかく飛行機にまで乗って土佐に旅立つのだから、地域の文字をたくさん調べてきたい。

 「鵈」つまり「耳へんに鳥」という字が県内の小地名にあるのが気になる。一緒にと言ってくださる新聞社の方と話すが、やはり場所が遠すぎる。これには、なんとなく既視感があった。小著やメモを確認すると、すでに電話では調査をしてあった。この字体をもつ国字は、なぜか小地名にときどき現れる。JIS第2水準に入ったのも、「鵃」が一時的に変化したらしい怪しげな小地名からだった。さらに秋田にも「ときとうやぐらまつ」なる小地名の中に、この字が使われている。これは以前携わっていた電子政府関係の事業で、総務省などから資料を提供してもらい、それを元に現地へ行って、地元の資料で存在を確かめることができた。

 「南国南支店」、南国高知らしい店の名前だ。地名の醸しだす雰囲気のとおり秋でも暖かだった。テレビでは、この「南国市」を濁らずに「なんこくし」と発音していた。固有名詞での西日本の連濁回避の傾向性と一致する。でも、当地のテレビでは、地元で「なんこく」のほか、「なんごく」と発音している人も映っていた。発音に揺れがあるのだろう。ここの「隅田」は「すみだ」と発音するようだ。

 関東では、よく「茨城」は「いばらき」で、「いばらぎ」とは濁らないのだ、と目くじらを立てる人がおいでだ。「いばらぎ」は大阪の地名の「茨木」で、区別をしているのだともいう。正式には濁らないとされているが、これは一般的な「山崎」「中島」などの姓とは逆となっている。茨城でも、とくに北部では「いばらぎ」とも発音する人が少なくないそうで、伝統的な方言ではむしろそうなりそうだ。根拠が薄いのに規範意識がマスメディアによって強化されることがある。これが当てはまるかどうかは別として、指摘する自己が容易に高みに立った気分になれてしまうというのが、「正しい日本語」論の怖さだ。柳田国男も兵庫県出身、なるほど「やなきた」と濁らないそうだ。東京では「やなぎだくにお」でないと、一般には通りが悪い。

 柳田の言うとおり日本列島は、その岬の隅々にまで人が行き着いて、そこで暮らしてきた。むろん人口密度は、平野部に集中しているが、山林もしばしば開拓され、山頂や半島まで、確かによく人が住んでいる。

 高知では、空港から市内に向かうバスの中から、「大ソネ東」と電柱に記されているのが見えた。本来は「埇」つまり「土偏に俑の右」という字だろう。高知の地域文字がカタカナ表記されている。痩せ地という語義から見て「埆」(カク)という漢字から転じたものであろう。「埵」に作る地も県内にあるが、これも字義による地域訓か変形だろう。また、東北の宮城には「埣」(「土偏+卆」)といった漢字(字義にくわえ、ソツも発音が近い)が小地名に偏在し、姓などでは「曽根」「宗根」などの万葉仮名式の表記が各地に見られる。高知市内にも「高埇」(たかそね)がある。食指が動くが降りてまで寄るゆとりはなかった。「嶺北」(れいほく)は、この地にも見られた。福井だけではない。

 電車からは、看板に「万々商店街」と見えた。電車やバスでは眠ってしまうこともあるが、これはもったいない。たまたま線路が引かれた場所に過ぎないといった背景はあるのだが、それも地元の文字生活の一部を形成しているはずだ。車窓へと入る日射しが眩しい。しかし、カーテンを閉めると観察ができず、写真も撮れなくなってしまうので、ここは耐える。

 バス停にも「万々」があった。この「まま」という語は、東日本では『万葉集』の時代から「真間」などと漢字を当てて使われている方言で、崖や斜面を表す。『国字の位相と展開』に書いたとおり、山形で「圸」、相模で「壗」、伊豆では「墹」など、地域ごとに国字が作られてきた。先の「万々商店街」には、少し離れて山があった。川も流れていた。これらと同義なのだろうか。西日本にも「まま」地名はなくはないが、「継」「飯」など、表記自体に別の意味を感じさせるものが目立つ。表記された時代に意識されていた語義が反映している可能性がある。

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『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は街の「玉子」もテレビでは「卵」でした。

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漢字の現在:街の「玉子」もテレビでは「卵」

2012年 1月 13日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第156回 街の「玉子」もテレビでは「卵」

 高知では、「玉子焼き」とだけあって、おかずとお菓子とのどちらが出るのか不明なメニューもいくつかあったことも確かだ。おやつのカステラがこの地ではよく食べられるとはいえ、本当に、広く定着する表記を覆すほど大きな影響力を持ったのだろうかと、不審も残るが、それが地域で、一般に影響することとなっているのだろう。

 それに接触する人はそれを自然と習得し、覚えたものを使うようになっていく。文字生活の中で意識化が生じないままにこうした循環が起きるなかで、地域性が生じているという実態を反映しているのではなかろうか。東京などでは、逆に、産みたてたまごは「産みたて卵」、加工されたたまご焼きは、字面や熟語から来る表記感の生々しさを避けて「玉子焼き」となるものだ。

 帰りの空港には、無事に、それも余裕を持って着けた。もっと色々と調べても良かったが、明日のために体力を温存しないといけないと、ここまでとした。待合室では、熱心にノートパソコンを打つ男性がいた。昔から、ぼんやりとするのが好きな私には、とても真似ができない。家に帰ってからやると決めている。軽くなったとはいえそこそこ重い荷物になるだろうし、集まった資料も散らばりそうで、そこでは出せない。そもそも集中もできない。家に帰ってから、ゆっくりと整理をしながら打ち込もう。

 搭乗口付近なのでと座った席では、いくつかの局の中でたまたまNHKが流れていた。

  だし巻き卵

 2回ともテロップはそうなっていた。高知だからではない。「ゆうどきネットワーク」はかつて連続して出ていたので分かるが、全国放送だ。NHKは規則で「たまご」は「卵」とすると決めている。日本新聞協会と同様に、常用漢字表から表記法を一意に定めているためだ。

 先の全国的な法則から、気になるというNHK社員もおいでだが、規則の壁は厚い。新聞協会でも、実勢に従って「玉子」が提案されたそうだ。これは語源に即しており、当て字でもない。が、高知新聞の代表が、「高知では卵しか使いません」と発言されて、そこまでとなったと側聞する。

 トイレに行く途中に、フジテレビ系列のニュース番組も目に入った。中国の駅弁の半年の賞味期限についての話題で、そこでも、

  ゆで卵

と字幕が出た。同様の規則に従った結果だろうか。

 自然発生的に何となく広まっているこの地域と、意識的に決めたルールを守るマスメディアとで、同じ表記を取る。それが重なった瞬間に、搭乗前の1時間で立ち会えた。

 大震災後、Jヴィレッジで活動されている南相馬市出身というその料理長さん自身は、紙にどちらを書いていらしたのだろう。「ゆうどきネットワーク」ではテレビカメラの写し方が小さく、見えなかった。

 ここにしかなく重くなく嵩張らないものをとケンピを土産に買った。漢語らしい響きを持ち、漢字表記もあれこれあるそうだが、「犬肥」という当て字はイメージが悪い。「ケンピ」「塩けんぴ」など、当地で漢字表記は見ることがなかった。

 遅い時間に機内で空腹になった。調査の後にギリギリに買えたおにぎり3種だけではしかたない。ふらふらしてきた。隣の人がクラッカーを出した。おいしそうに見える。

 私も何かないか? そうだ、高知らしいものとしてケンピを買っていた。いつもの鞄に放り込んでおいて助かった。座席下のそこにあった。ガリッバリッと響かせて食べる。空腹はまさに最高のソースで、とにかくおいしい。ここではジュースはおかわりが可能。袋を見れば、原材料に「玉子」と印刷されていた。

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漢字の現在:高知に「卵」はあっても「玉子」はなし?

2012年 1月 6日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第155回 高知に「卵」はあっても「玉子」はなし?

 初めての土佐で、調べたいことがあった。高知では、「たまご」を「玉子」とは書かない、いつも「卵」と書くという話を聞いてから、何人もの高知出身者たちへの聞き取り、NHK番組からの取材、NHK文研の方の全国調査の結果の閲覧を経て、実地でこの目で確認しようと思っていた。

 「玉子焼き」が、高知ではベビーカステラを指すために、衝突を回避して「卵焼き」となる、それが拡張したものというのが現在のところ、考えうることだ。あるいは、長尾鶏では、「鶏卵」となることが多く、「卵」と関連する、などということもありうるのだろうか。

 市内も大雨だった。一番ひどいときにバスを下車、日頃の行いだろうか。でも、雨男なんていうのがいたら、旱魃地帯にでも行って役立ちそうなものだと思う。折りたたみ傘のほうが軽くて調査に障らないのだが(晴れたら畳めば荷物にならず、かつ帰りは送れば良い。ただそれも面倒)、便利な予報のために、大きめの傘を持たされた。それでもビショビショになってきて、看板や貼り紙などの写真も撮りにくい。

 構内に入れば、食いっぱぐれる恐れが出てきた。一食抜くと、学生の頃からもうフラフラでダメになる。学生街らしきものがなく、店も休みで、歩いてスーパーのeveエヴィ朝倉店を見つける。298円で弁当が売っていた、安い。

 後で、「生協がやっていたよ」とあっさり教えられる。翌日、その食堂を見に行くが、掲示してあったメニューには、残念、玉子も卵もなかった。

 コンビニエンスストアーで探してみると、「玉子」とあり、あっさりと覆された。おでんでは「たまご」とある。全国チェーンだからだろうか。

 同じスーパーに行って、「たまご」の表記を観察調査してみる。

  玉子

  厚焼卵

 やっと「卵」があった。御礼にお茶を買った。このスーパーでは「すし9貫」と、ついでに「すし」も目に入った。関東では一般的な「鮨」がここでは本当に少ない。江戸前と鮨の結びつきは、江戸時代から確かめられる。

「出汁巻卵」の表示

 店先では、

  だしまき卵

  卵巻き

  出汁巻卵(写真参照)

と、見つかりだした。

 ただ、すべてが「卵」というわけではなく、「玉子」も意外と随所に流通している。見いだせた、他県と異なる実勢としては、やはり「たまご焼き」の類の加工食品となると「卵」が現れやすいというところだろうか。そうすると、やはり当地でお菓子のようなベビーカステラを指す「玉子焼き」のせいとなりそうである。以前、NHK番組の制作(製作)担当者といっしょに、山内氏に何か関わりがあるのでは、と調べてみたものの何も出ては来なかった。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「お江戸の「鮨」は土佐の「寿し」?」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。


漢字の現在:お江戸の「鮨」は土佐の「寿し」?

2011年 12月 23日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第154回 お江戸の「鮨」は土佐の「寿し」?

 高知では、看板に、「うどん そうめん」とあった。さすが西日本、和食では「そば」よりもこうした麺類が主流で、人気なのだろう。

 「そば」も少しは看板で見かけた。「楚者」を崩した変体仮名のものも「信州そば処」などいくらかあった。「楚ば」もあった。しかし、東京ほど頻繁に使われているわけではなさそうだ。沖縄まで南下すると、ソバの種類自体が異なることもあってか、この変体仮名使用はついに見かけなかった。近畿地方一帯でも少なめだったが、関東風のソバを売る店では看板に見かけた。西日本では、ソバそのものを看板に大書するような店がそもそも東京よりも少ない。「そば」の変体仮名による表記には、地域性がある程度確認できそうに思っている。

 「すし」も、地域差が実は顕著だ。それは、普通名詞よりも店名に現れやすく、相互の影響が気にかかる。もらった高知のパンフレットには「神祭じんさい寿司」「寿し柳」などとあった。

 街中では「寿司」が多い。そして「寿し」も多かった。「寿し一貫」と看板になるのは、店名で、チェーン店だろうか。「寿し」は、高知では店名にもメニューにも頻出した。

 一方で、関東で馴染みの「鮨」も、近畿で根強い「鮓」も、確か一度も見ることがなかった。店名の都道府県別の使用の分布を出したことがあったが、その調査結果とよく符合する。地方都市らしいこの表記傾向を実際に都市景観の中で呈していた。電話帳によると、高知県では下記のようになっていた。

  鮨 6.7%
  鮓 0%
  寿し 44.9%
  寿司 48.3%

 こうしたものにも時代と地域の変動が続いている。都内で、「柿家鮓」という店名の看板が、去年だったか、「柿家鮨」に掛け変わっていた。都内では、「寿司」は回っていて安そう、魚が載っていなさそう、などという印象が聞かれるのだが、こういう意識にも地域差があるのだろう。「すし正(しょう)」というひらがなの店名も高知にあったが、これにも頻度差がありそうだ。

 昼を食べるために、函館市場という名の店に入った。筆字風のロゴだが、「函」の最初の2画は、よく見ると、北海道の地元式の「了」(第484957135回参照)とはなっていない。

 そこは回転寿司で、回るいくつもの皿には、紙が載っている。「活〆した」「〆鯖」「最後の〆を」と、「〆」という国字もいくつもクルクルと回っていた。エビは北海道と違ってやはり「海老」だ。

 すし店を出ると床屋へ入ってみる。髪がぼさぼさだ。出張中は時間がフとできることがあり、北海道でも、奈良でも、立ち寄ってみた。知らない土地の理髪店は、設備もサービスも違う。耳かきだか爪切りだかもあったような気がする。

  学生ですか?

 久しぶりに聞かれた。大学でも「先生だったんですか」などと言われることがあった。ヒゲやシワ、肉などでもっと貫禄をつけたほうが何かとよさそうだ。

  そうです。

と言っておけば、学生料金になったのかもしれない。京阪式のアクセントだが、訥々とし、テンションもそうは高くないことも加わって、やや意気阻喪してしまった。高知の人は関西風のアクセントで話しておいでだったが、総じて大阪や徳島の人よりも大人しい印象だった。尋ねるつもりだった、

  「たまご」はどう書かれますか?

など、聞かずに終わった。せっかくの取材のチャンスだったが、ほぼ身繕いと休息だけに終始した。頭を洗われながら、赤ちゃんをこうやって優しく洗ったことを思い出す。今度は、切った毛を下に落とすための箒のようなものが、荒くて痛い。

 支払いの時に、カードをもらった。もう二度と来られない場所だと思われ、この手のハンコは都内でさえも溜めきることがほとんどないのに、ここでは半分迷いながらも勧められるままにカードを作ってもらった。ハンコを一杯にできるかが問題だが、店名に含まれる「爵」という字のゴシック体風のロゴが目に止まった。最初の「ノツ」の「ツ」の部分で、左の「、」だけ「ノ」と旧字体のような向きになっていた。わざと、髪型を意識してデザインされたものだろうか。もらって良かった。看板でもそうなっていた。

 「暫時」という語を実際に使うところも、今回は聞けなかった。東京では、「漸次」や「漸近線」のゼンと混じって、ザンかゼンでまず読みが揺れ、意味も古語の知識も混じってまた揺れる。漢語が方言となることはけっこうある。福岡の「離合」、愛知の「放課」などもそうだ。

 下記の店名は、ディーゼル車の窓から見えた看板にあった。

  「関田さん家」

 この「家」には、ふりがながちらっと見えた。「ち」だったのだろうか。この辺りでもこのかなり一般化している表外訓を使うのだろうか。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「高知らしい漢字」でした。

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漢字の現在:高知らしい漢字

2011年 12月 16日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第153回 高知らしい漢字

 高知特産の「文旦」は、文字通り「ぶんたん」が一般的なようだ。鹿児島など九州と山口辺りでは2字目を常用漢字の表外音とし、「ぼんたん」とも読み、ぼんたん飴が有名だ。こうした果実には概してルビは書かれておらず、関東では学生たちはこの果実自体に縁が薄く、意外と読めない。

 土佐の伝統工芸の「サンゴ」には表外漢字による「珊瑚」も目立つ。名産品ということで、看板に大きく書かれている。

 一本釣りで有名な「鰹」という字も、看板・貼り紙・パンフレットに多用されている。売りの物だけに滞在中によく見た。表外字だがたいてい振り仮名もなく、看板ではしばしば大きく書かれている。「鰹のたたき」とのぼりにもあるほか、「鰹群家」で「なぶらや」と読ませる店名もパンフレットにあった。後者はルビが必須だろう。ガイドブックにはカタカナで「カツオ」「戻りガツオ」ともあり、これならばいかにも魚名であり、この漢字を見慣れていないようなよそから来た者であってもすぐに読める。

 「かたうお」に対する「堅魚」が合字化して「鰹」となった。これが中国の字義とは異なっているために国訓として扱われている。鰹節は、祖母が和室でよく削っていて、面白そうだったのでたまに手伝ったが、確かに固く、必要な分を削るのに思いのほか手間を取られた。もはや魚だったとは思えぬほどの代物だった。偏の「魚」が絵になったヤマキのロゴは、テレビCMでも馴染みがあり、小学校の時に真似をして書いている生徒もいた。日本人の絵文字好きは、ケータイ以前からの伝統で、古くは江戸時代の山東京伝の引札や南部暦、盲心経などにも遡りうる。

 看板には「長尾鶏センター」とある。隣の徳島では「阿波尾鶏」で「あわおどり」、うまいことあてがったものだ。長尾鶏で「ちょうびけい」とも読むらしく、「ながおどり」の「とり」には表外訓の「鶏」が合う。「とりにく」も「鶏肉」が多い。しかし、「焼き鳥」「焼鳥」は、なぜそうならないのだろう。ニワトリ以外もあるからだろうか。それとも、「速口」へとはなかなか変わらない「早口」のように、表記の習慣化の長さの違いだけだろうか。焼き鳥屋では「鳥」の字が象形文字や篆書風にさえ記され、店の雰囲気の演出のためにも定着を見せているかのようだ。これから呑むのであろうが、すでに呑んでいるのであろうが、飲酒時に見るような文字でもある。そういうしゃれた雰囲気に、弱い御仁もおいでなのだろう。

 「皿鉢料理」で「さわちりょうり」と読む。これはいっそうあちこちで見かけ、テレビのローカル放送でも出てきた。地域熟字訓といえるものだ。

 「月極保育」と、高知空港内に設置された画面に出ていた。おや、と思ったが、何のことはないアンジュ保育園で、東京の羽田空港内の施設の看板だった。この「月極」も、地域差のあることが戦後から知られている表記だ。すでに先人の観察を読んだり聞いたりしていたとおり、高知県内では今でも「月決」のほうが多いようだ。高知市内を歩いたかぎりでは、東京ではお馴染みの「月極」はなかなか見つからなかった。多くは、

あるいは、ていねいにも送り仮名付きで、

のようになっているのだ。「年決駐車場」などというものも目の当たりにした。常用漢字表に従った漢字表記である。写真を撮りながら、さんざん歩いて、

がやっと見つかった。結局、高知で見た中では、半数に達しなかった。かえって新参の会社や新しく設置されたような看板で、旧表記とされるこの「月極」を使っているようにも思えた。この「月極」は、関東では中学生の段階でも意識され始めており(第146回)、中国から来た留学生たちも、これは習わなかったし読めない、と述べるものである。

 この地では、「月極」は、存在を意識されていない可能性さえ感じられる。この表記を知らず、見ても「つきぎめ」とは、東京よりもなおさら読めないのかもしれない。ここでも「月極め」という送り仮名付きも見られたのは、もしかしたらそのためで、せめて読んでもらえるようにという工夫だったのかもしれない。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「街の文字の見どころ」でした。

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漢字の現在:街の文字の見どころ

2011年 12月 9日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第152回 街の文字の見どころ

 高知市内では、学会の合間に、街や店の中をしばし観察してみた。

 「鈑金塗装」と看板にあった。「板金」を「鈑金」と素材に合わせて偏を替えて表記する。これは音読みだが、意味が日本製ということで国訓といえそうだ。この表記はどこにでもあるようで、各地で観察される。職業集団における位相文字といえるが、街中で大きく書かれているので、よく目立つ。2つの字には用法に区別もあるとも聞いたが、実際のところどうなのだろう。これらの字には、別の語でもそういう話がある。

 看板には「レンタル衣裳」という表記もある。この「衣装」に対する「衣裳」も、高知に限らず、どこにでも残っている表記だ(第147回)。

 「総菜」も「惣菜」も見られた。常用漢字表に従った「総菜」はスーパーでも見かけ、たまたま付けていたテレビでも福島で使っていた。ここにも地域色は見いだせそうもないか。

 「鮮魚」が、筆字風に書かれた看板で「れっか」の部分が「大」、2字目のれっかの部分が続け字でまるで3点のようになっているものを、かなり離れた場所で2つ見た。これも位相があり、けっこう全国的に広がっているようだ。

 「皮膚」も「皮フ」も看板に見つかる。これらもまた全国的に広まっているようだ。大通り沿いの看板にあった「しぎ耳び科」は、子供向けということだろうか。あるいは「膚」と同様に、「鼻」の横線の多さが生み出した交ぜ書きなのかもしれない。「皮フ」は公的な書類に準拠する表記だとの話もある。常用漢字表で、「はだ」の訓を「肌」に譲ったこの字が、字音までもカタカナに座を譲るとすると、字種としての存在意義がますます薄れてしまうことだろう。

 「空きあり」。看板にはほかに「空有」「空有り」などもあったように思う。漢字か仮名か、送り仮名はどうするかと悩めそうなものだが、これも地域色はなさそうだ。

 「9~11(じ2つは下付き)は、東京でも見かけるもので、何やらおしゃれで、堅苦しさをなくすことに成功している。書きやすく、またこれも子供でも読める。単位は概して略記された方が、書字に限らず種々の効率がよさそうだ。

 「ecoる」という表記を、高知市内で見かけた。都内で女子学生が「エコ」は「eco」に表記が変わったから、皆が環境を守るようになったのだ、と力説していた。表記の心理に与える力は、ニュアンスの享受どころで済まされないものもありそうだ。

 「伊太利屋」という店は、高知にもあった。小学校の時、都内で店名に見かけて、辞書にある「伊太利」だけでいいのにと、この当て字の応用に俗っぽさを感じて、嫌だった。それをまた「イタリアは漢字でこう書くんだ」と、やはり店で知ったと得意そうに言ってくる生徒がいて、さらに嫌になった。


「栄」や「蛍」のようにはなっていなかった。

 都内の学生たちにも大人気の「よさこい」は、「夜来い」という意味深な解釈もあるようだが、どうも俗解の可能性が捨てきれないようだ。漢字表記は、市内では見受けられなかった。土佐の高知の「はりまや橋」を見ながらの朝食。日本三大がっかりなどという失礼な評も聞くが、もとから期待など抱かずに行けば、そこはかとない趣が感じられる。「はりま屋」という宿の看板を視て、ああ書いていると指摘する旦那さん、それを「当て字」と一蹴した奥さん。どこかのご夫婦の会話が耳に入った。

 どこでもありそうな表記が多い一方で、高知の看板には、大きな「蹲踞」の字が記されていた。間に「つくばい」と小さく読みが振ってある。そこには「灯籠」など、難しめの字が並んでいた(バス車内からで、写真が間に合わず、もう一つは残念ながら忘却)。「籐」(ハの部分はソだったか)もゴシック体で看板にあった。「緞通」など表外字が立て続けに現れる。

 龍馬の「先塋の地」とのぼりが立っている県内の地をホテルのテレビで見た。観光客にはなかなか読めない難字だ。地元でもどうだろう。ルビがあっても、意味は想像も付かない人が多い。後で、都内の大学生たちに聞いてみても、99%以上が意味を当てられなかった。逆に目を引いて、この独特な雰囲気の字の場所は何だろうという人々に訴求力を発揮し、呼び寄せる集客力があるのかもしれないが。

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 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「瓲」「屯」「t」」でした。

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