漢字の現在:秋田の「ふぶき」の造字
2013年 5月 10日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第271回 秋田の「ふぶき」の造字
以前、勤めていた大学の学科は、すでに改編されてなくなってしまった。さらに近年、女子大学から共学へと変わった。その大学を定年で退職された先生から、お葉書を頂いた。近世期の古文書を研究され、翻刻し刊行もなさっていらした日本史がご専門の先生であった。かつて、時に車内などでご一緒する機会に恵まれ、私には読めないような崩し方についても、翻字の仕方などを親しくお教え下さった方であった。

お便りに、秋田のとある日記をご覧になっていたところ、「
(風中は雪)」と書いて、吹雪を表す造字があったと教えて下さったのである。今年上梓した小著『方言漢字』に目をお止め下さっていて、そこに触れた秋田などの「轌」(そり)の字と共通する、雪国で必要とされる造字であったと思えば、方言漢字の裾野は歴(林を抜いてあるのはさすが、位相文字である)史的にも考察の対象となる、とお考えになったとのことで、とてもありがたく拝見した。
この「
」といういかにも日本的な国字は、以前に『国字の位相と展開』においてまとめて述べたように、江戸時代には秋田藩の記録で使われていたものとは認識できていた。しかし、その日記にも出てくるということは寡聞にして知らなかった。そして、そこでは「
(颱台は雪)」という形でも使われている、ともご指摘くださった。この字体は合字になった初めの段階であろうか。本当にありがたい。この日記はすでに活字本で9冊も刊行されているようだ。原物を見てみたいという気持ちがはやってくる。
そもそも私一人が漢字で記されたすべての文献を目にできるはずがない。それに近視と乱視に遠視(老眼?)まで入ってきたようだ。ただ、先づ隗より始めよ 、というかの気持ちで事に当たっているところだ。あれがない、これもない、と責める声だってどこかから出てきてもおかしくない(そういうものが仮にあると、それはそれで調査研究を強めるエネルギーになるのだが)。
さすがは学識が深く、懐もまた広い先達には尊敬するばかりであった。偶然、その日記でお見かけになったとおっしゃるのもまさにご謙遜であろう。そういう史料に普段から目を通されればこその発見である。内容を読み解くだけでなく、そこに立ち止まるための眼力ももちろんお持ちでいらっしゃる。励ましのための過分なおことばには、もっと頑張らなくてはと気持ちを新たにさせていただいた。私も定年後には、このような敬服すべき人になっていられるだろうか、少し心配になる。
吹雪が吹き荒れ、その語をよく使う当地では、吹雪は重要にして不可欠な概念である。そして日記ではその気象現象に関する筆記の機会の多さ、使用頻度の高さから、ついに合字を生み出し、あるいは選び出して、それが地元の人々によって共有されるように習慣化していったのだろう。この字は古くは連歌に現れたものだった。地方への連歌の伝播との関係など、巨視と微視との双方の観点から、興味が尽きない。
全国的に見られる「木枯」は、「凩」という国字を中世期に生みだし、これは各地で使われるようになった。よく使うものが当事者によって簡易化されるのは、生活用品、略語や頭字語、そして略字に限ったことではなかったのである。
愛媛のご高齢の方からも、新聞での小著の紹介でお見知りくださったとのことで、「峪」を「がけ」と読ませる字を用いた愛媛の名字と、「肥沼」をコエヌマではなくコイヌマと読ませる名字について、お葉書をいただいた。
こういう一つ一つの実例の情報が実にありがたい。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は北京の食堂ででした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2381漢字の現在:北京の食堂で
2013年 5月 7日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第270回 北京の食堂で
中国の方から話を聞いてショックだったのは、規範化されていない字が使われていないか、1年に1度、スーパーにまで検査が入るという話だった。地方でもそうなのだろうか。「規範化された漢字と普通話」を推進するスローガンは、上海などでよく見かけた。前記のようないわゆる第2次簡体字など規範的でない字体を商店で用いてしまうと、罰金を取られてしまうそうなのだ。
現在、文字は、精神面だけでも人を解放するものであると信じたい。社会的な認知を伴えば文字も変化を受け入れられるはずだ。文字が仮に過去のように抑圧の働きに転じるならば、文字に託された生命力は減退していく恐れがあるだろう。
簡体字は、そもそも民間の使用例から選ばれたものであり、完成品ではなかったと思う。しかし、すでに変化を止める力が公的に作動している。いや、人々が変化を求めなくなっているという現状も、中国での簡体字への微修正案に対するパブリックコメントからうかがえた。南方では、学力の問題から正式ではない字体が多い、と囁く声も聞いた。が、やはり首都、お膝元だけに漢字政策の力は強かった。こうしたことも、漢字字体に地域差を生みだしているのだ。

さて、学士院に当たるものが社会科学院とのこと、社会科学と聞くと所属柄親しみを感じるが、少しニュアンスが異なるようだ。
中国には「終身教授」という身分もあるそうだ。韓国の方にいただいた名刺には「研究教授」という少し羨ましそうな肩書きもあった。
中国の「超高教授」のお部屋に案内された。ホテルの部屋が違う、広々としていて高級マンションのようだ。ご著書をいただいた。日本で読んでいたものだが、サインまでいただいてしまった。
「教育部 21世紀優秀人才」「優秀博士論文」などランク付けのようなものが数々あり、また「・・・奨」(賞)という表彰のようなものがたくさんあり、研究課題にも格付けがあるそうで、中国では研究者も苛烈な競争社会にあり大変そうだ。
北京市街地で、食堂を探す。北京といえば北京ダックだが、行ったところには意外と芳しい店がないそうだ。街中で、案内をしてくれる中国人と見かけて入った食堂は、看板に四川、湘風の料理とあった。湘はここでは「湖南」を指す。
トイレは外だった。公衆の建物に入ると、隣でウンウン声がするので、右下を見るとおじさんがしゃがんでいる。これがいわゆるニイハオトイレか。中文にいた学生時代に噂に聞いていたが、実見したのは初めてかもしれない。北京でも、とびっくりした。北京語言大学に入ったときも、図書館のそれはこれに近かった。日本で子供のころに、公園の塀を乗り越えて裏の敷地に忍び込んだときに、昔の縄付きの汲み取り式便所を見たときを思い出す。
店に戻ると、香ばしく焼けたパリパリした皮を食べる。肉がもったいないと思っていたが、蒸した肉もここではいただけた。とても食べきれない。鳥の姿焼きは、少し目に厳しい。
メニューには、
豆腐脳
とある。これは脳のようではないが、脳にも見える。比喩だ。次のは、さらに凄い。
撒尿牛丸
尿を含まない食品にあえて「尿」を持ち込んでいる。日本では、化粧品売り場の「尿素」の「尿」という字さえも気になるという人がいる。大陸はストレート、というばかりではなく、 食べ物の比喩にまで意外なものを持ち込むのだ。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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252b漢字の現在:北京市街の略字
2013年 4月 30日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第269回 北京市街の略字
白い空気は、霞か煤煙か。目がちかちかしてきた。北京は、東京より湿度が低いぶん快適だが、これは少々辛い。
さすがは中国の首都だけあって、ここに手書きの看板や貼り紙がとても少ない。文字の姿がフォントで画一化されている。筆字のようであっても、それさえもフォントによるものがほとんどなのだ。きれいだがなんとも味気ない。ほかにはドット文字も多く目に入る。日本以上に、画一的なデザイン文字の世界にあるのだ。

実は、中国の人たちの筆跡による手書き字形もそういう面がある。台湾の人の手書き字形と容易に区別が付く。既製字だらけの状況は、電子化の進展だけが原因ではなさそうだ。
歩く中で、やっと民間で育まれている異体字を見かけた。
この単独で記された字は、「信」の略字であろう。同じように、おそらく異なる筆跡で、何か所にも使われており、集団と場面とによって出現する位相文字のようだ。
かつて朝鮮では、これが別の字として使われていたという優れた発表を旧知の中国人が行い、使用を実証していた。まだまだ文献には、掘り起こされる日を待っている字が眠っている。
この字体は、中国を挟んでまた国境を越えた、遥か南方のベトナムでは、「儒」の異体字であった。会意風に再構成された異体字であり、通俗的な使用という位相面に着目すればベトナムの俗字、画数を減らした点に着目すればこれも略字といえる。
「佛」を「
(イ+天)」とする会意文字は、中国から朝鮮へ、ベトナムへ、日本へと伝播していたが、その字体の応用であろうか。漢字のことをベトナムで「儒字」と呼んだことと発想に類似点も感じる。
北京の街中で、さらに見つけた。
これは、「停」だ。この略字も形声風ではある。手書きでは、やはりあるにはあった。「餐」も日本よりも高頻度に用いられるため、最初の5画しか書かれないものがある。これらにも位相性を感じる。
四人組失脚後に試行されたいわゆる第2次簡体字は、簡体字政策が定着した後のものであり、簡易化も行きすぎであって一般に不評とのことで廃止された。しかし、一度は公的に出回っただけに、一部で根深く定着したようだ。地方出身の人の字かもしれないが、確かに北京市内でも用いられている。
「辦」(ban4)は、中国では辦公室(オフィス)、辦公楼(オフィスビル)などとしてよく使われる字である。簡体字では「力」を点々で挟む4画しかない簡易な形となった。主な箇所を元のまま残す略し方だ。「辯」護、「辮」髪は、中国では逆に「言」「糸」の部分だけが簡体字とされている。これらは不統一のようだが、おのおのの字の使用頻度の多寡に起因する差なのだろう。「辨」(辧)と「瓣」はそのままになっている。
日本では、辯護士も辨理士・辨務官も花瓣も「弁」(元は、かんむりを意味する)で代用され、当用漢字によって公認された。日本では、それ以前にはわりと珍しかった、音通による代用を追認したものであった。「辮髪」にまで「弁」による書き換えを及ぼす書籍もある。
日中ともに、この「辛」で挟む漢字の処理を一括して行うことはできなかったのだ。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は地下鉄でした。
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2449漢字の現在:地下鉄
2013年 4月 26日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第268回 地下鉄
高速鉄道は「高鉄」と略され、以前、大きな事故があったが、皆利用しているとのことだ。中国国内の一部でしかまだ走っていないが、その速さをしても5時間かけて移動ということはざらだそうだ。
かつて上海-杭州間の高速道路を、自動車で3時間かけて飛ばしてもらったものだが、今では道や橋ができたとか鉄道が通じたとかで近くなったそうだ。20分ちょっとで着いてしまうようになったと留学生たちは言う。
北京市内の駅名を眺めると、漢字ではあるが日本とは違う。
長椿街 ツバキではなく、チャンチンか霊木を指すのだろう。
木
(木+犀)地 2字目はシー(xi1)。木犀(モクセイ)のことで、木偏は付けなくても良いが、固有名詞としては付いている。
五
(木+果)松 2字目は量詞(助数詞)で、五本松といったところだろう。
「胡同」の2字も見られた。フートンと読む。もとはモンゴル語であったのは、さすが北方の地である。元朝の首都だっただけに深く定着し、こうした駅名や地名に息づいているのだろう。かつてはこの2字を「行」で挟んだ造字による表記も行われた。
ただ今やフートンそのものが開発によってほとんど失われたそうだ。北京も急速に変わったという。そう語る50代の方々は、文革で相当な苦労を経験しているという。
「女人街」は香港にもあるが、北京にもできていた。女性向けの服などがたくさん並んでいる。
地下鉄で、吊り革の広告をふと見たら、女性の写真があり、その名前には見たことのない漢字が小さく印刷されていた。

つまり「幕」の草冠を「冖(わかんむり)」に換えたものだ。
最初、「冥」の音「ming2」かと思った。中国の人たちは「min4」かという。ローマ字では「MI」とも書いてあった。女優だろうか。日本でも数学で使うことがある「冪」(ベキ 覆い)の簡体字だった。「くさかんむり」を省くところがどことなく日本的ではない。日本では、それもあったかもしれないが、江戸時代の和算以来、数学の世界では「内」のような字体、「巾」や、それらを組み合わせるなどの略字化が行われてきた。集団や場面に限定される位相文字と見ることができる。どこを省くか、抜き出すかに差が感じられる。
日本円を人民元に換えたい。しかし街中での両替は、厳重な銀行の窓口のようなところに行く必要があり、手間がかかる。買い物は海外での醍醐味なので、書類を埋めて並んで待つ。
本屋があるが、入れば絶対に本を買いたくなってしまう。買い込んで、人民元が足りなくなったこともあった。書物はたまると重いし、かさばるため旅行鞄に入りきらなくなる。帰りに空港のカウンターで、20キロぐらいオーバーしていると言われたこともあった(なぜかおまけしてくれたのは、ありがたかった)。
日本で買うよりも断然安いといって面白そうな本をついつい買ってしまった。日本で片付けてみたら、すでに持っていたというものも何冊かあった。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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22ba漢字の現在:中国地名の方言漢字
2013年 4月 12日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第267回 中国地名の方言漢字
日本で一度お会いしていた中国人の先生が意外なことに同い年であると分かった。相当上だろうと見ていたのだが、外国人に限らずそういうことが増えてきた。
発表で話す中国語が明らかに「郷音」の人たちがいる。ことに寧波(ニンポー)など、独特な発音で有名で、同じ呉語とよばれる方言に属するが、「寧波の人と話すくらいなら、蘇州の人と喧嘩した方がましだ」といった諺まであるそうだ。院生の「ニーハオ」も、声調がとても低くて、他の地の人たちがからかっていた。若い人でも意外と訛りが残っている。北京師範大に、わざわざ普通話を学びに来ている人もいるそうだ。中国では、大学教員になる際にも、普通話の力について点数まで付けられ、審査されるのだそうだ。「方言萌え」なることばさえも流布する日本では考えにくい状況にある。
「めちゃくちゃ訛っていた、笑いたくなる」と中国の東北地方出身の学生についての声もあった。東北のことばは北京語よりも標準的と言われるが、広いこともあって常にそうとは限らないようだ。
広東語のような特異な地域漢字(列)はほとんどないが、北京の人たちにも独特な訛りがある。バスを取り仕切る20歳くらいの女性の車掌が、「後辺児」、「ホウバール」と大きな声で言った。「hou4 bian1 ホウビエン」がer化して、「ホウビアル」となり、さらに口語の発音に変わったものだった。同行してくれる女性は、これにも「頭が痛くなる」という。トリリンガルの彼女は、韓国でもソウルのことば以外はだめだそうで(逆に釜山の人からするとソウル方言は女っぽいそうだ)、テレビの「方言彼女」なども日本らしい価値観らしい。そして、香港よりも台湾の方が発音が正しいという。
厚い予稿集が3冊もあり重たい。目次とページとで、ズレが生じているのは、これだけたくさんの原稿が並べられていればまあ仕方ないことだろう。カメラマンも、座席の前を普通に通る。この大陸の地では、日本があれこれと気にしすぎなのか、とも思ってしまう。狭い部屋で発表中に携帯電話が鳴り響く。そのまま話し出す人もいた。

地名漢字についても発表があった。「湾」の「さんずい」が「土」に替わった方言漢字が、南方で小さな地名にけっこう使われているのだ。規範化の波と、習慣の根強さが交錯している。中国でも、こうしたものへの関心があることに共感する。
概して地域文字には、共時的にみると、語との関係は、
1 普通名詞や動詞など非固有名詞を表記
2 1+固有名詞を表記
3 固有名詞だけを表記
という3種が存在している。
通時的(歴史的)には、1から3へ、3から1へと動くものも見いだせる。名字にも使われるものならば、人とともに他の地域へより大きく移動する可能性をもつ。
参加者に韓国からの研究者が多いため、中国語の後に韓国語訳が付く。拍手のタイミングが難しい。韓国語は、座席で隣の人とひそひそ話をする際に、濃音は適しているのかもしれないが、激音は、さすがに響く。中国語にも有気音があるが、それよりも強く聞こえる。こちらでは、そもそもそういう時でも無声音ではなく、声に出してわりときちんと話すようで、それもほとんど気にならないようだ。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
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2fb8漢字の現在:中韓の姓名
2013年 4月 2日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第266回 中韓の姓名
もう少し、中国系の人たちの氏名を眺めておこう。
愛媛 隣にいた中国の人は、良い名前だという。日本の「えひめ」とたまたま一致している。 宇 この字が名前にあり、男かと言うが、現れたのは女性だった。中国人でも、名前の漢字から性別を外すことが案外ある。 奇 この字も、日本では稀になったが、こちらではなおも名前に用いられる。劉少奇は「奇」が少ないとも読めたが(実際には「少」は4声なので若いといった意味)、「恒奇」という名は、きっと良い意味なのであろう。道教や易を学ばないと漢字は分からない、それらを学ぶことが漢字を知る上で重要と話してくれた。 一男 名前からは日本か北朝鮮の人かと思ったが、中国の人だったようだ。 珍 女性の名にも使われている。部首の玉(ギョク)は宝石である。希少価値が珍であった。玉偏の「珍珠」は日本では「真珠」。
住所が「山西大學教師宿捨」となっていたのは「舎」の誤変換か(簡体字を繁体字に直すソフトのせいであろう)。繁体字の名刺は珍しい。「武漢市瑜珈山」とあるのも、「珈琲」以外では珍しい用例だ。中国の北方では、最近、「口偏」でなく日本風の「珈琲」も見かけるようになったそうだ。福禄 男性のおめでたい名前だ。 湘龍
(簡体字)テレビのテロップで見かけた名だが、「湘」とあるだけにやはり湖南の人だった。地名からの命名だろう。日本の湘南という地域の呼称もここが起源であり、日本では「湘」の字は神奈川での使用が多い。 嘉嘉 テレビで女性の「主持人」の名前にあった。愛称、芸名のようにも見えるが、下の名前か、あるいは「嘉」は姓にもあるため、もしかしたら本名のフルネームかもしれない。 軍 日本では名前にはまず使わない字だが、こちらでは女性でも用いる。 霞 紅い雲の意で、日本のカスミではない。日本では、カスミを食って生きているという良い方があるが、国訓のいたずらであり、実際に仙人が口にした(とされた)ものも、カスミではなかった。
韓国の人たちの姓名にも、よく見ると個性がある。スポーツ選手でも政治家でも「眠」が入っているものを見たことがある。ここで見た予稿集などから挙げてみよう。
洙 スと読む。音と、世代ごとに五行を含む漢字を順に付けていくために好まれているか。 喆 「哲」の異体字。中国の方にもたまに見かけるが、やはり韓国人と間違われていた。 載 日本では、名前に稀である。 嬉 かつてニュースとなった金嬉老(キンキロウ・キムヒロ)はすでに亡くなっている。「うれしい」は国訓。 血 この字は名前には縁起が悪いと中国人も驚いていた。きっと意味があるのだろう。「犯」もスポーツ選手名で見たことがあったが、これは、キリスト教徒で原罪を犯しているためとのこと、やはり中国人も驚く例だ。ただ、日本でも、「美血男」とかいう方がたまたま献血の仕事をされているというような「名は体を表す」を地で行く新聞記事を読んだ記憶がある。

私も名刺を出す。東洋の儀礼なのかと思っていたが、案外携帯していない人も多い。裏面を見ても白紙なので、読み方がないといわれた。何と読んでもらっても良いのが日本の(ほとんどの戸籍上での)人名ではあるのだが、ここでは「笹」は中国語としては読めないためのようだ。「世」(shi4 シー)の音で中国語の先生は読んでくれたが、広東語も教えていた先生はずっと私だけ「ささはらさん」と出席の時に読んでいた。こだわりはないが、慣れは恐ろしい。
「俗読」といわれ、いわゆる百姓読みで「世」と類推によって読まれたり読んだりしてきたことに気づく。ただ、金文にも「笹」と隷定できる、ササとは無関係の「世」としての用例があり、早くに高田忠周もそれに気づいていたことを近ごろ知って驚いた。『中華字海』は今、大改訂中だが、初版には字義が全く異なる「
(尸+世)」(ti4 ティー)と同じとされたため、どちらの発音がよいのかと漢字がご専門の先生から尋ねられた。
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早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は中国の姓名の漢字でした。
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2924漢字の現在:中国の姓名の漢字
2013年 3月 27日 水曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第265回 中国の姓名の漢字
北京でのその研究会では、「乱」に異体字が55種類あるという質問者もいた。また、シンガポールやマレーシアに行くと、華僑らによって繁体字、簡体字、独自の文字が入り乱れているようだ。
言語文字の専門紙(報紙)の記者か編集者も来て、名刺を渡していた。編集は日本とは立場が違い、書評まで行う。そして中国の研究者はとにかく精力的だ。国家の予算の規模も違うそうだ。
中国の若い研究生(院生)が発表したことに対して、中国の著名な先生が途中で漢字の読み方が違う、そして終わった後には新しい内容がなかったと叱責なさっていた。健全な姿であろう。具体性がない場合、よほどの論でないと説得力を持たない。漢字はきれい事や空論では済まないものである。かといって、個別具体の例に振り回されてもいけない。新発見を求めないような発表は、独創性に欠け、確かに続けるのが苦しそうだ。

いくつかの発表に、日本の「常用漢字表」が紹介されるが、1945字となっているなど古い。2135字となっているのは惜しかった。ただ、字種だけの相互比較は、用法や表の性質、各言語での表記体系の現状から見てそもそもあまり意味を持たないのだが、やはり気になる。日本は、中国から見ると韓国よりも一層遠く映る、距離が感じられる国であるようだ。
こうした会には、学ぶ点も多い。刺激的であるし、交流も持てる。
中国語のレジュメでは、「等」の使い方にあいまいなところがある。複数ある例をすべて列挙し終えていても付けるようだ。日本では、公文書などで安全弁としても機能している。
パワーポイントは、撮影をするタイミングが難しい。これで最後かと思うと、行が末尾に追加されることもある。では、まだあるかと待っていると、すぐ次に変わって、先に行ってしまうこともある。急いで何枚も飛ばすものもある。
休み時間を経て、名刺など溜まっていくが、写真が付いていないと顔と名前が一致しにくく混乱する。この名刺は、中国語では「名片(ミンピエン)」、韓国語では「ミョンハム(名銜)」と、漢語の2字目がまちまちになっている。
今回、参加した150人中、日本人は私だけらしく、名前が唯一4字で突出してしまっている。中国の少数民族の姓名のようだ。本来は訓読みという人も私だけだ。
そんな中でも、氏名には特徴や傾向が見られた。ここに挙げてみよう。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「串」(くし)は中国製?でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
252c漢字の現在:「串」(くし)は中国製?
2013年 3月 19日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第264回 「串」(くし)は中国製?
「串」の話は、心の準備もないまま、参加者全員の前での「大会報告」という位置づけになっていた。しかし、25分を「不超過」(超過しない)、制限時間はきちんと守るようにとのことだ。時間が過ぎると、中国茶を入れた湯呑みを、司会が蓋で叩いてカンカンカンと鳴らして圧力をかけるのである。私は、時間のことも気になって前もって準備をしたが、結局は壇上でケータイの時計を取り出せなくなって、あとは長年の勘で話すはめになった。それでも運良くぴったりに終わらせられた。少し通訳の方のことも考えて、しゃべるところに下線を引き、合計25分ぶんの見当にしておいたのが役立った。細かい話も交えつつ、なるべく明確な例で順序よく筋を示そうと努める。そこでは字数などは数えてもしかたがない。
それでもその「串」の発表後に、何人もの方がお話しに来て下さった。発表では細かいことに触れざるをえなかったが、おおむね興味を持って頂けたようだったのは幸いだった。辞書をたくさん見て大変だったでしょうとねぎらわれるが、辞書は整然と解釈までまとめられていてまだ楽だ。文字の動態をとらえるために実際の使用例を見つけつつ、辞書の位置も確かめていくのが研究者の腕の見せ所だ。文字・表記の面でも完璧とよべるコーパスが早くできてくれると良いが、それでも資料の位置を確かな目で個々に確かめ、意味付けをしながら並べていくことには変わりがない。たいへんだが目の問われるやり応えのある仕事で、いつだって時代や社会の要請にできる限り応えるのが学ぶ者の一つの使命であろう。
拙い話でもすることによって、それに対してさまざまな方がご存じのことを教えてくれることもありがたい。漢字研究者は日本と違ってここでは多い。異体字はもちろん、俗字までも関心を集めつつある。日常では漢字をやめつつある韓国でも案外おいでである。研究者も就職難だそうだが、まだまだ上昇中の分野となっているようだ。どうして現代の状況までなかなかメスが入らないのか、日本の現状が気に掛かってくる。年長の方々が日本では聞かれないようなことばを掛けて下さるのは、一人で東の辺境から来た外国人への社交辞令なのであろう。活字でのみ存じ上げていた文字学の先生から若い自国の学生を叱る傍ら、「哲学がある」と過分なおことばを頂いたが、どの辺にそれが感じられたのだろうかと、逆に気になる。「漢字は奥が深いんですね」というようなことを韓国人の若い女性研究者が話してくれたのは、「蘊奥(うんのう)」など昔からある表現ではあるが、日本人によく聞かれるものと似た感想であった。
一仕事終わって、あとは現地の方々の発表をゆったりと聴ける。やはり、パワーポイントを使う人が多いのだが、皆がレジュメと同じとは限らず、手間をかけて別に一面ずつ作ってきた人もいた。レジュメが間に合わなかったのか、あらかじめ予稿集に出していない人も結構いた。時間を間違えて当日来られなかったという人もいた。大陸的である。事情があるという人もいれば、分からない人もいた。
そういう発表にはぜひ見たいものがあるものだが、北京案内のお誘いもまた断りがたいものがある。聞いておきたいが、いずれ論文になるだろうという声にうながされ退出する。しかし、部屋の鍵を確かめるために戻ってみた途中で、お名前だけ存じ上げていた韓国からの有名な先生に、エレベーター前でたまたま呼び止められた。せっかくお会いし、またこれから会場でお仕事をされるとのことで、しばし残ることになった。
発表時間は、一人7分と大変短い。それで湯呑みが叩かれるが、発表者はなかなか時間を守らない。もう時間が過ぎたと書かれた紙を見ずにどけて返し、大きな声で話し続けるとても元気なご老人もいた。こちらの研究会は、なんだか活力を感じさせる。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「串」の字の本場でした。
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23d7漢字の現在:「串」の字の本場
2013年 3月 12日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第263回 「串」の字の本場
「中国時間」というものは、かつて学生時代を過ごした文学部での「中文時間」で、なんとなく把握していた。「沖縄時間」など、地域によって約束時刻の捉え方や時の流れの感じ方に差がある。が、会議の時刻となって、急に人が集まってきたと部屋に電話が入る。秘書のような仕事まで買ってでてくれる中国生まれの教え子なしでは、やはり中国は苦しい。いろいろな意味でのアウェイにおいてありがたいのだが、本業があるとのことで最終日まではいてもらえない。この研究会では、150人くらいの前で話す。日本人は会場に私だけ、フランス人もお1人いたが、中国文化にすっかり溶け込んでいる。
私も最初くらいは中国語で、と念のため原稿をチェックしてもらう。時節柄、礼儀だけはしっかりと表現しようと努める。「此」(ツー)はci3と書いておいたら「chi3」(チー)だという。北方の彼女が間違えるはずがないが、そんなはずは、と言うと、電子辞書ではなく、WEBの「百度」で確認してやっと、「ci3でした」と認めてくれた。反り舌音は、はっきり発音しない人がいるから大丈夫とのこと、さすがは大陸的だ。論文集の中にある「趨議」(原文では簡体字)の意味を確認すると、中国人でも知らない人がいて、少し安心した。
壇上で話を始めたその途中に、ワードファイルを会場の画面にも映すようにと接続しに人が上がって来た。確かに中国では、発表では、予稿集とは別に、パワーポイントを準備してきて、会場でもプレゼンテーションのように巧みに使う人が多い。

中国語の対応箇所を、通訳してくれている最中に探して、カーソルで示す。予定外の操作が加わって忙しい。レジュメではなく、参加者は意外にも頭を上げて、前の文字を見ているものなのだ。うまく時間通りにあいさつまで含めて行儀良く終えられた。「時間がないので」というような前置きがときに聞かれる。無論そう言った方が丁寧となる場面では、しかたなく言うが、たいていはそれこそ時間がかかってしまうし、時間が少ないなりにはしおって話せば済むことなので使いたくない。
「串」という字について、日中韓に及ぶ漢字圏の歴史を調べた結果を話した。文献を掘り起こしていくと、この字がクシという意味をもつようになったのは、従来の説の日本とは限らなかったのだ。
今の中国でも、再び「羊肉串」と使っていると示すと、聴衆の真剣な表情からやっと笑みがこぼれる。こういう現実に使われているものは、やはりどこの国でも興味がくすぐられるのだろう。
ちょうど前日に、北京の街なかで見た「串
(口+巴)」(串バー)のことも話してみた。社会言語学というほどではないが、路上観察を疎かにすることは惜しい。ことばの研究者であっても、焦点とする専門が違うと、もうそこの理解に差が生じるもので、驚かされることがある。
「串来串去」という店名の看板も見かけた。同音の「穿」の意だという。試しに偵察しに店に入ってみると、炭で焼いたものを手でもって食べさせる店だという。また夜に来る、といって上手に付き添いの人が言ってくれた。
東京でも、焼き鳥も考えてみれば串を使う。おでん(漫画ほどではないが)も、そして牛肉でも串刺しはなくはない。大きい場合は、日本でも「丳」のごとくに2本刺す。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は中国の漢字2でした。
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2860漢字の現在:中国の漢字2
2013年 3月 8日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第262回 中国の漢字2
北京首都国际机场(北京首都国際空港)に迎えにきて下さった中国人の先生に「「串」の発音は? 意味は?」と尋ねられる。調べるといろいろあるために、中国語の通訳に困るそうだ。日本に滞在経験のある親切な方だった。中国の大学も、現在は日本と似て、何かと大変だという。
ただ中国では、若い人も古典、つまり漢籍を読むのが好きなのだそうだ。もちろん、簡体字に置き換えられて活字に翻刻され、句読点を加えたり注記がなされたり、あるいは現代語訳(漢字の量は倍増する)されたりしたものだろうが、時代の連続性が漢字によって保たれている。文学作品に限らずそれらの文字資料の電子化も、人海と機械によって圧倒的な速度で進められており、WEB上で享受する人も多いのだろう。

路上では看板に「
(金3つ)」という字がここでも見られた。店名や人名なのだが、価値観云々だけでなく、表現の明確さがはっきりと現れている。「控股」「合股」のように、日本語の漢字からはとても意味を当てられない語も普通に使われている。「千万」は日本では「笑止千万」のように使うくらいだが、中国では、qian1wan4(チエンワン)と読んで、くれぐれも、必ずという意味でよく使われている。ちなみに韓国では「천만에요 チョンマネヨ」(どういたしまして)として、日常会話に登場する。「北京」は漢字音で「プッキョン」となるが、「香港」は「ホンコン」と広東語による英語風の発音を用いるのが韓国語である。「延吉」という地名を「연길(eon gil)」とハングルで表記した看板も見かける。北京はその名のとおり北方にある。
北京で開催された漢字についての研究発表会では、漢字に関する商品開発をしている社員や書家(芸術家)も発表されていた。これは、日本よりも発表者の幅が広い。
私が書いた日本語原稿では、不覚にもある古書名で「証」と「證」とが混在して使われていて、不統一となってしまっていた。中国語訳はと見ると、ともに簡体字となって統一されていた。さすが、そんな細かな差には目もくれない。そもそも日本語を理解してくれる漢字研究者は、中国では極めて限られている。

原稿の名字「鮎貝」が「鯰貝」に変えられていた。変換ソフトで自動的に繁体字に直すと、こうなってしまうようだ。「鯰」は国字とされることが多いが、唐代の本草書にあったことが日中の古書への引用文からうかがえる。それが日本でのみ使われ続けて佚存(いつぞん)文字のようになり、近代になって中国へと里帰りしたものと思われる。「鮎」は簡体字でさらに「
(鮎列火がー)」となっていれば、その字体から意味が分かるだろう。ここではナマズの意になると考えたいが、今の中国では、政府の基本方針に合わないのだが意外と繁体字も流通しているので、字体だけを基準とした判断は危なっかしい。
「サワ」一つとっても、「沢」と「澤」と「
」(簡体字)と漢字圏で三様に分かれて、おおむね1億人、1億人、13億人の目に日々入っている。字体の統一という理想論がときどき語られるが、読みや字義の差を抜きにしてそれが達成されるとしても、日本の字体が代表に選出されるとは思いにくい。字体統一は、夢物語のように感じられる。
「異体字」という用語は、中国の学界でもすでに普通に使用されるようになっている。正字が軸の対極にあるとするか、正字も俗字なども含めた相対的なものとするかなど、定義が使用者ごとにはっきりしない面があるのだが、中国では、漢字には「標準」というものが明確に存在するという意識が新たにも生まれているので、前者であるようだ。これは江戸時代からの和製漢語と考えられている。
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笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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