漢字の現在:香港、台湾のお金も「円」い
2010年 3月 4日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第59回 香港、台湾のお金も「円」い
前回記した中国での「圓」から「元」への転化は、中国の漢字の状況を端的に表している。また、「園」という字は、やはり「元」と字音が通じるものであり、簡体字としては「囗」の中に「元」を収めた「园:
」を採用している(第15回「幼稚園」参照)。字の造り方や字画の省き方に、発音を軸とした一貫性を見出すことができよう。
中国に滞在していると、クシャクシャになった古い人民元のお札や、かなり低額な貨幣も手元に回ってくることがある。それらには、前回記したとおり、「圆:
(圓)」や「元」がこともなげに印刷されたり刻印されたりしている。日本では、お金を改めて凝視することはほとんどないが、中国では、偽札を見抜こうとする努力が日常、お店のカウンターでなされている。しかし、貨幣や紙幣になおも見られるそうした表記の揺れについては気にされることはないようだ。
その語の意味よりも、むしろその語の発音に着目して文字を選び、語を表記することが存外多いのである。書きことばにおいて最も使用頻度数の高い「的」(de)でさえも実は当て字だったものである。こうした点からも、中国語では、表音という機能が漢字の役割として意外に重視されてきた、ということがうかがえる。木簡さらには甲骨文字の文章などでも、想像を超えるほどの、同音・類音字を通用させた仮借(かしゃ)表記がなされているのである。それを、中国での漢字の一つの本質であったとまでみなすのはいきすぎであろうか。
香港ドル(HK$)や台湾ドル(NT$:ニュー台湾ドル)は、政治的、文化的な問題から、繁体字を使用しつづけているために、貨幣単位としては「圓」と表記される。しかし、日常生活の中ではやはり簡易な「元」とも記されている。台湾でも、手書きでは簡体字と共通する略字がしばしば用いられているのが実態である。確かに「臺灣」と書いてばかりもいられないのであろう。しかし国語の試験では、略字を書くと国語の教員に減点をされてしまうとのことだ。
香港では、お札での表記が「圓」から「元」に変わってきたようだ。前回述べた記号化と同様の現象が、中国本土に次いで起こっているのである。いずれの国や地域でも、高頻度で煩雑なものは、神が作りだし王が使ったかの遥かな歴史をもつ文字であっても、社会生活を営む人間の手で、簡便な形に次第に変えられる。そういう過程を経ることで、いっそう多くの人々へと、文字は近づいてきたのである。
中国に返還された現在でも、一国二制度が保たれている香港では、「圓」の代わりに「蚊」 (man マン)と書かれる語も通用している。実際に、これを香港の地で目にしたが、多くの方言文字とともに日常生活の中に、あまりにも溶け込んでいて、当地でそれを見つけても、不思議と違和感はなかった。日本に住む人ならば、貨幣の単位を、虫の「カ」を意味する「蚊」と書くことはなぜか、と感じないだろうか。それが、地元では別におかしいとも思われていないようだ(本字は「文」とのこと)。香港に移り住んで長い方も、「そう言われてみれば、なんでかな」と首をかしげるくらいだった。中国語の一つの方言たる広東語でも、やはりこの漢字では意味よりも音が重視されたようだ。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「中国のお金も「円」い」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
漢字の現在:中国のお金も「円」い
2010年 2月 18日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第58回 中国のお金も「円」い
海外へ出張や旅行に出るときなどに、生来のめんどくさがりながら、為替レートを一応何とか覚えようとする。行き先はもちろん東アジアが多いので、中国ならば、人民元で1元は日本円ではだいたい15円、あるいは韓国ならば、1ウォンは円に直すと0.09円、なので100円が……とかいうように。
この日本、中国、韓国の3か国で流通しているお金の単位は、「円」と「元」と「원(ウォン)」であり、見た目も聞いた音もバラバラである。しかし、実はこれには共通点がある。日本では通常、「エン」「ゲン」「ウォン」といずれも「○ン」と発音する。長さも2拍、1音節にまとまっている。それもそのはずで、元はどれも等しく「圓」と書かれる単位だったのである。
貨幣単位となると、帳簿から値札から何にでも筆記する必要が生じる。しょっちゅう手書きするには「圓」という字体はあまりにも煩瑣だ。記号化をして、「¥」などとしなければ、とてもでないがそれこそ不経済だ。「$」(ドル この|は||とも)も「£」(ポンド)も、読み取りやすさやスペースの要求に加えて、そうした原因から用いられてきたのであろう。新参者のユーロにだって略記は定められた。中国の「元」に対する「¥」は「yuan」などローマ字による表記の頭文字である。そのため、日本円の「¥」と重複してしまった。日本こそ、「Yen」という綴りがなぜか、という難題に定説を得られないままに、これを「エンマーク」として定着させている。ウォンは、「Won」(won)の「W」を「―」が貫くような記号で、これは分かりやすい。
そうした記号は、いかにも金額であることを卓立させてくれて読み取りやすく、そしてなによりも書くのに便利である。しかし、それでも漢字できちんと書かなければならない場面は多く残る。
中国では、漢字について、発音を表す、つまり表音性を最重視する傾向がある。「穀」も同音の「谷」に変えられ、「鬱」などはなんと「郁」へと変わっている。字義から違和感を覚えるのは、日本語で区別を続けているからにすぎない。こうした同音字同士を通用させる方法による代用は、中国では今に始まることではなく、古代の殷王朝から見られる伝統的な傾向の中にあるものであった。「圓」は、簡体字では「圆:
」と「貝」の部分だけしか簡易化されていない。これでは不便そうにも見えよう。
中国では、貨幣単位としての「圓」(yuan2)は、標準的な中国語で同じ発音をもつようになっていた「元」によって代用されることになった。紙幣では、中国人民銀行の「1元」札には「壹圆:壹
」と記されている。手元にあるお札では、「拾圆:拾
」「贰拾圆:
拾
」も同様だ。しかし、貨幣は違っている。漢字では「1元」と、「元」としか書かれていない。「元」にすれば、画数は僅か4画にまで減少できる。
その際には、「元」がもつ「もと」「はじめ」などの字義は捨象される。筆記経済が同音字による代用を公式に定着させた、といえる。簡体字「圆:
」は大して省略されていない。それは、貨幣の単位には、当て字として画数が少ない「元」が選択されたためだったともいえるであろう。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「違う場所での「函」の形」でした。
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漢字の現在:違う場所での「函」の形
2010年 2月 4日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第57回 違う場所での「函」の形
いつも通り過ぎていた駅がある。沼津、三島と来宮、熱海の間にある「函南」だ。その2字と「かんなみ」という読みを見聞きするに付け、この地名の漢字の表記はどうしてだろう、「なみ」は音読みからかな、訓読みからかな、などとその由来にしばし思いを馳せ、また駅の看板に記された「畑毛温泉」を車窓から撮りながら、「畑」に「毛」が付く理由を想像するくらいだった。
しかし、北海道で一旦、「函」の字の形を気にしだしてから(第48回・第49回)、俄然、この通過駅も気になる存在となった。この区間の正月の東海道本線は、車両が短く、やけに混雑している。降りる人もまばらなその駅に初めて降り立ってみた。
正月だからなのか人の少ない町をカメラ片手に歩くと、古びた看板から「函」という字が目に入り始める。公的な施設では、手書きの看板でも「函」がほとんどであった。その他の既存のパソコンフォントのたぐいを用いた看板や掲示でも、「函」がほとんどである。意識する場面もあるのであろうが、ほとんどは自然にそうなっているのだろう。
そもそも「凾」と中身が大幅に変わればともかく、「函」が了型になろうがなるまいが、一般にはほとんど気にされてこなかった。その証拠に、すでに述べたように「函」にさんずいの付された「涵養」の「涵」は、かの『康煕字典』でも「了型」であった(さらに点々の角度もだいぶ異なる)。「凾」はさすが俗字とされるだけのことはあって、書きやすい了型となって辞書に載っている。
北海道とは、遥かに離れたこの東海の地ではあるが、そこで実際に書かれている字体はやはり揺れていた。とりわけ、「函」と「了型の函」とが併用されている看板が2つあったことが気になった。
「函」は丸ゴシック体というかナール体のような書体で描かれたデザイン文字、「了型の函」は筆字のようだ。なるほど、ここまでの考察に合う基本的ともいえる現象だ。字体の分岐の原因は、もう繰り返すまでもなく、うかがえるであろう。
もう一つの看板は、もはや文字が消え失せそうな古びたものであるが、駅前に立っていた。大きい字がやはり丸ゴシック体というかナール体風のレタリングで「函」、小さい字もナール体風であるが、「了型の函」と分かれている。これは、字体が分かれた原因が判然としない。変字(かえじ)法というには表現意図も感じられず、やや大げさであろう。大きい字であり、かつ1回目なのできちんと書こうとし、2回目は小さい字だし、力を抜いて楽に書いたものが、そのままデザイン文字として残ったということだろうか。
この地では、例えば手紙の住所欄では、どの字体がよく書かれているのだろう。一般的には、めったに使われない「函」の字だが、「函」と「了」型との現れる割合には地域による差があると感じている。学生たちの手書き文字でも地名にこの字を使う地では、「了」型が多い。
地元の表札を含め、日常の中で書かれ、目にするいくつもの了型の「函」を確かめて、駅舎に戻ろうと坂道を登っていたら、子連れのお母さんが、カメラ片手の見知らぬ余所者に、「こんにちは~」と明るく挨拶をしてくれた。何もなさそうな所、と近隣の人たちからもいわれる場所だ。たしかに観光の目玉になりそうなものも特にないような、自然の中の住宅地である。しかし、人々の暮らしは、その地名の字体を変えるほどに確かに息づいていることを感じるには十分な途中下車となった。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「点々」のもつ意味」でした。
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漢字の現在:「点々」のもつ意味
2010年 1月 21日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第56回 「点々」のもつ意味
「へ」や「様」という文字や「ハートマーク」には、ここ2回に掲げたように点々という記号が付されることがある。「!」(イクスクラメーションマーク・びっくりマーク)にも、同様に「=」のような2つの線が書かれることがあった。やはり文末の句読点のごとき役目を、この点々のたぐいが兼ねている可能性が考えられる。
「
」は、手紙や色紙のたぐいで、「……宛」という意味で用いられることが多く、名前の部分や「君」などの敬称、ひいては文章の部分を注目させるとともに、それらと区別し、機能を特定する記号としての役割も負わされているようだ。誰宛の手紙かということが一瞬で認識できるのである。相手のところに、ちょうど止まるような意味をもつようなイメージがあったという意見もある。間違いありません、という確認や念押しの意味を見出す女子もいる。「御中」のような意味のほか、「へ」では失礼なので、手紙で行われる二重線で自分宛の「様」「御」を消すかのように「〃」で取り消している、という待遇表現を兼ねた見せ消ちのようなとらえ方もなされている。人々の間で、それに対する解釈は、こうした例のように種々に行われており、新しいところでは、「バイバイ」と手を振る絵文字の右に付される漫画風の動線 (motion lines) やブレのような線と重なる気もするとの指摘も聞かれる。
また、簡易すぎる字面が寂しく、「間抜け」に見えてしまう欠点を補う働きも見出される。「へ」が「屁」に通じてしまうことも別の観点から間抜けではあった。とにかく無愛想とか素っ気なく感じられてはいけないという。また、しまりを与えるという点では以前に触れた「〆」(しめ)とも関連してくる。漢字でもバランスが取りにくかったり、字画が物足りなかったりする字体には、「捨て点」や「補空」が加えられることがあった。たとえば「人」に「〃」が加えられるといった異体字の一群である(ただし、それは「仁」によるという見方など、もとは別字だったとの説も江戸時代には唱えられている)。
「文」という漢字にも、「彡」が加えられた字があるなど、類例も挙げられる。『誹風柳多留』(第24編まで)では、「文」と、「文」に「〃」とさらに右下に「、」が加わった崩し字は、「ふみ」という和語で読むべき例の表記だけに使われているという(前田富祺「川柳の漢字」『漢字講座』7)。見栄えばかりの話ではなさそうで、読みを字形で分担していたようだ。こうした「ふみ」の字や、手紙には「〃」を足すという習慣も、かつて手紙での「へ」の形に、影響を与えたという可能性も押さえておきたい。
この「
」という一つの事象が広く定着したのには、まだほかにも種々の要因が絡まり合っていたことが想像される。「へ」では、助詞の「e」ではなく、カタカナの「ヘ」(現在では多くの文章で「he」と発音する際にだけ使われている)とも読み間違えられかねない。そして、前述のように「屁」に通じかねないので避けたい、なんていう意識もあり、実際にあえて「江」が使用される場合もある(火消しに「へ組」がなかったことも有名だ)。「
」は、「え」や「江」の字形から変化したものか、その「エ」が3画なので、「へ」も3画にしたのかな、という推測まで見られる。「〃」で音を半分に断裁するというイメージを抱く者もある。「その文字の本来の意味を一度消す」とか、「へ〈の手紙〉」「へ〈向けて・宛てて〉」などの細かい文句を省略した記号とする意見と通じる点があろう。何かの変形といえば、「心」という字の変形と見る意見も複数あり、文字に深い意味を求めようとする日本人の心性をここでも見た思いがする。
「へ」を表音的に「え」と記し、その「え」の末尾にやはり「〃」を貫いてみたり、「え゛」(これはここでは濁音符ではない)としてみたり、女子ではグループごとに種々の応用がなされる。こうすることで、確かに宛名との切れ目が明確にもなり、見分けやすくならないこともない。そっくりなカタカナの「ヘ」や、記号の「~」「ー」(伸ばし棒と呼ばれている)など、別の字や記号と区別するために付けられた、いわば示差的特徴として認識されることもある。「0」「7」「Z」などに点画が加わるのと同様にしつつ、宛先として目立たせるというのだ。
先に触れた人生の先輩たちに、都内の小学校の跡地でお話をする際には、こちらも教わることが少なからずある。せめて双方向の授業をと心掛ける中で、年配の女性から、新潟の「田舎」の女学校で、60年くらい前に「○○様
」としたためることがすでに流行していた、という記憶を語っていただいた。これには、脈々と受け継がれているこの字のことがだいぶ分かったような気がして、とても感激した。「たわいもないことでした」と、理由も特に意識されていなかったそうだが、女子は今日のケータイメールに至るまで、さまざまな身の回りのものと同様に、文字をも飾ろうとする傾向が続いていたのだ。これを聞いて、ほかの方にもうかがってみると、なるほどその頃にはあちこちで見られたそうだ。
戦後間もなく、あるいは大正期辺りの女学生であれば、書道も欧文も、ある程度まで嗜みとしても習っていて、古来の伝統についての教養も今よりは概して高く、舶来の事物への憧れもすでにあったことであろう。そこで、この流行が始まったという可能性も感じている。そもそも「ノノ点」と呼ばれる繰り返し記号「〃」も、東洋の「=」(々の祖形)やその崩し(さらに「ヒ」「ヽ」などとなる)のたぐいと、西洋の「,,」との影響を受けて、日本で発展したものなのでは、と私は考えている。江戸時代には、日本独自の「ハ」のような形の記号がお家流で縦書きに記された文書の中で、右行を受けて反復させるために、一般的に使われていた。引用符もまた同様なのではなかろうか。
上記の理由のうちで、実際にいくつかが複合していたことが考えられるが、この「
」という字が生まれた時、そして広まった時には、それはどこまで意識されていたのだろう。あるいは、何となく感得できるものがあっただけで十分な、軽い存在だったのかもしれない。
縦書きで記された60年以上前のそれらの手紙は、どこかに1通でも残っていないだろうか。歴史の闇に埋もれさせてはならない、という思いがする。文字コードの関係でパソコンでは、この「
」はふつう打てない。紙と違って画面上では、ほとんど需要がないのであろう。この先、筆記媒体がさらに移り変わっていくなかで、「
」は、どういう意味を意識されながら、どのような人々の間で、いつまで伝承されていくのかも、追いかけ続けていきたい。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
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漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「年賀状の「様」にも点々?」でした。
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漢字の現在:年賀状の「様」にも点々?
2010年 1月 7日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第55回 年賀状の「様」にも点々?
年賀状がない正月はどこかしら物足りなかった。書くのは年々辛くなってきたが、仕事の話ではない文面やほほえましい写真などには安らぐ心地がする。ある年、正月早々に出かけることがあって、暮れのうちに郵便局から届けてもらった時に、読んで不思議と興が醒めたのは、やはりまさにその瞬間のものだからなのだろう。
年末の前回に記した「
」に共通するものとして、「様」という漢字の末画である右はらいにも、「〃」のような線が貫くことがある。これも、若年女性に顕著であるが、「
」よりも若干年齢層が高いようにも思える。「
」と同様に字面を飾ろうとする着想によるものであろう。この「様」に付される「〃」の部分も、装飾以上に明確な意味を込めたサインとして、「ハートマーク」で代行されることがある。
年賀状でも、宛名の印刷ソフトが普及し、個性の滲み出る手書きは少数派になってきた。我が家も、去年だったか、暮れの仕事の増加に追われてついに手書きを断念し、打ち込んでしまった。そうした機材を用いると、「様」の字体に、旧字体はともかく、伝統をもつ異体字や、個人の覚え間違いや書き間違いによる字体(いわゆる誤字)などは、もうほとんど現れなくなっている。
室町時代には、宛名の敬称に使われる「殿」の字体・書体や、漢字かひらがなかという文字体系の違いによる格付けが発達した。江戸時代に至ると、「樣」は「永ざま」とその字体を称して目上の人に用いる、そして「次さま」(檨 以下、さまはざまと濁ることもある)、「水さま」(様)、「美さま」「平さま」「蹲(つくばい)さま」は、などと崩し字を含めて細々と言いだす。文字列として読む際の発音は、いずれも「さま」であり、全く同じであるが、視覚による待遇表現が儒教的な身分制社会の中で発達した。
そこでは、仮名よりは漢字を、漢字でも崩し字よりは楷書体を、楷書体でも略字体よりは正字体をという、より本来性の高いもの、厳密なものを上位とみる意識のほかに、手間のかかるものをよしとする礼儀作法一般に通じる意識も読み取れよう。文字は丁寧に、大きく、そして他の文字よりも先に、上に書くほど敬意を表しうることなどにも、音声による表現と共通する部分を見出すことも可能であろう。
メールでは、「様」ではキツいといって、「さま」とひらがなに開かれることが多い。若年層の特に女子の間では、かねてより「サマ」、さらには「sama」などとも「かわいらしく」、「女の子っぽく」書かれることがあった。
年末年始の恒例行事となっていた年賀状ではあるが、手書きが年々減少するばかりか、「あけおめ」メールで済ます、そもそも何も出さないという風潮も強まってきた。それでも、量産される「様」の字の種々相からは、漢字の位相を感じ取ることがまだできないだろうか。
「〃」に戻ると、台湾では、「收○先生」(収の旧字体)の「收」の末画に「〃」が貫くような例もあるという。日本の「
」からの影響と思われる。
また、日本では女性が多用する「ハートマーク」それ自体にも、右下の部分を貫いて「゛」が付けられるファンシーなものが丸文字全盛期に流行ったが、やはり「
」と同趣なのではなかろうか。「様」も右下の「く」のような筆画が折れて、さらに左下にはらう書き方も一部で流行っている。そこにもやはり「゛」という形が貫くことがある。さらに、「!」やその籠字(「.」の部分や全体を膨らませた形で、白抜きというべきか)にも類似の例がある。
これらに共通するのは、文末に来ることがほとんどだという点である。「……様へ」と、「へ」と「様」が連続する時には、たいてい「様」のほうではなく「へ」に「〃」が移動して付される。数学の証明問題や、英文の手紙などでは、解答や文章の末尾に、ここで終わりだという意味を込めて、同様に「〃」のような印が記されることがある。「へ」で終わるということに不自然さが感じられることもあるようで、宛名の終わり(句点などの記号は明示的に付けにくかった)や、話を書き始める本文へ移る、スラッシュのような区切りといった機能をもつ記号が、その「へ」に応用された可能性も考えられる。
封じ目に記す「〆」は、×印とも認識されており、そのような形でも記される。最後に「しめる」という点で、「
」との共通性を指摘する学生も多い。誰にも言わないでね、という意味をこめていたか、と述懐する女子の心理とも関わるだろうか。ともあれ、これを見たことがないという学生は一部の男子を除けばまれであり、それについての諸案、諸説を紹介してみよう。(次号で、「〃」の話はいったん完結)
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「サンタさんへ」:「へ」に点々?」でした。
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漢字の現在:「サンタさんへ」 「へ」に点々?
2009年 12月 24日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第54回 「サンタさんへ」:「へ」に点々?
小学校高学年の男児が、平仮名の「へ」の右側の部分に「〃」を交差させて「
」と書いていた。友達への手紙の宛名でのことだ。聞けば、10歳前後になるクラスの女子が手紙などでそう書いているからという。
親が教えたことがすべてであったころは、遥か昔になってしまった。子供ながらに、親や教員など大人だけでなく、友達や漫画などの影響を共有する自分の文字社会ともいうべきものを持っているようだ。この宛名に付く助詞「へ」の書き方は、私が小学生の頃にも見たことがある。懐かしさが出る気がするので、今でもたまに使うという女子学生もいる。
これは、教科書にも辞書にも新聞にも、載ることはまずない。いわゆる変体仮名として位置付けられたこともない。しかし、確かに世の中には存在しているのであって、実は性別や年齢によって使用に傾向性が存在する位相文字として、気になっている。そば屋などに貼ってある芸能人や作家などのサイン色紙にも、縦書きでも横書きでも、宛名の後に同様に記されていることがある。この場合には成人男性であっても用いるのは、筆記素材・内容を含めた場面というまた位相の一種が働いた結果であろう。
この形の平仮名(カタカナにもこの形があったのだろうか)は、いつごろから現れたものなのか。こういう深い意味が意識されない素朴な現象は、実はなかなか答えを見つけにくい。友達へ回す気軽な手紙などというものは、博物館にも通常は収蔵されないだろうし、即座に、あるいは何かの折に当事者によって処分されてしまうもののようだ。「へのへのもへじ」(「へへののもへの」などとも)のような落書きに用いられる文字絵のほうが、まだ江戸時代の記録がいくつか残っていて、その来歴がある程度まで辿れる。こうして、細かなことを交えつつ縷々ブログに書きつけているのも、実はそうした事柄を何とか記録に残しておきたいという気持ちがそうさせているのかもしれない。
人生の先輩の方々と向かい合うひと時も、大切な経験となる。その形の「へ」は、「相手に失礼になるので、使いません」という意見をいただいた。若年層の特に女子にも、そう聞いたという者がある一方で、渡す相手を見て、飾りとして親愛の情を込めることがあるそうだ。なるほど、ただの勢いで加えていたら、そう広まるものではないだろう。「〃」の部分を「ハートマーク」に換えて「
」と書かれることもある。確かに、ハートのような記号的な感じで「
」を使用していたという女子もいた。そうしたなかばデコレーションとしてのアイテムではなく、漫画で描かれる表情の影響なのか、頬が赤く照れている感じを描いていると感じる人も意外といて、遊びを超えて主に告白に用いる、キスマークに当たるとまで考えを及ぼす男子もいる。絵文字のハートマークも、男子には思いが倍加され、曲解される傾向があるので、要注意かもしれない。
アクセント、アクセサリーだけにワンポイントということなのか、1本だけで「ノ」とする人もある。何も考えずにただ流行にのっただけという人もいれば、相手に届ける、切手のような役割という意味を伝えたくて、という女子の声もある。その人のためだけに、という意味だったのかな、と改めて思いかえす人はやはり女子であった。友人としての感謝とか、特定のあなたに限定で送るという感じとか、敬意、丁寧さを表すとかいう男子もいた。
ただ、「〃」の部分に込められた思いは様々なようだ。小学生も高学年になるころから中学生になるころには、校内で怪しげな噂も飛び出す。「
」は、好きな人、親密な人にではなく、縁を切りたいくらいに嫌いな人に対して書くものだ、と。私もそのくらいの歳のころ、クラスで聞いたことがある。ひねくれていたのか、そんなのは後から考えられた、意外性を求めたへそ曲がりによる嘘だ、というように思ったものだ。
しかし中には、宛名の「へ」に「〃」が2本どころか10本くらい書かれたものが送られてきて、落ち込んでしまったとトラウマのようになっている男子もいた。「〃」は同じという意味をもつ繰り返しの記号だと思う人は稀である。「へ」の「〃」の上部にハートマークを載せて、それが白抜きであれば好意、黒く塗りつぶしてあれば敵意を込めていたという女子もいる。たいへんな手間で、陰湿にも思えてくるが、それが矢印になれば、天使の矢のようなものをイメージして使う者も出てくる。
ともあれ、その他者への宛名に付けられる、呼びかけのような部分に対する、もっともらしい風評を契機に、キライな人への「絶交」の意や、もっとひどい、この世からいなくなってほしいという感情などは抱いていないとして、この字から卒業していく者もある。「DEAR ○○」など、古くささのない斬新で、洋風にオシャレをアピールできる表現も身に付いてきて、そちらへの修飾に執心するようになっていく。
つまり、「
」は、プラスとマイナスと両方の正反対ともいえる意識が根底にありうるために、両極端の意味が併存してしまうものとなっているのである。
「へ」に加筆することで、手間をかけたぶん丁寧な気持ちが表しうる。ある女子小学生は、「へ」では大人っぽくってつまらない感じがして、必ずそう書いていた。やわらかくしたくて、何でもいいから加えたのではないか、ともいう。「拝啓」などの代わりの簡単な表現だと考える学生もいる。
「へ」が右下がりになるので、不幸せを願っているようで失礼だし、縁起が悪いので足したのでは、ともいうが、左側へでも下がることには差がない。右下がりは縁起が悪いので、ここでストップという感じでチョンチョンを入れるという女子もいる。文字霊(だま)信仰をもつ人はまだいて、縁起字(第51回・第52回「豆富」参照)という意識は一部でなおも顕在のようだ。
「文字のかわいらしさ」や「イケてる」感は、時代時代で微妙に移ろうが、時代ごとにそれを生み出す「自分のかわいさ」、「かっこよさ」にもつながる。受け取る側も、一般的な手紙のそれと異なるものを見て気が惹かれ、チャーミングでもあるそれを共有することで、互いに愛着を強め、グループ内での仲間意識も同時に固められる。
一方、仲を断つ縁切りは、その通常の文字の線を、鋭くもしっかりと切断しようとするように見える形から生まれた寓意であり、そもそも風聞を信じこみやすい日本人のうちでも、人間関係の機微を味わい、残酷さをもつ思春期の少女が、その働きを足を掬うかのように意外で極端な方向へと、変質させたものであろう。使うと書かれた方が死んでしまうので不吉、縁起が悪いとまで説かれるようになる。都市伝説の発祥とかかわる点もありそうだ(以下、次回)。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「あなたを迷わすスーパーマーケット?」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
漢字の現在:あなたを迷わすスーパー…
2009年 12月 10日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第53回 あなたを迷わすスーパーマーケット?
先日、急に中国の北方へ行くことになった。教え子の学位審査に招かれてのことで、「○」(博士論文となると「チェック」ではない 第37回参照)か「×」を慎重に書き込む役目となったためなのだが、初めての吉林省は冬の入り口にしてすでに氷点下15度の世界であった。
さて、その長春市内で、ある看板を見掛けた。

【長春市内のお店の看板】
「迷你(
)」(mi2ni3 ミーニー)で「ミニ」(英語mini)、「超市」で「スーパー・マーケット」。発音からの訳語と、意味からの訳語とが連なったもので、「ミニ・スーパー」という意味だ。
この「迷你」といえば、「裙」(qun2 チュン スカート)と熟合した「迷你裙」を思い出す人が少なからずおいでであろう。それが「ミニ・スカート」を意味するものだと聞いた日本人には、「さすが中国の人は、漢字を実にうまく使っている」と、感動する向きがかなりあるようだ。中国の人の「純情さ」に感心することもあったそうだ。中国語の入門書や雑学本のたぐいでも、しばしば「名当て字」のようにして取り上げられている。
この3字を見て、どのように感じられるかを、日本の学生たちに尋ねてみた。「ミーニー・チュン」のように読むこと、「ニー」は「あなた」、「裙」はスカートのことだとは説明した。すると、次のような回答があった。
・男を「迷」わす!(惑わす・誘惑する)
・「迷」という字のせいで、ミニスカートを批判しているように感じる
・「迷」の字があるから、気の「迷」いで身に付けるもののように思う
やはり、表記に用いられた漢字が、解釈に影響を与えるようだ。さらに、
・「迷」惑な格好というイメージ
・目のやり場所に「迷」うから
・まだ「迷」っている、若いの意味かと
・「迷」った時に使えるスカート
・はいてもいいのか「迷」っているため
・スカート丈が短すぎてどれか「迷」ってしまうから
などという意見もあった。小さい子が「迷」子になるから、見えそうでハラハラするから、何も利点がないのにどうしてはくのか理解ができないから、などほかにも漢字の意味をなんとなく、あるいは強く意識した回答があった。語を構成する字を視覚的に分析して、語義やニュアンスを見抜こう、考えようとする傾向が日本人にはけっこう強いことがうかがえる。
しかし、当の中国の人に聞くと、「その外来語に、漢字を当てた人は、意味まで考えたのかもしれないが、私たちはふだん何も考えずに、見たり書いたりしている」という趣旨のことを話してくれた。ミニスカートがかつての中国では珍しく、斬新な服装であったことは確かであるが、それは日本でもそう変わらないことであった。外国語を中国語に取り込むためには、音訳であれ意訳であれ漢字を介するしか選択肢がほぼなく、身近すぎてごく当たり前の存在である表記漢字について、とやかく顧みることすらないものとなっているようだ。
ほかの中国人留学生たちによると、実際に中国の人々は、「ミーニーチュン」という単語を、子供のころに耳から覚えるのだそうで、それが英語からの外来語とも意識しないうちに、聞き取って習得するわけだ。中国にはむろんカタカナがない。ピンインというローマ字も、きちんとした表記の場面では通常使用されない。
後になってから漢字による表記を知ることになるのだが、「あなたを迷わせる(惑わす)」なんて意味は、彼女たちによると別に読み取らないのだそうだ。誰に聞いてもたいていそういった答えが返ってくる。漢字は、中国では漢語の発音をさらりと表す文字として第一に機能している。日本のように、漢字の字体や構成、そして字義など目に頼ろうとする表記は、案外さほど意識にのぼってはいないのだ。
どうも日本人は、漢字について、こうした熟語であっても、「人」「食」「親」など単字であっても、字の意味を深く、とはいえ直感的に、考えすぎる習性があるように思える。一部でもてはやされる新奇な字源説についても、思い当たる点はなかろうか。「子供」などの表記の昨今の状況にもそうした節もあろうし、前回の「豆腐」についても、それは感じられるであろう。
漢字というものには、必ず深い意味があるはずで、それを読み取らなければ、という思い入れが日本では支配的であるようにも感じられまいか。それは、なまじ、ひらがな、カタカナという主に発音だけと結びつく表音文字と併用されていることとも関わっていよう。つまり、それらと比較すると、漢字は意味を強く担っていて、それが漢字にとって極めて重要なことだ、という意識にもよるのであろう。殷代以来、仮借が表記に多用されてきたこととは別の状況といえる。
また、漢字の永い歴史、複雑な字体と構成要素の組み合わせによる表現に対しても、一種の「かいかぶり」が生じていないだろうか。日本人は、中国の宗教や思想などに宿った神秘的なイメージに概して弱いようだ。中国でのそれよりも、さらに強いという可能性すら感じられる。時折巻き起こる「漢字ブーム」なるものの根底を支える意識の中心に、このような空想があるのだとすれば、そこからの実質的な展開は望みがたい。そこには、中国の人ならば、日本人と違ってきっと漢字を使いこなしている、という思い込みも重なる点があろう。しかし、中国の人でもやはり漢字は間違えることがあるし、そもそも辞書に載っている字であっても、読みも意味も知らないというケースも多いのである。
最初に戻って、「超市」は、中国における外来語に対する直訳であり、別の観点からはもちろん意訳といえる。凝縮された意味の表出機能を漢字が十分に発揮している典型例であり、それで熟語を形成しているともみられる。これと、上記の「ミニ」の音訳とは、実は截然と区別してとらえる必要があった。ミニスーパーが、「あなたを迷わすスーパー」という意味が込められているものかどうか、写真を見ていただければ、おのずと明らかではなかろうか(別の色々な意味で迷ってしまうことはあるかもしれないが)。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「腐」の字嫌いの拡大と他の漢字圏」でした。
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漢字の現在:「腐」の字嫌いの拡大と他の漢字圏
2009年 11月 26日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第52回 「腐」の字嫌いの拡大と他の漢字圏
「豆腐」を「豆富」と表記すること(前回)については、気付いていない人が案外多い。東京でも「くさる」を「とむ」に替えた「豆富」や、それを異体字に換えた「豆冨」は、もちろんスーパーや商店で、ときどき見掛けるようになっている。特に居酒屋などチェーン店のメニューでは、それらが席巻している感がある。
ただ、薄暗い飲み屋で、酔った眼ではそういうものをじっくりと読み込むこともなかろう。注文を決める行為は、表記に込められた作家の繊細な意図まで読み取ろうとするような小説の熟読とは目的が大いに違うこともあって、そうした表記が見過ごされることが多いのだろう。気づいても、しゃれと流せるような場面でもあるためか、意外と印象に残っていないという人が多いのだ。
むろん酔眼ではなくとも、「見れども見えず」の状態となっているのは、人が文脈を眺めつつ、一目で文字列を大づかみに理解し(字の込み入り方はさほど劇的には変化していない)、一つの語として意味を取っているためであり、それ自体は悪いことでも何でもない。ただ、なまじ文字の違いに気が付いて、「豆富」は「豆腐」とは全く別の品だろうと思い込んでいる人もいるので、せっかくの注文の機会を逸してしまうなんてことも起こる。さすがに店を代表する看板に、大きく記す店名にまで用いようとは、島根県外ではあまりならないようだ。
近ごろまた政策上の理由から変化をしいられた国立国語研究所だが、その所員で松江出身の方に興味深いお話をうかがえた。氏は子供の頃、「トウフ」は「豆富」と書くと思い込んでいて、実際にそう書いていたという(本当のことだからこの連載に名前も書いて良いとも言ってくれた)。教科書で「豆腐」という表記を見た時、なぜかと思ったという。
市内で、まだパックに入ったとうふなど、なかった当時、とうふ屋までとうふを買いに行っていたという。水槽の中で掌の上に載せて切り、僅かに角を崩しながら水中から掬う巧みな情景が目に浮かぶ。そうした表記と接触する機会の多い地理的に特色のある生活環境のなせるわざだ。理解表記の使用表記への遷移は自然に起こる。母上もどうして「くさる」なんだと、その「腐」の字について語っていらしたという。
「那覇」「京都」などの訛語のような存在である文字について、今までいくつも触れてきたが、やはりこうした俚言のごとき文字の方が一般には気づかれやすいのかもしれない。
「豆腐」と「納豆」は、名前だけが入れ替わったものだという俗説も、この字面にある「腐」への着眼の結果であろう。中国では「腐」に、やわらかい、ぶよぶよした、といった字義が生じていたともいわれる。一般の辞書には、「くさる」といった意味しか掲げられておらず、もし腐敗の意味を含まない用法による名称だとしても、それは原義から派生した結果か、比喩的に転用された結果なのであろう。
中国では、司馬遷が受けたあの「腐刑」としてさえもこの字が用いられた。それも意味は別であったとも囁かれることがあるが、ともあれ日本における上記のような漢字へのこだわりが中国で「豆腐」に発揮されることはなさそうだ。四川料理の「麻婆豆腐」も、本場ではそのままで、「豆富」は流行らない。現代の中国の人々は、そうした文字よりも先に「トウフ dou4fu」という語のほうを会話の中で耳から覚えるわけである。その発音に漢字をかぶせる、という感じらしい。そのためもあって、概して漢字というものをまずは中国語の発音を表す文字として、とらえようとする傾向がある。日本人が目にずいぶんと頼り、字義や字の醸し出す雰囲気をかなり重視することと大きな違いがあるように感じられる。
沖縄料理の「豆腐
(よう)」でも「富」に替えた新しい表記はあまり広まってはいない。また、韓国料理の「豆腐(두부 トゥブ)チゲ(찌개 鍋料理)」も、韓国内ではそもそもまずはハングル表記となっており、「ブ」(プ)とはどういう意味の語なのかという分析もなされなくなってきていることであろう。そして漢字で書くこと自体が稀となっているのだが、書こうとした時があっても同様だろう(なお、ベトナムでも「Đậu phụ」(ダウフ)として豆腐が食されている)。
それどころか、中国では発酵によって発せられるその特有の「におい」で有名な「臭豆腐」、水気と柔らかさが特徴の「豆腐脳」など、より直接的、即物的ともいえる語を表す漢字と組み合わせた名の食品が販売されている。それについて地元の人々に聞いてみると、そのネーミングにも漢字列にも何の違和感も感じられないのだそうだ。彼の国では概して明確な発想と表現が好まれており、それは良い悪いではなく、文化の根底にある部分のもつ差の一つの現れといえよう。
ただし、とうふではなく、ワインならばどうだろう。「貴腐ワイン」なんて記せば、「貴富ワイン」などとせずとも、前の字と後ろのカタカナ表記の語の効果が醸造のイメージとも重なり、マイナスイメージはすっかり打ち消され、逆に高級感すら感じ取れないだろうか。そう思ったら、「貴富ワイン」という表記も、語源を知ってか知らずか現れ始めている。「富貴」(フキ・フウキ・フッキ)を逆にしたようだ。
食品に過多に添加される防腐剤が問題になっているとも聞く。日本では、「腐」を避けることによる表記の変化は、まだまだ止まらないようだ。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「島根の「腐」らない「とうふ」」でした。
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漢字の現在:島根の「腐」らない「とうふ」
2009年 11月 12日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第51回 島根の「腐」らない「とうふ」
地方では、学会が始まるかなり前に、宿の外に出ることをここのところ心掛けている。島根県の松江市では、出雲大社や松江城など名所は前に行ったようにも思え、その城は遠くから見られればもうそれで十分だった。
宍道湖畔のホテルを出て、バスに乗り、また歩いてみる。そうしたことを繰り返す中で、山陰の「陰」の書きやすい異体字など、すでに知られたものが今でも看板などに多少は残っていることに気づく。

【松江にて】
珍しくほんの少しながら予習したことを活かしつつ、白「潟」天満宮(新潟で有名な「さんずいに写」を確認)、「鼕」(ドウ)伝承館、「淞」(ショウ)北台、「附」属中学に居並ぶ「付」属小学校など、気になるところを踏査してみる。ほかにもいろいろと特色ある字が目に入ってきた。
そして、会場の県民会館に向かう途中で、昔ながらの小さな豆腐屋を見掛けた。看板には店の名前に「豆腐」ではなく、「豆富」が使われている。松江では昭和38年(1963)の時点で、すでにそういう看板がやたらに目についたそうで、島根県豆富商工組合が豆腐のイメージをアップするために申し合わせた、“縁起字”ともいうべき文字を飾った当て字だとされている(斎賀秀夫『漢字と遊ぶ 現代漢字考現学』毎日新聞社 1978)。確かに、「腐敗」「腐る」の「腐」よりも、「富」のほうが高たんぱく、低カロリー、栄養価に富み、ヘルシーな感じさえしてくる。ダイエット食にもなりうるという向きもあるようだ。落語の「酢豆腐」ではないが、たしかに腐ればあれは大変なものにかわりはてる。何ごとにつけ、イメージに弱い日本人らしい。
こうした「腐」を忌避する意識は戦前から見られ、作家の泉鏡花は「豆府」と書き換えていたことも知られている。かつて鏡花肉筆の原稿用紙まで確認した学生もいた。「豆富」は、東京は台東区根岸の笹乃雪など、ほかの地域の会社や商店でも使っているところがあり(円満字二郎氏との会話の中でも聞いた覚えがある)、どのくらい古くからのことで、また他への影響はどの程度だったのか、気に掛かっている。

【右下の枠内に小さく「豆富」】
店名でのこの表記の使用実態は、明確な分布を呈する。ちょっとばかり手間がかかるが、以前にNTTの「タウンページ」のWEBサイトで、根気を保ちながら検索を続けたところ、やはり島根県だけが突出しており、特に松江市の店名では「豆富」の使用が「豆腐」を凌駕していた。地域表記が拡散した様子も隣県の状況からもうかがえて興味深いものがあった。全豆連という北海道から沖縄県までをカバーする全国組織において、島根県の先の団体は現在加わっていないようだが、中国山地を越えた岡山県と、同じ日本海側の富山県は、やはり「豆富商工組合」となっている。
島根県内のとうふ店の名では「豆富」が「豆腐」とほぼ同数あり、やはり実際にその地で使われていたことに感慨を覚えたが、忙しそうに立ち働く店のおじさんに、意味などについては尋ねそびれてしまった。

【広島のものにも】
最終日、JALが撤退しないか心配になりそうな出雲空港に戻る前に、小雨交じりの街をまたデジカメを片手に散策してみた。商店街がなかなか見当たらないので、地元のスーパーに入ってみる。とうふのコーナーでは、「豆腐」に混じって「豆富」という表記が店名に見つかる。東京よりもやはり目立つようだ。
別のスーパーでは、「豆冨」と「富」が異体字となって大きく書かれている。これは、お隣の広島産だ。これを島根土産にしようかと、手に取ってみると意外と底が厚く、体積も大きく、そしてずっしりと重たい。弁当にもしづらく、家に着くまでに、暖房で傷むかもしれない。やはり土産は、教え子が教えてくれた「若草」や出雲そばにして、そこでは写真を撮らせてもらうにとどめた(次回に続く)。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「使い込まれた「函」の形は…」でした。
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漢字の現在:「「宣」しくお願いします」
2009年 10月 29日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第50回 「「宣」しくお願いします」
この連載も、早いもので丸2年、合計で50回目を迎えた。何とか続けてこられたのは、中身にかかわる情報や温かな感想を寄せて下さる読者の方々や、ほぼ隔週で、しかも書きたいように書くことを許して下さる担当の方のお陰かもしれない。
さて、後期が始まり、学生たちの肉筆に再び直面する。
とくに新規登録の受講者たちは、いろいろなことばで挨拶を書いてきてくれるものだが、そこにしばしば付け加えられるのが「よろしくお願いします」というたぐいの常套句的な文言である。そこでは、、「よろしく」という部分に漢字を交えた場合、ほとんどの人たちが「宣しく」と手書きしてくるのである。ここのところ少なくとも10人ほぼ連続してそうなっている。
「宣」は音読みが「セン」、「宜」は音読みが「ギ」であり、両者は字体がたまたま似ているが別々の漢字である。常用漢字表では、それらの2字に対し、いずれにも訓読みを与えていない。つまり、「宣」の「のべる」はもちろん、「宜」の「よろ-しい・よろ-しく」も、表外訓なのである。そのため、学校の国語の授業で教わることも通常はなかろう。今回の常用漢字表の改定でも検討は経たものの追加される方向にはない。ただ、現実にはあちこちで使われてもいるために、学生たちも目で何となく文字列を把握し、既知のなじんだ文字で記憶しているのであろう。2つの字が混淆したような各種の字形も、なぜかとくに男子に散見される。「ギ」と読ませる場合でも「宣」と書いてしまうケースもある。
ここまでは、手書きで生み出される「宣しく」について述べてきた。「漢字の現在」をあえて(?)斜めに見ているような連載であるが、現代の、いわば現在進行形の現象として、電子情報機器での状況に触れておきたい。
”宣しく” をgoogleで検索してみた結果、約65,100件がヒットした(2009.10.15現在)。この表記へのメタレベルな指摘や言及も含まれてはいるが、文章中に普通に使用しているページが次々と出てくる。なお、ちょうど半年前に検索した時には(4.15)、約7,830件と表示されていたのだが、これは何らかの原因で実際の使用が激増したということではなく、何かの事情で数値にこういう変化が現れたまでではなかろうか。
パソコン上の画面においては、小さなフォントでは互いに区別がしにくいこともあろう。入力された「宜」を見て、「宣」だと誤解したり、それによってさらに自己の理解字としたりするといった循環も起こっていることが想像される。
「よろしく」という入力を経て、そこから仮名漢字変換をした結果だとすれば、変換辞書ソフトに何らかの不都合やミス(バグ)が生じているのであろう。あるいは、「よろしく」には現実に「宣しく」と書くことも多いから、と変換候補に潜り込ませているものも出てきかねない状況はあるのだが、今のところ、この語に関してはそうではないのだろう。あるいは、手書きパッドのたぐいで入力されたページもあるのではなかろうか。OCRを介しての誤入力も個々の事情から含まれている可能
性もある。とある電子辞書版の和仏辞典では「宣しい」と出る、と学生が見せてくれた(一方、「よろしく」は「宜しく」)。OCRで紙面を読みこんだ誤入力が残っているのだろうか。また、「よろしく」と打って、変換してみて、「何で私のパソコンでは「宜しく」なんていうおかしなのしか出なくて、「宣しく」とちゃんと変換してくれないのだろう」と、かつての「ふいんき←漢字が出ない」と同様に疑問を持つ者も、種々の類例からみて、なくはなさそうだ。
パソコンに限らず、携帯電話であっても、手書きでは書けなかった漢字が入力されることがある。10年ほど前になるが、手書きでやはり「宣しく」と間違って書いていた人が、メールでは「宜しく」と送信していた。これは、「よろしく」で入力した結果だという。また、別の人は、メールに、「宜しく」ではなく「宣しく」と打ってきた。これについて尋ねてみたら、「字数の制限があり、かつ「よろしく」では変換されないので、「宣」を「せん」で入力した」とのことだった。そして、「「宣」は中学で同級生の名前にあったので、印象深いが、「宜」はめったに使わない」とのことであった。これは、単漢字しか変換できない当時の機種では起こりやすかった誤入力である。実際に、携帯電話のメール機能では、かつてはそういうレベルの機械が市場に出回っていた。
こういう実例から、「せんでん」でわざわざ「宣伝」と出してから「伝」を消すなんて人もいるのではないか、もしかしたら、「よろしく」で出てくる「宜しく」をわざわざ直す人や、「宣しく」と単語登録している人までいるのではなかろうか、とも思えてくる。
「宜しく」という表記を目にして、しっかりと習うことがないために、「大人の書き方」というふうに感じて、うろ覚えのまま、よく使う「宣」かなと記憶に残り、ついに自分の手書きで使ってしまう。そういう習得から使用に及ぶケースが多いのではないか。
仮名漢字変換の出現と急速な普及によって、同音語の誤入力は増えた一方で、この類の誤字は一般に消え去ったとの言説もあるが、人の実際の書記行動は、個人の経験やイメージだけで一括することは困難である。
現代の日本人でも、平仮名書きよりも漢字で書かれたもののほうが、正式な感じがする、という意識が色々なところで残っているように思える。手書きでは、複雑な漢字で記した方が丁寧に感じられる、という意識も介在する。「よろしく」と「宣言する」、というような俗解が、その背景には重なっている可能性もある。
かつての活版印刷でも、著者などの原稿の手書きの筆跡が編集者、校正者、文選工、植字工などの手を経て、目をかいくぐり、そのまま活字となって「宣しく」となる誤植はあった。また、JISの調査のために、『国土行政地名総覧』を通覧していたときには、、「萱」(かや 草冠に宣)という字が「萓」(草冠に宜)と活字で印刷されている小地名にたびたび遭遇した。後者はその存在によってJIS第2水準に採用されていたのだった。以前より、「宣」「宜」の両字は混同されることがあった。手書きと活字と電子機器とで、現れる現象は同一であっても、その原因、さらに産出のプロセスに変化が生じていると考えられる。
こうした類形異字同士のいわば通用は、歴史上しばしば見られたが(「已」「己」「巳」など。第26回参照)、同音異字の間に発生する通用とは異なり、なかなか公認されるまでには至らないものである。
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2007年









